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熱狂の中で差別に抗す言葉を待つ

 ワールドカップカタール大会で、日本がドイツに勝った23日の23時過ぎ。
試合が後半に入るタイミングで渋谷へ向かった。
 1点ビハインドのまま進んだゲーム。ハチ公前広場はむしろ静かだった。
交代出場した堂安律の同点ゴール得点には、スマホで試合を見ている人がわずかに喜びを見せる。浅野拓磨の勝ち越しゴールでようやく、ちらほらと声が上がる。試合終了間際になると円陣を組みながらスマホの画面を見つめる若者たちがメディアに取り囲まれていた。勝利を告げるホイッスルと同時に渋谷は歓喜に包まれ始め、深夜1時頃まで盛り上がりを見せた。

 僕自身も歴史的勝利に喜びを感じていた。ドイツとの好ゲームは高原直泰が2ゴールを決めた2006年のワールドカップが記憶に残っていたぐらい。前回大会ではベルギーに逆転負けしてベスト8進出を逃した試合もテレビでみていたから、驚きを隠せなかった。
 実際に、渦中の一人だった。浸る高揚感は嘘をつかない。飛び跳ねる若者に近づき、シャッターを切った。渋谷で喜ぶ若者たちの姿を収めたいと考え、向かった。だから彼らの盛り上がりは否定はしないし、嘲笑するつもりもない。ただ、列島が歓喜に沸いたなかで、今大会で落とされていた影が深かったことは知っていた。
 撮影を続けて火照った身体を落ち着かせながら、帰路の間、ぼんやり考えていたことがある。自己矛盾が孕んでいることだが、渋谷の様子を撮影し、記録していて感じたことを残したいと思う。

 日本代表のサイドバック、赤髪に染めた長友佑都が試合後に「ブラボー」と大声で発した。その影響だろうか、渋谷には日本代表の青いユニホームに袖を通した若い男性ファンたちは「ニッポン」コールと、「ブラボー」と雄叫びながらスクランブル交差点へと突っ走っていく。交差点中央では、モッシュが発生。飛び跳ねながら、指を突き上げたりしていた。赤信号になると警察官に押されながらハチ公前広場とTSUTAYA側へと帰っていく。集散を繰り返す。“熱狂”だった。

 思い返すのは、ラグビーワールドカップ日本大会を取材していたときのことだ。日本戦全試合や決勝トーナメントのほぼ全試合を追いかけたが、多様性そのものだった。
 日本には多様な国やルーツを持った人々が訪れ、喜びをともにした。代表チームも国籍主義をとらない。日本代表も半数近くが外国出身選手(ニュージーランドやトンガ、韓国)が占め、国籍も文化も多様な選手が団結する「ONE TEAM」の躍進は、多くの人々に感動を与えた。
 開会式ではテーマ曲である「ワールド・イン・ユニオン」が歌われた。多様なルーツを持つ子どもたちが合唱する様子は感動した。これまで、新大久保や川崎のヘイトスピーチの現場やLGBTQ+の人権を訴える運動にも足を運んできたから、このラグビーの「ノーサイドの精神」に改めて可能性を感じたからだった。日本対ロシアの開幕戦ではゲイであることをカミングアウトしているナイジェル・オーウェンズ主審が笛を吹いた。ワールドカップ試合会場で販売された公式パンフレットにおいてもオーウェンズ主審のセクシュアリティについての特集ページもあった。94年のラグビーワールドカップ南アフリカ大会では、南アフリカにとってラグビーが「アパルトヘイトの象徴」から「人種融和の象徴」へと代わった歴史がある。ラグビーは多様性と向き合ってきたと考える。

夢がある。それは信仰や人種を超えて世界が団結し、分かつことのできない一つものになることという尊い真の夢である。この偉大な運命というべき夢の極みにいたるとき新しい時代が始まっているだろう。そのためにあらゆる障害を乗り越え、歴史に居場所を見出し、尊厳をもって生きていかねばならない。その前には勝敗にかかわりなくすべての人が勝利者である。それが世界が一つになるということである / ワールド・イン・ユニオンの歌詞

 しかし、サッカーとなると、その多様性が埋没しているように感じる。他国での開催だ。渋谷の歓喜の場では、様々な国のサポーターがいるわけではない。青いユニホームを着たファンがいる。そして、掲げられる国旗は日の丸(だけ)。勝っても負けても互いの国歌を口ずさむラグビーとはどこか違う。勝利の喜びに浸り、自国チームを賛美することこそが正しさであることが突きつけられるような空間に居心地の悪さも覚えた。声をかけて、「ある話」を聞こうにしても奇声を発して再び交差点へと消えていってしまう。

 そんななか、ドイツで過ごす友人のツイートが目に入った。ドイツとのギャップにはっとさせられる。

 前述した「ある話」とは、今回のサッカーワールドカップカタール大会において人権が蹂躙されていることである。詳しく後述するが、まず日本サッカー協会の田嶋幸三会長が言い放ったのは、「今サッカー以外のことでいろいろ話題にすることは好ましくない」という言葉だった。

 とりわけ、カタールにおける性的マイノリティーの人権が踏みにじられていることが問題視されているが、田島会長にとっては「どうでもいいこと」なのだろう。
 しかし、どうだろうか。日本協会はそもそも、SDGs達成に貢献するとウェブサイトにこう明記している。「スポーツは年齢、性別、人種、国籍、障がいの有無などに関係なく、だれもが、いつでも、どこでも楽しむことができ、ダイバーシティ&インクルージョン(多様性と包摂)を促進することができます」

