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漫画とか映画とかドラマとか、距離感あるんでない?って話。

小学生の頃テレビを見るのが好きだった。夕方早く帰ってきた時にニュース番組の前にやっている再放送のドラマや、サスペンスを楽しみにしていた。金曜日の夜は夜更かし出来るから深夜帯に近いようなドラマを見たりもしていた。鮮烈に残っているのが『リッチマン・プアウーマン』というドラマ。 『失恋ショコラティエ』も懐かしい。サウンドにとても惹かれた。日向さん!となかなかくっつかない2人にヤキモキし、薫子さんの立ち位置を応援していた。ここまで書いて自分はもしかしたら石原さとみが好きなのかもしれない、と思ったりもした。

ドラマを見ることは少なくなった、しかし映画やその原作に興味を持つようになった。と言ってもマイナー映画を知っているとか、映画館に通いつめるとかそういったことがある訳では無い。だからこそ、映画が好きとは言いづらいとも感じるが、最近では『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で猛烈に泣いた。私はカヲルくんシンジくん推しだが、予告も何も見ず出来るだけ何の情報も持たないで行ったらその日の午後何も手につかないくらいにはガンと響いた。泣くことは分かっていたがここまで胸を締め付けられるとは思っていなかった。
『愛がなんだ』も去年の夏頃に観たものだがとにかくこれも泣いた。原作を読み泣いて、映像を見てさらに泣いた。「テルちゃん…」とその心に切なくなり、「ナカハラくん!」と彼に自分を重ねたりした。

印象に残っている。
ここでのしんどい、決して嫌いという意味ではなく、私にとっての意味合いは「自分と重なる」や「当事者の気持ちを感じる」が近いかもしれない。周りの人に同じ作品を見た時に感想を聞くと同じしんどいという言葉でもまた違ったニュアンスがある。

「もしかして、距離が違うんじゃないだろうか。」
展開がしんどい、関係性がしんどい、見ていられないくらい辛いだとか、本当に様々だが、距離感がどちらかと言えば客観的な位置で見ている人と作品の中に近いところで見ている人の差ではないかと考える。もしくは距離感は同じでも見る位置が異なるのかもしれない。見る位置が違うことが感想や抱くもの、その後に残るものの違いになる。同じ「印象的な作品」という感想を抱いていてもどんな印象はどこを見るか、どのような位置づけで見ていたか、によるのだろう。

この作品を見ると塞ぎ込んでしまう、逆に明るくなる、文字にしろ映像にしろ美術作品にしろ感受することが出来る人間だからこそ持てるそのものではないだろうか。感覚器官から入ってくる情報どれかを何も無く断ることは基本的には困難なことであると思うが、そうした感じたことを受け止めるかどうか、その程度もある種その人のアイデンティティの成すものとも考えられる。千差万別、個々の目があるからこそ「面白い」という視点が生まれるのだろう。

作品を観ることは楽しい、と感じられる所以はここにあるのかもしれないと何の気なしに思った。

「漫画とか映画とかドラマとか、距離感あるんでない?って話。」

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