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【短編小説】会いたいとか言えないから

「まだ冷えるねえ」
 ぷしゅっと軽快な音を立てたと同時に、彼女が口火を切った。織江は適当な相槌をうちつつ、先ほどまで食べていた麻婆豆腐の残り香を掻き消すように安い発泡酒を流し込んだ。

 冬と春の境目で、まだ季節を移りきれない冷たい風が頬を切る。
 ふたりは缶ビールを片手に繁華街に背を向けて歩き出した。

 残業が確定した瞬間、飲みに行こうと誘ったのは織江のほうだった。仕事がうまくいかなかった時、相手を食事に誘い出すのがいつからかふたりの暗黙のルールになっていた。
 19時には終わらせるので、とチャットを打った直後からクライアントのくだらない長電話に捕まり彼女を1時間待たせたのはいつものこと。
 オフィス裏の小汚い中華料理屋で薄いハイボールと麻婆豆腐を掻きこみながら仕事の愚痴をぶちまけるのも、今日こそは白米を食わないぞと誓ったくせに結局ふたりとも大盛りを頼んでしまうのも、これもいつものことだ。
 そして、帰り道のコンビニで調達した缶ビールで乾杯をして、ひと駅分歩いて帰るところまでがひとセットなのだ。

「いやあ、ほんとうに私たちはよくやってると思うよ」
 茜がビール缶を睨みつけながら口を尖らせた。
「辞めずに残ってるだけでボーナス満額欲しいくらい」
「満額……なんて今まで出たことありますっけ」
「ないない。何かと理由をつけていつも減額されるのよ」
「わたし、ボーナスで買いたいものあったんですけどね……」
「甘いねえ、織江ちゃんは。取らぬ狸の皮ならぬ、もらわぬ弊社のボーナス算用。期待する方が無駄なのだ!」
「そんな、胸を張って言うことじゃないですよ」
 くだらない話を繰り返しながら、ふたりは歩みを進めていく。

 織江と彼女、茜の関係をひとことで言い表すのならば「同僚」だ。織江の二度目の転職先で出逢った、変に気の合う同僚。
 茜は織江より歳がひとつ上で、新卒のころからこの会社で働いているらしい。転職して来てからすぐ、彼女が織江に仕事を教えてくれていたこともあり、こうしてふたりで酒を飲みにいくようになるまであまり時間を要することもなかった。

「でも、茜さんと飲みにいくの、なんか久しぶりですよね」
 毎週のように顔を合わせて飲みに行っていたころもあったというのに、前に最後に飲んだのがいつだったか、あまり正確に思い出せないほど期間が空いていたらしい。
「最近、声をかけようと思ってももう会社にいなかったりしますよね。結構早く帰ってません? 仕事ちょっとは落ち着きました?」
「あぁ、いや、うん。そういうわけではないんだけど」
「ですよね。夜中にチャット投げてるの知ってますんで」
 彼女の仕事が落ち着いているわけではないことなど、織江がいちばん知っていた。夜のうちに社用携帯に溜まり続ける通知は、8割が茜の投稿によるものだった。

「どうして最近は早帰りなんです?」
「家でごはん作ってるから」
「家でごはん? 茜さんが?」

 最終電車の時間まで残業して、毎晩デスクでカップ麺ばかり食べていた彼女が、最後にはそのカップ麺の中におにぎりまでダイブさせて炭水化物の塊のような夕食をとっていた彼女が、家で料理しているところなどあまり想像できたものではなかった。

 うーん、となぜか茜は歯切れが悪そうだ。
「そうだなぁ、織江ちゃんには伝えておこうかな」
 茜は不意に歩みを止め、こちらに顔を向けた。伝え方に悩んでいるのか、視線を方々にやりながら、口元をもぞもぞと動かしている。

「わたし、結婚する」

 遠慮がちに開かれた口からはストレートに「結婚」の2文字が飛び出した。行くあてもなく突いて出てきたその単語は、ぽとりとアスファルトに落ちて染みになっていく。
 へえとか、はあとか、何かを言わなければと思ったが、何を返すのが正解なのかわからなくなってしまった。まっすぐにこちらを見つめてくる彼女を、ただ沈黙のままに見つめ返すことしかできない。

「いま、彼氏の家で一緒に暮らしてて。プロポーズされたから、来月には入籍して引っ越しする予定なの。会社にはまだ伝えてないから内緒でお願いね」
 手元のビール缶に視線を落とし、茜は伏し目がちにそう続けた。
 その顔が、どこか申し訳なさそうにしているのはなぜだろうか。胸を張って祝われるべき出来事なのに。

 そうか、そうだったのか。再び歩き出しながら、織江はひとり納得した。
 突然定時で逃げるように会社を後にし出したのも、業務中のため息の回数が増えたのも、ちょっと疲れているように見えるタイミングが多くなったのも、恋人ができたからだったのか。

「そっかあ、知らなかったなぁ」

 白状をすると、結婚どころか茜に恋人がいることすら知らなかったのだ。
 9時から18時までずっと一緒に仕事と向き合って、その後もこうして延長戦ができるくらい、背中を預けて闘える相手だと信頼しきっていた。
 その相手の、いちばん大きな身の回りの変化にさえ気づかずに接していただなんて。

