見出し画像

短編小説:高層マンションの一室にて

 ぼんやりと昼寝から目を覚ます。一瞬、ここがどこなのかわからなかった。自分の家ではない天井。ごりごり、と何かを削るような音。漂ってくるコーヒーの香り。
 ああ、そうだ。
 僕はゆっくりと身体を起こした。
「あ、お目覚め?」
 僕が起きたことに気付いたのか、キッチンにいた恋人は振り返って微笑んだ。先日買ったばかりのコーヒーミルで、豆を挽いている。
 そうだった、昨晩、僕は恋人の家に泊まった。お菓子を食べながら夜通し映画を観て、明け方に眠って、昼前に起きて彼女の作った朝食兼昼食を食べて。ごろごろしている間に、昼寝をしてしまったのだった。
「ごめん、がっつり寝てた」
 申し訳なくてそう言うと、恋人はにっこり笑った。
「いいのいいの、私もちょっと前まで寝てたから」
 そして、ごりごり、とコーヒー豆を挽いている。僕は立ち上がると、戸棚からおそろいのマグカップを取り出した。小さなコンロの上で、小さなヤカンが優しく湯気をあげている。
「代わろうか?」
「もうちょっとだから、大丈夫」
「わかった」
 彼女の住む、小さなワンルーム。中央に置かれたローテーブルの横の床に腰をおろす。窓から差す日光と、コーヒーの香り、そして豆を挽く音が、すべてあわさって心地良い。

 ふたつ年下の恋人と交際を始めて、もうすぐ一年になる。関係はおそらく良好。こう言うのも照れ臭いが、幸せいっぱいである。
 彼女に出会うまで誰とも交際経験のなかった僕は、何をするにしても不安でいっぱいだった。彼女を不快にさせていないか。嫌われないか。これは彼女の一時的な気の迷いであって、近々捨てられてしまうのではないか。
 しかし、僕がそんな態度を見せるたびに彼女はむっとした顔をして言うのだ。
「私はちゃんと、あなたが好きなの」
 あっさりと「好き」という言葉を口にする彼女に対して、ますます不安を大きくした時期もあったけれど、そんなものはすべて杞憂であったと今になって思う。
 いわゆる「マンネリ」というものもないまま、僕らはだらだらと幸せな時間を過ごしている。最初はあらゆることに不安を抱いていた僕も、いつの間にか彼女に対する気持ちは「安心感」がいちばん大きくなっていた。
 特別どこかに出かけたりしなくても、一緒にいて、のんびりとした時間を過ごすことができれば、それだけでじゅうぶん幸せだ。

「はい、お待たせ」
 恋人がマグカップをふたつ、ローテーブルに並べる。その隣には、近くのスーパーで買ったクッキーが添えられていた。
「良い香り」
「安い豆だけど、ちゃんと挽きたてだからね」
 彼女が微笑む。
 安い豆だろうが何だろうが、君の隣で飲むコーヒーがいちばんおいしいんだよ。なんて、そんなセリフは恥ずかしくて言えない。だから代わりに、
「おいしいね」
 とつぶやいた。
「ね、おいしいよね」
 彼女もつぶやく。
 小さなワンルームの、小さなローテーブルの横で、僕らはふたり並んでコーヒーを飲んでいる。ただ、それだけ。

「ねえ、夜はどこかに食べに行こうよ」
 コーヒーを飲みながら、彼女は言った。
「良いね、何食べたい?」
「そうだなあ、今日はお酒飲みたい気分」
「お酒かあ」
 良いね、行こうよ、と言いかけてやめた。僕の住むアパートと、彼女の住むアパートの距離はあまり近くない。歩くのが億劫だったので、僕は原付でここまで来ていた。僕の家の近くには良い居酒屋がないから、このあたりで飲むことになるだろう。となると、原付を押して歩いて家に帰ることになるが、それはちょっと面倒だ。
「嫌なの?」
「原付で来ちゃったからさ」
 ああ、と恋人は納得したようにうなずいた。
「あ、でも、僕が飲まなきゃ良いだけだし。どっかおいしいところに行こうよ」
「んー、でもひとりで飲むのもなあ」
 彼女は少し考えたあと、ぱっと顔をあげた。
「ね、今日も泊まる?」
「え?」
「原付だからお酒飲めないんでしょ、だったら今日もうちに泊まっていけば良いじゃん」
「でも、」
「嫌なの?」
 嫌、なわけがない。
「全然嫌じゃないよ。でも、さすがに悪いよ」
「なんで?」
「昨日も泊まったわけだし」
「なんで?いっぱい一緒にいたいじゃん」
 彼女はむっとした顔で僕を見上げた。
 ああ、もう。
 
 なんて幸せなんだろう。

 僕は思わず、彼女を抱きしめた。
「ちょっと、急にどしたの」
「だって…、なんか、幸せだなあ、って」
 なにそれ、と彼女は笑った。そして、
「幸せだね」
 と彼女もつぶやいた。

 どうか、この幸せがずっと続きますように。
 この気持ちが、盲目な恋ではありませんように。

 僕はそんなことを、心の底から本気で願っていた。


 
 願っていた時代があった。

 私にも、そんな時代があったのだ。
 もう、十年近く前になるだろうか。買ったばかりのコーヒーミルで豆を挽きながら、私はぼんやりと大学時代の恋というものを思い出していた。

 結果的に、あれは単なる盲目な恋であった。

 当時は本当に幸せであったし、その幸せがずっと続くものだと、私と彼女であれば続けられるものであると、信じていた。
 私も彼女も若かった。青かった。
 あんなに好きだ、幸せだ、と言い合っていても、結局終わりはやってきた。あんなに一緒にいたのに、終わったとたん会うことはなくなった。
 きっとそういうものなのだろう。
 単なる盲目な恋は、時間が経つにつれて単なる綺麗な思い出へと姿を変えた。ただ、それだけ。

 あの日のワンルームよりも広いマンションの一室で、あの日のものよりもずっと高い豆を挽いている。
 今とあの日、どちらが幸せかなんて。
 そんなのは愚問。比べるものではないのだ。たぶん。

 私はソファに腰をおろし、挽きたてのコーヒーを飲む。
 おいしい。
 プロに頼んで、私好みにブレンドしてもらった甲斐があった。
 
 きっと、あの日のコーヒーもおいしかった。もうどんな味だったかは思い出せないけれど。
 綺麗な思い出は、綺麗なままで。
 余計なことは、思い出さないで。
 
 私はもうひとくち、コーヒーを啜った。





※フィクションです。
 ちなみに私は酸味の強いコーヒーが好きです。(めっちゃどうでも良い)

 
 

この記事が参加している募集

眠れない夜に

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?