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父が他界①~理解してほしかった

 先日、父が他界しました。
 病気を伴いながら定年まで勤めあげ、その後も70過ぎまで嘱託で働くことができ、入退院の繰り返しとなったリタイア後でした。
 3.4年ほど前までは、自治会の有志でゴルフや麻雀をしたりと、寂しくない生活を送れてはいたようですが、サラリーマン時代のお仲間は次々と亡くななっていったようでしたので、挨拶する間柄もなくなっていき、親族のいる実家の地から離れて暮らし続けてもいたので、簡単に戻って会いに行くというのもできず、私含めた家族ともコミュニケーションは元から下手でしたので、身内と接すると言う事もありませんでした。

 まだ葬儀は行ってません。
 コロナ過でもありますが、そういった状況でもあり、お金に余裕もないので、家族だけで葬儀無しで行う事にしました。

 数日前から書いているのですが、かなり長くなり、何度も書き直しをしてますが、どうにもしっくりこない為、簡単に序文めいて書きました。

 亡くなった事を書くほどではないのですが、どこかに留め置いてないと忘れてしまうのが怖くなっているのと、父への思いが沸々とこみあげてきているからです。


 私が父に対する思いは、「理解してほしかった」事です。
 昔から迷惑に感じており、何とか再就職もでき、一つの場所で勤務することが出来て、やっと普通の生活ができたなと感じたのが40くらいの時。
 その頃に20年ぶりくらいに、家族で食事をするようにもなりましたが、結局はある事で瓦解し、その時から実家に戻った際に顔を合わせても、私は背けてさっさと帰宅するようになりました。

 コロナ過となった翌年に、直近企業を急に退職して無職となった自分。
 母との間柄も自分も父もよくありませんでしたが、これまでの事を罵声を放ちながら母に説明して、生まれて初めて「ごめん」と言ってくれたことで、母とは仲直りのような形となってます。本当は、お互い怒る気力もなくなってきたというのもあります。

 無職となるも翌月には職が決まりましたが、会社に行ってもほぼ人がおらず、残業もないので孤独部屋に居るのも辛くなり、ほぼ毎晩実家に戻って夕食を取るようになりましたが、父とは合わせないように母が取り繕ったくれていたので、食卓とドアを挟んだ部屋で、何かする音やラジオの音が聞こえてはいましたが、亡くなるまで、もうこの頃は一切顔を見ることなく、最後に見たのは危篤となった病院となりました。

 最後の数年は、入退院の繰り替えしとなってましたので、実家にはいない事が多かった事から、単身赴任中のごとくの感じでした。
 ですので、亡くなったとは言え、実家に戻ってもいない事にあまり違和感のない状態です。

 この数年は、母も父も早めの夕食を取るようになっていたので、私の夕食時には、父はドアを閉めて部屋におりました。
 今はそのドアが開いたままがらんとした部屋となっており、目を移す度にどうにもやりきれなくなってます。
 かと言って、どこかの時点で改めて顔を見て何かしておけばよかったとも思えないのです。
 私の年齢からすれば、子供が大きくなっていてもおかしくない年齢です。
 ですから、既に独立して、数年は実家に行ってないという方もおられるでしょう。実際叔父叔母も祖父が亡くなった時は、数年帰省してない時がありましたし。
 ですから、そういった方からすれば、「急な事」であるわけですが、もう独立しているのが普通でしょうから、自分の家と家族がいる事で、「親がなくなるのも当然」とごく普通に受け止めて、最後に見送ると言うのが、ごく普通の生活の一部であるかのように私は感じます。

 しかし、私の場合、実家近くにおり、毎週帰省していたのが、ほぼ毎晩帰省するようになっておりましたので、少し違う感覚となってます。

 「再入院していない時は、確かにその部屋に居た」。
 「再入院していても近くの病院にはいる」。
 そういう感覚でした。

 ですが、もういないわけで、骨となって帰ってくるだけです。
 大きな家ではないので、数歩歩けば骨壺です。

 心の整理がつかないのです。
 「さみしい」というのが、1つ追加されもしてしまっているからだと思います。

 ここまで読んで頂いて、「なんかおかしくないか?」と思われても仕方がないのでしょう。
 自分中心になっているからだと思います。

 互いに譲れなかったか、諦めていたというのがあるように感じてます。
 終わっていたわけですが、しっくりとしてない今の自分。

 どこかここ数年で、再度顔を合わせて思いのうちを話せばよかったかもしれませんが、元々心臓が悪く、透析を受けるようにもなり、体力もなくなってきていた父と面と向かって話すのは、彼を余計に疲れさせるだけでもありましたので、まず無理だったでしょう。

 ある時で「終わっていた」のが正解だったのかもしれません。
 あるいは、自分が先に死ねばこんな思いをする事はなかったかもしれません。現に休職を何度かし、それまでも疲弊続きのサラリーマン生活でしたので、良い思い出があまりないのです。

 5年以上はまともに口を利いてませんでした。
 その前も数年、何度か口を利く事がありませんでした。
 その為か、父の声を思い出せません。
 既に亡くなった祖父母や、何十年も有って無い同級生の声は思い出せるのにです。


 何度か入院を繰り返すようになってました。
 書いた後に追記ですが、思えば入院した時に会いに行って話すのも有りだったなと、今になって対処を考えだしてます(コロナ過では無理だったようですが、それ以前にも何度か入院したので)。
 そういう行為を取ろうと考えも当時はできなかった。
 完全に毛嫌いしていたからだったのかと思えます。

 それでも、同じサラリーマンで、お互い順風万端なサラリーマン生活を送って来れなかったからこそ、先輩として相談相手になって欲しかったのですが、大した答えも出てこない人でもあったので「どうせ話しても」と言うのが根底にあったからでしょう。

 それでも「理解してほしかった」です。

 周りに相談する相手がいない自分でもあります。
 幸いに道を開いてくださる方は、その時々においておりました。
 必ずしも身内が最適な道を開いてくれるわけではありませんが、最も近かったのが知人や友人よりも私にとっては身内でした。
 でも、心が遠かったのが身内でもあったわけです。
 幸いに母とはいい関係になってます。



 ここまで読んでくださってありがとうございます。
 是非コメントを頂ければです。

 葬儀が終わったら、これまでの経緯や、初めての身内の葬儀でバタバタしている事から、葬儀前後の事柄を書いてお役に立てればと考えてもいます。
 ですが、心の整理がつかず、駄文になりかねなくもなります。

情報提供や考え方、そしてこれまでの苦々しい経験での対価として、ありがたく頂戴致します。