見出し画像

<ネトウヨの私小説>と<パヨクのフィクション小説>


※当記事を読む上での注意点

当記事では、青識亜論さんを「ネトウヨ」に分類している都合上、江草乗さんを「ネトウヨ」と対置(対比)されるものとして便宜上、「パヨク」に分類しています。
ご本人には不本意かも知れませんが、文句は、自分で自分の事を誇りを持って「ネトウヨ」と自称している青識亜論さんに仰って下さい

二つの小説

note記事で、二つの小説を読んだ。
一つは「パヨクの書いたフィクション小説」(以下「パヨクのフィクション小説」と呼称)、もう一つは「ネトウヨの書いた私小説」(以下「ネトウヨの私小説」と呼称)。

両方に共通する感想として「(小説として読むと)とても読みやすかった」というのを先ず、ここで述べさせて頂きます。

その上で。

先ず、「パヨクのフィクション小説」を紹介します。

「パヨクのフィクション小説」

作者は、反維新・親共産党の方なのだろうと思う。
実際、作者のnoteの他の記事をさらっと見てみると「日本維新の会(及び、大阪維新の会)」に対する批判の記事が少なくない。

小説の主人公は大阪出身(現在の居住地は小説の中では書かれていない)らしい

小説の中にこういう描写が出てくる点からも、作者が共産党支持者なのだろうということが伺える。

するとそこにスキンヘッドの大男が近づいてきて「なんやこのビラは」と絡んできた。緑色のブルゾンを着ていたのでおそらく維新の運動員なんだろう。オレはその無礼な口調に驚いたが、そのスキンヘッドはオレの存在を全く気にすることもなく「ババア、迷惑なんじゃ。共産党はここに来んなよ。目障りじゃ!」と罵声を飛ばして悪態をついた。まるで殴りかからんばかりの勢いだった。オレはいつか役に立つこともあるかなとその一部始終を動画に撮影した。するとスキンヘッドは撮影しているオレに気付いたのか、「なんやそのスマホは!」とオレに近づいてきたのでオレは猛ダッシュで逃げた。オレは逃げ足には自信がある。大学のサイクリング部で鍛えた足腰はそこらの若者にはまだまだ負けない。

維新は災害よりも凶なり江草乗

まるで、作者か作者の身近な人が選挙時に維新の演説を見に行った際に起きた実体験かの様に、この部分がリアリティが有ると感じられた。

この小説の最後は、こう締められている。

「自然災害はあっても、この街はきちんと民主主義が生きてるから幸せですよ。投票を棄権するような無責任な人はほとんどいませんし、私たち夫婦も選挙の時は老体にむち打って欠かさず投票していますよ。それが日本国民の責務ですから。それに一番嬉しいことは、この街には一人も維新議員がいないんですよ。『維新お断り』『END維新』のステッカーがどの家にも貼ってありますしね。あんな禍禍しい連中、日本の政治を悪くする元凶じゃないですか。維新みたいに嘘しか言わない凶悪な連中が一人も居ないなんて最高の街ですよ。」
 
オレは帰りの車を運転しながら思った。

「維新は災害よりも凶なり」

維新は災害よりも凶なり江草乗

おそらくこの、「維新は災害よりも凶なり」というのが作者が伝えたかった事、言いたかった事なのだろう。

作者が伝えたかった事、言いたかった事に対して、これは小説なのだから、私は何も言うつもりは無い。

ただ、以前に読んだ別の小説(「ネトウヨの私小説」)を思い出した。
その小説(「ネトウヨの私小説」)で書かれていた事と、この小説(「パヨクのフィクション小説」)で書かれている事が、ちょうど対比になっているという感想を持った。

なので、その小説(「ネトウヨの私小説」)をここで紹介する事にした。
双方の小説の作者に、是非、相手の小説を読んで、その感想を作者同士で語り合ってもらいたいと、私は思う。

