#0165【貴族と武士の土地争い(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本史通史シリーズです。

前回、鎌倉新仏教を取り上げました。新しい思想が生まれた背景には、権力の中枢が京都の貴族たちから鎌倉を中心とした武士たちに移行していたことが挙げられます。

当時の日本の富の源泉は、開墾された土地(荘園)という生産設備から生まれる農作物です。これらを元に経済が成り立っていました。

武士たちの悲願は、貴族たちにしか認められていなかった土地の私有、「所有権」の確保だったことは過去のメルマガで述べたとおりです。

この悲願は、源義経討伐のために頼朝が全国各地の荘園に対して地頭(じとう)という現地マネージャーを「公職」として設置することが認められたことで一部達成ができました。

一部というのは、荘園の名目上の主は、引き続き貴族たちだったからです。

しかし、貴族たちは京都に在住して、荘園からの上前をはねているだけであり、荘園現地の管理や農作物の集荷等に汗を流しているのは地頭です。

荘園の実効支配を進める地頭は、被支配農民に対する収奪が強引となるケースもあり、荘園領主である貴族への年貢を滞納するなどの行為に及ぶケースもありました。

このころに「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺が生まれました。これは「ききわけのない子供や横暴な権力者の無理には従うほかはない。」や「道理を尽くしても、理の通じない者には勝ち目がない。」という意味として使われています。

実際は、農民から荘園領主に訴状が届けられ、それを元に鎌倉幕府に対して貴族が訴訟を起こすと、貴族側に有利な裁定が下されることも多かったです。

しかし、地頭も負けておらず、自分の収益を確保する上で「下地中分(したじちゅうぶん)」というテクニックを使います。

これは、荘園領主の貴族分と地頭分を明確に分けてしまおうというものです。

地頭としては、土地の収穫物に対して安定した一定持ち分を手にしたい、現代に置き換えれば雇われ経営者が会社の株主・創業者に対してストック・オプションを要求するようなものでしょうか。あるいは会社分割をしてしまうといった例えでもいいかもしれません。

貴族にとっても取り分で揉めることが減るため、徐々にこれを認めるケースが増えていきます。

ただでさえ、日本の土地支配は名義の上に名義が重なる多重になっていました。そこに地頭による分割支配などが入ったため、さらに土地支配権・所有権は複雑化の一途を辿ります。

これが解消されるのは、鎌倉時代から約400年後に始まる江戸時代を待たなければなりません。

かようなほど、日本史における土地問題は根深く、土地信仰というようなものにも繋がっていきます。

この土地へのこだわりが「地価は下がらない」という神話を産み、バブル経済発生・破綻のタネとなったといったら言い過ぎでしょうか。

以上、今週の歴史小話でした!

日本史通史シリーズ、次回は来月です。

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