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映画の予告編で泣いた日

 活字中毒だけど、本を読んで泣くことはまずないです。感傷的な作品が苦手なので。号泣とか、日本中が泣いたとか帯に書いてある本は、本能的に避けています。

 感傷的な小説は苦手だけど、感傷的な音楽は割と好きです。本だと、読むのに時間がかかる分、設定の矛盾やなんかに突っ込んでしまい、醒める。
 でも、音楽はダイレクトに心に響くので、センチメンタリズムがむしろ心地良い。
 仕事でストレスがあった頃は、物哀しい音楽をわざと聴いて、メランコリーにひたっていました。サイモン&ガーファンクルのバラード集とか、サミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』とか。
 お酒を飲むよりも楽なストレス解消法だと考えていました。

 でも、いつだったか、『ソプラノズ』というドラマを観ていたら、主人公の妻が、ペディグリーチャムか何かのペットフードのCMを観て泣くシーンがあったんですね。可愛い子犬がじゃれているようなシーンでした。主人公の妻は目を真っ赤にして……そこではたと気付く。「ペットフードのCMで泣くなんて、私、どうしちゃったの?」と。で、病院に行く。
 どうやら、更年期でホルモンバランスが崩れていたらしいんです。

 それを観た時はまだ若かったので、「そんなこともあるんだな」と思っただけでしたが、自分が彼女の年齢に近づくにつれ、あのシーンを思い出すようになりました。
 人工的にメランコリーな雰囲気を生み出して、ストレスを発散するのはいいけど、限度がある。
 子犬のCMで泣いてしまうほどに涙腺がゆるんだら、心身の不調を疑った方がいいのだと教えてもらった気がします。
 
    *

 幸い、まだCMで泣いたことはないけど、タイトルに書いたように、映画の予告編で泣いてしまいました。
 『フラッシュ』の予告編です。
 『フラッシュ』は、DCコミックのスーパーヒーロー。スーパーマンやバットマンの仲間です。超高速で走れる能力がある……時には、時空を超えて別の宇宙に行ってしまうほどのスピードなんですね(文字にしてみると、相当荒唐無稽ですが)。
 映画のフラッシュも、時空を超えるようだという話は知っていました。一応、理論物理学の多元宇宙論に基づく話です。村上春樹さんの『1Q84』と同じだと考えて下さい。この世界と1Q84の世界。一見、この世界と変わらないように見えるのだけど、詳しく見ていくと微妙に違う。
 月が二つあったり。
 キャプテン・アメリカが女性だったり(これは、マーベルコミックの多元宇宙)。

 アメコミで多元宇宙論が多用されるのは、一つには、日本とは違い、コミックの作者がよく変わるから。同じタイトルでも、作者によって世界観や設定が違うので、リセットするたびに、別の宇宙での話、となるのだと思います。
 また、例えば、歴代のスパイダーマンを勢揃いさせたい時には、時空を超えて、他の宇宙からスパイダーマンたちがやって来たことにすれば、わかりやすい。
 昭和時代のウルトラマンの家系図なんて、謎すぎますよね。養子? ウルトラマンより先に生まれたのにウルトラマンゾフィーと名づけられた?
 この世界にはウルトラマンがいて、別の世界にはタロウがいたという設定にしておけば、21世紀の子どもにも納得してもらえたのに。
 
 話が大きくそれてしまいましたが、映画『フラッシュ』では、フラッシュが別の宇宙に行く。そこで、別のバットマンに会うという話も先に読んでいました。
 この世界のバットマン=ブルース・ウェインは、ロバート・パティンソンなのかな(『フラッシュ』には多分出演しないけど)。
 ロブが演じる前にも、何人かの俳優がバットマンを演じているのですが、そのうちの二人、ベン・アフレックとマイケル・キートンが出演するらしい、とアメコミ界隈の噂で聞いていました。
 
 実は、今のバットマンが誰なのかもよく知らないほど、DCコミックの映画からは遠ざかっています。
 マーベル映画は子どもと観に行けますが、DC映画は、未成年向けではないかなという判断があって。
 でも、キートンが出るなら、映画も観たいし、予告編もチェックせねば。

 そう考えて、予備知識をたっぷり蓄えた状態で、『フラッシュ』の予告編を観たのです。

 キートンが出演するのを知っているのに、キートン版の『バットマン』のテーマが流れた瞬間に泣いてしまいました。

 大学を卒業するまでは、アメコミなんて存在さえ知らなかったのですが、好きなミステリ作家がコミックの原作を書いていると知って、バットマンに興味を持ったのがはじまりです。でも、当時はコミックの翻訳がなかったので、映画の『バットマン』(ティム・バートン監督版、主演がキートン)をレンタルしたんですね。

 大富豪なのに、コウモリのスーツをまとい、顔を隠して、悪人たちと戦うブルース・ウェイン。
 ブルースが顔を隠してバットマンになるのは、生きづらさを抱えているからだとわかりました。
 ブルースが本当の自分になれるのは、バットマンの仮面をかぶる時だけなのだと。

 次に借りた続編の『バットマン・リターンズ』には、キャットウーマン=セリーナ・カイルが登場します。
 ブルース・ウェインは、大富豪で、街の大物でもある。人に囲まれ、重要な仕事をこなしていても、それでも、「これは自分じゃない」という違和感を持ち続けています。
 それに対して、セリーナの方は、誰にでもできる地味な仕事をし、友人も家族もいない。自分に自信が持てず、ポジティブになろうとしては、かえってドツボにはまるようなことをしでかしてしまう。ぎこちなく、死んだも同然の毎日なのです。
 ブルースとは対照的な生活を送っているセリーナですが、彼女もまた、ブルースとは別の意味で、「これは私じゃない」という思いを持ち、生きづらさを抱えています。
 自分の意思でバットマンになったブルースとは違い、セリーナは、顔を隠した存在になるしかないところまで、追いつめられるんですね。他人に強いられた道だけど、キャットウーマンとなることで、セリーナは自分を取り戻すのです。
 ブルースとセリーナ、生きづらさを抱え、ダークヒーローとして生きる二人にあんなにも感情移入できたなんて、思えば、当時の私も生きづらさを抱えていたのでしょう。彼らの中に自分を見ていたのかもしれません。

 『フラッシュ』の予告編に流れる、バートン版バットマンのテーマ曲を聴いた瞬間に、ブルースやセリーナのこと、彼らの映画に励まされた昔の自分、素顔をさらしているのに、仮面をつけている気がしていた日々を思い出して、涙が出てきた…のかも。

 あの涙は、カタルシスの涙だと思っておきます。
 『フラッシュ』は観ない方が良さそうだけど。過去は、思い出の中にあるから美しい。代わりに、パティンソン版の『バットマン』を観ようかな。人が仮面をつける理由は一つではないと理解するために。


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