私が持った感想は「双方の小説が対比になっている」だ。

ということで、「ネトウヨの私小説」を紹介する。

「ネトウヨの私小説」

こちらの小説の主人公(=作者)は、徳島県庁で公務員をしているというのは有名な話だ。
主人公=作者の…つまり、「ノンフィクション小説」だ。

この小説の主人公が中学生の頃(西暦1999年~2000年頃)徳島県では、
吉野川第十堰というのを可動堰化するための公共事業が政治の争点になっていた。
詳しくは、上記の小説を読んで頂きたいが、徳島県の吉野川は(2023年現在でも)よく洪水・水害を起こす事で有名な川だ。
その中でも第十堰というのは増水の度合いに寄っては、特に重大な水害が起こる可能性が有る地域とされている。
そこで、吉野川第十堰を「150年に1度」規模で起きる可能性が有るとされる大水害にも耐えられる形にしようという計画が立ち上がった。
その費用は、1999年当時の金額にして1000億円を越える金額になると考えられていた。
1999年当時の1000億円は、今(2023年)の金額で言えば、2000億円ぐらいになるだろう。
この可動堰建設の公共事業が、無駄な公共事業だと徳島県以外の地域の人等から叩かれる形となり住民投票が起きるに至った、というのが、この小説の話だ。

私も、まあ、特に政治に定見がない学生だったので……というのは言い訳だが、その時は可動堰なんかやめりゃいいのにと思っていた。

しかし、どうしてそんなことを思いついたのかわからなかったが、なにげなく浮かんだ一つの疑問を、姫野氏に向かって口にした。

「もしも、建設省が言う150年に1度の大水害が来て、たくさんの人が亡くなったとしたら……姫野さんは責任をとれるんですか?」

中学生相手なのだから、威勢のいいことを適当に言っておけばいいのに、姫野氏は少し黙って考えたあと、こう口にした。

「責任は……みんなで取るしかない」

そうですか。

口だけでも「私」とは言わずに、「みんな」と言う。

自分たちはただの市民で、権力者ではないから。

勝手に集まり、勝手に踊って、その後始末は誰かがやる。

中学生時代にはじめて触ったナマの「政治」は、なんだかモヤモヤとしたものを胸中に残していったのだった。

私がネトウヨになった日のこと青識亜論

この小説の主人公(=作者)は中学校の授業で吉野川第十堰可動堰建設反対派(以下「反対派」と呼称)の人達にインタビューしに行く事になり、その際に
「建設を中止した結果、実際に大きな水害が起きたら誰が責任を取るんですか?」
という疑問を述べ、それに対する反対派の代表の
「責任は……みんなで取るしかない」
という言葉に「建設に賛成している人にまで、建設が中止になった結果水害が起きた時には責任を求めるのか?」と疑問を持ったのが「ネトウヨ」になったきっかけだという話だ。

2000年1月に吉野川第十堰の可動堰建設を巡る住民投票が行われ、住民投票の結果、可動堰の建設は中止となったそうだ。

この小説を読み、気になったので当時の徳島県について調べてみた所、

1999年当時の徳島県知事は無所属圓藤寿穂という知事だったが、
2000年1月の吉野川第十堰の可動堰建設を巡る住民投票の結果等を受け、支持率は低迷、
そして、2002年に圓藤寿穂徳島県知事は汚職事件が原因で辞職する形となった。