 トップの姿勢がこれでは、空虚なメッセージとしか言いようがない。スポーツを誰もが等しく楽しむことが保障されていない状況で、アスリートたちが社会正義を自らの行動で示している。それなのに、日本のサッカー組織のトップは「好ましくない」と揶揄する。その傲慢さに落胆せざるを得ない。

 何があったのか。整理しよう。

 今回のカタールワールドカップは非常に人権侵害で卑劣で極悪な大会だからだ。スタジアム建設に従事した移民労働者はカタール大会決定が決まって以降、10年間で約6500人の命が奪われた。
 窓のない薄暗い部屋で“収監”されるようにして暮らすことを強いられているという。50度を越える酷暑のなか、水分補給もさせてもらえず15時間ほど強制労働させられているのだ。貧困から抜け出すため夢を抱き、出稼ぎしにきた移民たちを人として扱わないことで、今回のワールドカップのインフラが形作られている。


 そしてカタールでは性的少数者(LGBTQ+)が差別と偏見と抑圧によって苦しんでいる。同性愛が違法で、7年以下の懲役刑など罰則が課される。同性間で性行為を行なったイスラム教の男性は、死刑となる可能性もあるほどだ。一般の法律に加え、シャーリア法によって生きることを踏み躙られている。またトランスジェンダー当事者は転向療法を強いられたりしている実情もある。


 このような事態だ。ニッポンコールで自国の躍進に酔いしれるなか、欧州強豪国は怒りを持ってカタール大会に強い疑義を投げかけている。それは、明確なプロテストである。
 大会開幕直前から話題になっているのは、「One Love」の腕章のことだ。ドイツ、イングランド、ベルギー、デンマーク、フランス、スイス、ウェールズ、オランダのキャプテンは「One Love」をつけてこの大会に臨む予定だった。オランダサッカー協会が始めた取り組みで、あらゆる差別に抗するためのシンボル腕章だ。しかし、ワールドカップの主催団体であるFIFAは、経済的制裁(罰金)を課したり、この腕章をつけて試合に出場した場合にはイエローカードを課すことを表明。重いペナルティが余儀なくされる状況もあり、上記8カ国は腕章をつけて試合に臨むことを断念せざるえなかったのだ。

 だからドイツ代表は試合前に口を塞ぐポーズで、抗議の意思を示した。
 独公共放送ARDの世論調査によると56%がワールドカップを「見ない」と回答し、ボイコットする動きがある。ドイツだけではない。イングランドサッカー協会では、移民労働者や人権問題についてNGOと連携してリサーチなどにも取り組んでいる。

 だからこそ、日本協会の意識の低さ、愚劣さに呆れかえるよりも怒りが込み上げるほどギャップは大きい。FIFAも大会規定で、政治的・宗教的なメッセージが含まれるユニホームを使用してはいけない規定を設けている。これは、中立を保つためであることが建前とされており、今回の「One Love」腕章の使用禁止についても同様だ。レインボーカラーのシャツを着たメディアもスタジアムに入ることを拒否されたという。

 正直思う。これは中立ではなく、明らかに人権侵害を肯定した上で行われている極めて政治的なイベントであるということを。そのことを辺境な島国で、勝利の喜びに熱狂している私たちは、直視しなければならないのではと思うのだ。国際的スポーツビジネスイベントが行われるたび。
 利権と汚職に塗れた東京五輪が終われば(さまざまな汚職が現在詳らかになってきたが)、またゼロからお気楽モードになってしまうのか。また繰り返されてしまうのかと見つめてしまう。

 もしかしたら、この文章を読んでくれた方の中には、「いやこんな喜ばしい時なんだから水を差すなよ」と思うこともあるだろう。「喜ぶことを否定するのか」「一生懸命プレーしている選手に失礼だ」とも言いたくなることもあるだろう。
 しかし、人権は後回しにしていいものではない。であるならば、このカタール大会の人権侵害に文句・抗議をしながら観戦するのはどうだろうか。決してボイコットを強要するものでもない。わたしもこのように思ったことを書き残してテレビ観戦している。
 これを機に、カタール大会を取り巻く人権抑圧、とくに移民に対する強制労働問題やLGBTQ+差別にも目を向けてほしい。そして、日本国内における状況を考えるきっかけにつなげてほしいと願う。

 きっと次戦までドイツ戦の勝利についてわたしも所属するマスメディアは日本の歓喜を報道し続けるだろう。記者も、カメラマンも、熱狂する。そして任された仕事だからと、ポジティブに映ることに比重を置いて報じるのだろう。テレビ放送ではブルーのユニホームを着たアナウンサーやコメンテーターが、総動員で礼賛する姿が続くことだろう。

 その陰で、踏み躙られてきた人権侵害をないものとして歓喜ムード一辺倒で続いていくことに疑問を投げかけたい。沈黙どころか、無視を決め込む。そのことの、恐ろしさを感じるからだ。差別に中立はない。このことを強く言いたい。加担し続けるか、しないかは、自らの選択によって決められると考える。差別を食い止めるために、メッセージを発するかどうか。わずかな行動を選び取るということが問われていると思う。

 ドイツ戦の勝利によって会長田嶋の発言がなかったことになり、その意図をプッシュアップする既成事実にならないことを願いたい。
 W杯優勝国に初勝利。快挙であることは間違いない。偉業を遂げた選手たちの活躍は称賛されるほかないことは自明だ。それでも、この大会で、森保監督、選手が、ドイツをはじめ欧州強豪国のように自らの言葉として差別に抗する言葉を紡がれることを待ち続けたい。

日本がドイツに勝利し、スクランブル交差点で熱狂する若者たち=渋谷スクランブル交差点

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