見出し画像

”作品が生き続ける”の意味

前回は2ヶ月ほど、今回は1ヶ月ほどnoteの更新間隔が空いた。

私がnote上でうんともすんとも言わない間にも、”スキ”を付けてくださる方がいらっしゃった。その”スキ”をいただくタイミングは、大体「あ〜かなり更新空いちゃったな、もうやめようかな」と思った頃が多い。まるで狙ったかのようであり、『やめるもんじゃないよ』と言われているようだった。

その”スキ”の中には、私が自分は書かないものの、読む専門になって”スキ”を付けた方がお返しでしてくださるものもあれば、全くはじめましての方が付けてくださることもある。

前者後者どちらも嬉しいのだが、後者はより強く喜びを感じるし、同時に緊張感もより一層である。

後者は、今現在動き続けている私の作品を見てくださっているわけではなく、過去の自分を見てくださっているのである。作品が私の代わりとなって、読んだ方の心の琴線を振るわせてくれるのである。その現象を行為として表すのが、noteでいうところの”スキ”であると私は思っている。

作品として残すということが独りよがりな行為でないことを教えてくれたのは、大学のゼミの教授だった。

大学4年生の時、卒業論文を執筆した。私のいた学科は卒業論文を書かずとも、単位数さえ満たしていれば卒業することができた。なのに私は、教授と母親から押しに押されて自ら修羅の道へと足を踏み入れた。

そもそもの”文章”を書くということでつまづき、さらにろくに勉強してこなかったということが災いして、私の卒業論文執筆は手こずりを極めていた。

そこまでの3年間、自分が分かるように講義のノートをとっていたので箇条書きのオンパレード。さらに、堅苦しい文章ということになれば、隠せるものではないのに少しでもボロを出さないようにと1つ1つ確かめるように文章を細かく切ってしまう。

教授に赤を入れられながら、少し論文らしくなってきたように思えても今度は内容が支離滅裂になってしまう。何度も嫌になって、教授と共に疲れ切ってお互いに不機嫌オーラをぶつけ合ったこともある。

疲れ切った私が不意に放った「なんでやらなくていいのに、やるって言っちゃったんだろう」という言葉に、教授はこう返した。

「君が生きた証になりますよ、君が死んでもこの論文が残ります。そしてこの学校に在学して、学んだ証にもなります。」

その時は「ふうん」と聞き流していた言葉の意味が、自分が考えてこの世に出したnoteへの温かいリアクションを通して腑に落ちた気がした。

よく、著名な方が亡くなったときに、親交のあった方が「彼・彼女の作品を愛してあげてください」と言う。

その作品を作りあげる過程や葛藤は受け取る側に見えない。だけど、その作品を作っていた一瞬一瞬の中に、強い心の動きや喜怒哀楽がある。

作品を見返せば、作り手は「この場面を作っていた時は辛かった、あの場面は楽しかった」と、受け手は「この場面、私も同じことを感じたことがある。あの場面は私にはない感情だった」と、互いに感じ取れるものがある。そのことを教授と、noteが教えてくれた。

だからこそ、作品を作る時は嘘のない気持ちでいるぞと思っているし、新鮮な気持ちで誰かの心が震えるものを作り続ける。

作品は私そのものなのだから。

(Photo by ia19200102、Thanks!)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?