「隠すつもりもなかったけど、話すタイミングもなくて」
「絶対いっぱいあったじゃないですか」
「うん、まあ、そうなんだけど。でもなんか言いづらくて」
「なんで? 女子同士の恋バナなんて、いくらでも盛り上がれる最高の酒の肴なのに」
「だって……」

 茜は何かを言いたげな様子で、歩く速度を落とそうとしているが、織江はそのことに気づかないふりをして、一歩ずつ駅の方へと足を進めていく。

「彼氏ができたって言ったら、織江ちゃん、どうしてた?」
 駅が近づいてきて、再び周りががやがやとうるさくなりだした。
「どうもこうも、おめでとうございますって言って酒を奢ってたくらいですかね」
 織江の返答に対して茜が何かを言ったが、喧噪にかき消されてうまく聞こえなかった。織江もあえて聞き返さなかった。

「じゃ、茜さん反対側のホームですよね。わたしもうすぐ電車来るんで」
 歩みを止めてしまった茜を置いて改札を抜ける。くるりと振り返ると、悲しそうな顔をした茜がこちらをまっすぐ見つめて手を振っていた。

 酔うと、全部表情に出ちゃうんだよね。いつだか茜が笑って言っていたっけ。仕事がうまくいかないと泣いていた夜や、くだらない冗談に心の底から笑ってくれていた表情が、走馬灯のように織江の脳裏をかけめぐる。
 なんであんたがそんな顔してるんだよ。

「結婚おめでとうございます!」

 雑踏の中でも必ず届くよう、少し声を張り上げる。小学生のように飛び跳ねて手を振ると、茜は手を振り返しながらぷっと吹き出して笑った。

  ◆

 夢を見ていた。登場人物も、場所も、内容も、なにひとつ覚えていない、概念だけの夢。
 目覚めた瞬間にすべて忘れてしまって、心の中に残っているのはもやもやとした切ない感情だけだ。

 電車に揺られながら、手のひらから落ちそうになって慌てて掴んだ携帯は、茜とのトーク画面を表示していた。
 酔いがまわって少しだけぼんやりとした頭で画面を見ると、どうやら昔の履歴を遡っていたらしい。

 初めて連絡先を交換した日。そのまま飲みに行って意気投合したいつもの中華料理屋。仕事の愚痴。プライベートで遊びに行こうと約束して、結局は休日出勤に潰されてしまった映画館の上映スケジュール。

 ——彼氏ができたって言ったら、織江ちゃん、どうしてた?
 茜の声が脳裏にこびりついて離れない。

 どうしていたもクソもあるわけない。織江にできることはただ茜の選択を祝福することだけだ。いったい、何ができたというのだろうか。茜はこんなことを尋ねて、何と返して欲しかったのだろうか。

「……結婚しないでほしいなんて、そんなの言えるわけないじゃん」
 マフラーに顔を埋めて誰にも聞こえないようにつぶやく。酒の匂いが充満して、気持ちが悪い。


 ほんとうは、結婚なんてして欲しくなかった。
 許されることならば自分が彼女のいちばんの存在でありたかった。どこぞの誰かもわからない、突然現れただけの男ではなくて。

「酔っ払っちゃったなぁ」

 平常心を保っていたつもりだったが、アルコールに支配された脳では、何も考えることができない。酒を言い訳にして思考を放棄しては、茜が見せた悲しそうな表情を、そして最後に見せてくれた笑顔を思い出した。
 あの無邪気な笑顔を、心の底から愛していたのに。

 織江は携帯を握りしめなおし、トークルームに文字を打った。

 やっぱり、今すぐ会いたいです。男の待つ家になんか帰らないで、ふたりでずっと星を眺めて、お酒を飲んで、もっといろんな話をしようよ。茜さんのことをもっと話してよ。わたし、茜さんのことが……

 途中まで打ち込んだところで電車が最寄り駅に到着し、織江は慌ててホームに降り立った。
 電車のドアが閉まり、冬の夜風が火照った頬に突き刺さる。そのするどさに思わず身震いをした。

 改札を出て、人波から少し外れたところに立ち止まり、手元の携帯を見る。感情を丸出しに書きなぐった文字を消して、当たり障りのない文章を再度打ち込む。
 どうあがいても彼女のいちばんにはなれやしないのだから、せめて「同僚」という関係だけは手放さずにいたい。
 そのくらいのわがままは、許されるだろうか。

「今日はありがとうございました。ご結婚おめでとうございます。驚きました。でもこれからも変わらず、また飲みに行きましょー!」

 それは、織江が彼女に伝えることのできる精一杯の告白だった。

(完)


最後までお読みいただきありがとうございました。

以降、あとがき部分は有料です。
特に何があるわけでもないので読まなくて大丈夫ですが、面白いと感じていただけたら、応援の意味を込めて購入いただければ幸いです。

※このお話はフィクションです
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