圓藤寿穂徳島県知事の辞職後に行われた徳島県知事選挙(2002年4月28日投・開票)で、民主党(現:立憲民主党)・日本共産党・社会民主党の推薦を受けた大田正(元:社会民主党徳島県連幹事長)という候補者が当選して県知事となっている。
この時、主に徳島県民で大田正候補を支持していたのが、吉野川第十堰可動堰建設反対派の人達(勝手連であり、大田正候補は徳島県知事になった後、次々と徳島県内で行われている(民主党(現:立憲民主党)・日本共産党・社民党から見て)無駄と思われる公共事業を中止にしていき、徳島県は急激な不況に陥った
結果、2003年に大田正徳島県知事は徳島県議会で「県政を混乱させた」として、不信任決議案を提出・可決され、2003年に再び徳島県知事選挙が行われる事となった。
2003年の徳島県知事選挙は自由民主党(自民党)・保守新党の推薦を受けた飯泉嘉門と、民主党・日本共産党・社会民主党の推薦を受けた大田正と、泡沫候補の三者の選挙となり、飯泉嘉門が当選した。
その後、2003年~2023年まで、徳島県知事選挙では自由民主党(自民党)の支持を受けていた飯泉嘉門が当選していたが、2023年の徳島県知事選挙を前に徳島県内で自民党が分裂し、自由民主党(自民党)所属の後藤田正純が2023年の徳島県知事選挙で当選した

という状況だった事が解った。

吉野川第十堰の可動堰建設を巡る騒動が徳島県民に左翼(民主党・日本共産党・社会民主党)への嫌気をもたらし、徳島県を自由民主党に強い土地にしたのだろう。

上記の小説の中で、主人公(=作者)は2003年の徳島県知事選挙について下記の様に書いている。

中学校時代の忘れられない思い出がある。選挙運動期間中、通学のために徳島県庁前の「かちどき橋」という交通量の多い橋を通ったときのことだ。初夏のすでに少し暑くなりはじめた時期。

橋の西側歩道には、ずらりと、勝手連のシンボルカラーである黄色いTシャツを着た、市民運動家たちが並んでいる。革新派知事を支持する人々だ。だらりとした雰囲気で、隣の人と雑談しながら、「投票へ行こう」のプラカードを持っている。中には、持っているのがしんどくなったのか、地べたに下ろしてしまっている人もいた。

その反対側の東側歩道には、黒いビジネススーツを着込んだ若い男たちが、微動だにせず、「新しい風を・知事交代」のプラカードを掲げていた。貼り付けたような笑顔で、ぴしりと整列していた。

あのビジネススーツの男たちがどこから来たのか、今でもよくわからない。だが、橋で対峙した二つの陣営の差が、とりもなおさず、「勝手連」で政治をしようとした人々と、政治に生き死にがかかったプロフェッショナルの差なのだと、中学生なりに肌感覚で理解したのだった。

選挙は、新しい知事が勝利した。革新派知事は失職した。

私がネトウヨになった日のこと青識亜論

対比となっている二つの小説

「災害の起きた地域等に救援物資を運ぶボランティアを自主的に行っている主人公」の出てくるフィクション小説と、
「水害に悩まされる事の多い地域に生まれ育ってきた主人公」の出てくるノンフィクション小説。

「水害が起きた地域に救援物資を運びに行った際に主人公が体験した出来事」が物語となっている小説と、
「(大きくはないが)水害が日常的に起き、150年に一度大きな水害が起きる可能性が有ると言われている地域に住み、暮らす主人公が体験した出来事」が物語となっている小説。

前者の小説の主人公は
「災害よりも右翼が政権を持っている方が世の中にとっては悪い事だという考えに至り」
後者の小説の主人公は
「災害を防ぐための公共事業を左翼が(徳島県の)政権を握り次々と中止した結果、(徳島県の)景気が衰退するのを見せつけられて、左翼に対する不信感を持つ様になった」
という結果。

実に対比的な小説と言える。

是非、この二つの小説の作者には互いの小説を読んで、互いの小説を読んだ感想をそれぞれのnoteで述べて欲しいと思わずにいられないので、今回記事にして紹介する事にした。

ところで、この二つの小説の作者、
2023年現在、前者の作者は60代前半ぐらいで、後者の作者は30代後半ぐらいと、約25歳ほど歳の差が有る様なのですが、
二人とも京都大学に在学していたよう(前者は京大理学部卒、後者は京大経済学部卒……(両方とも)らしい)なんですよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?