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ドラマ「エルピス」は、どうして面白かったのだろう?

 最初は、どんなドラマか分からなかったけれど、月曜日の夜10時のフジテレビ系の枠なので、どこかゆるいものではないかと思っていたから、始まって、ドラマが進むと、これまでと違うのはわかった。

 その方向性は期待通りでありながら、その進み方が意外だった。
 だから、見守るように見ていたのだと思う。


(※ここから先は、ドラマの内容にも触れています。未見で、何の情報もなく番組を見たいという方は、ご注意くだされば、ありがたいです)。


「エルピス」

 ドラマの中心は、人気の盛りを過ぎたと言われているテレビキャスターを長澤まさみが、育ちのいい若いディレクターを眞栄田郷敦が演じていた。その二人が、冤罪事件の事実に迫り、報道しようとするストーリーだった。

 初回で、決して事実でないことも、権力に忖度をして報道を続けていた何年かのことが、ドラマというフィクションの中とはいえ、実際のニュース映像の一部が使われて、表現されていた。

 それ自体が、その時の政権批判を暗示しているとも言えるから、その映像自体に、少しドキドキしていたのは、その程度のことさえ、2020年代の日本では、自主規制が強すぎて、できなくなっていたせいかもしれない。

 今が、どれだけ不自由になっているのかを改めて確認できたように思え、それと同時に、その映像を使うこと自体が、そのドラマが本気であることを表しているように感じ、そして、主人公であるキャスターが、納得いかないことを飲み込み過ぎてきたから、これからは、もう、それはしない、という宣言で、ストーリーにエンジンがかかる。

戦いと成長

 そこからは、冤罪事件の真相、という、もしかしたら報道をすることに関しては、取材をするにも、実際に放送する難易度も高いと思われる事実を追い続けていく。

 その二人は、どちらかが諦めると、片方が諦めない、という展開で、しかも、本当にありそうな理不尽な妨害や、テレビ局という組織内での忖度や保身、さらには権力からの圧力なども、次々と襲ってきて、途中で取材自体をやめてもおかしくない時間が続く。

 しかし、最終的には、正しさを追い求めて、ただ、真っ当な仕事をしたい、という、ごく当たり前の欲望と倫理に従い続けることで、動かしようのない事実までたどり着く。

 そこに対して、人の命を奪うような権力の生々しい力まで発動されるが、それに対して、最終的には、ただ正面からだけではなく、こんなことでもしないと冤罪事件の報道は無理かもしれないといった、政治的な交渉を持ちかけることによって、実際にテレビで報道する地点まで到達する。

 どう考えても、無理そうな状況に対して、正しさを求め、それもさまざまな試行錯誤と戦略によって、最終的には、すべての正しさを実現できないまでも、免罪事件の真相には迫っていた。

 そんなリアルにも見える到達点まで届かせる登場人物たちの姿に対して、フィクションとはいえ、応援するような気持ちになったのは、実際に権力からの圧力によって、忖度し続けてきたように見える、この約10年の報道への不信感が、視聴者にもあったからだと思う。

 そのことに関して、報道やドキュメンタリーで明らかになっていないのであれば、少なくともフィクションで作られてもよかったのに、ここまで、そういったドラマさえ見た記憶もなかった。

 それは、フィクションの中でさえ、忖度があったから、と考えてしまうのは、現実の社会がそうとしか思えなかったからで、だから、フィクションであっても、少なくとも、「エルピス」というドラマの中で、ある程度以上の正しさの実現をしてくれたのは、なんだかありがたかった。

 それは、ドラマとはいえ、そこにモデルケースがあるかないかでは、今後の社会が本当に正しさを失うか、わずかでも希望を持てるかが、直接的ではないし、即効性があるわけもないが、変わってくると思えるせいだった。さらには、そうした先例を作り、それが高評価を得られれば、今後のフィクションの自由度も上がるはずだ。

 しかも、リアルさと意外さや、登場人物の多面的な魅力や成長もあったので、不安や焦りも含めて、純粋にエンターテイメントとしても、楽しめた。考えたら、面白くてタメになるような難しいことを実現させているのだと思う。

現実的で危険な存在

 このドラマの中で、それまであまり扱われてこなかったけれど、確かにこうした存在がいると思えたのが、鈴木亮平が演じる斎藤正一という人物だった。有能なテレビの政治記者として大物政治家と太いパイプを築き、フリーのジャーナリストになり、さらには、将来は政治家になろうとする男性だ。

 特に、相手が自分よりも立場が弱いと判断すると、言葉を丁寧に伝えるということはせずに、ほのめかしと暗示と微妙な脅しのような表現を多用し、人をコントロールすることに長けている人間に見えた。
 人間関係をゲームとして捉えているから、おそらく社会では、圧倒的に強く、だから、実社会では、どこにいても「出世」していると思えるのだけど、とても怖い存在だった。

 同時に、好きか嫌いかで言えば、私自身は、嫌いだけれど、こういう男性は、いわゆる「モテる存在」でもあると思う。

 それで、余計に、イライラを感じてしまうが、それは、社会的にも弱い存在で、しかも、モテない私のような男性が指摘すると、ただのひがみのように思われてしまうだろうから、こうして具体的な人間像として表現してもらったのは、ありがたいし、その危険性が伝わるという意味では、有益なことだとも思う。

「エルピス」のプロデューサー・佐野亜裕美氏は、この斎藤正一という人物について、こう語っている。

佐野:斎藤に関しては、斎藤みたいな人に嫌な目にあったり、斎藤みたいな人に惹かれてダメだと知っていながらそっちに行ってしまってつらい思いをした数々の友人・知人の話の集合体みたいな感じになってるんです。私が東京で20年生きてきて、周りにいる友人が、本当に大変な思いをしながら生きてきて、そんな人達から話を聞いたことを、あやさんに伝えたんです。でもそれは、キャラクター造形のために話したわけではなく、「友人からこんな相談を受けたんですけど」というような雑談でした。あやさんは島根に住んでいるので斎藤のことを「あんな人は見たことない」と言っていました。でも、私や私の友人が実際に出会ってきた人達なんです。

佐野:亮平さんからは、斎藤は、ファンタジーとリアルの間っていうか、どちらかというとファンタジーに近いんじゃないかと言われてたんですが、それは男性同士のコミュニケーションにおいて、斎藤のような男性は、浅川恵那に見せるような顔を見せないと思うんですね。斎藤というのはホモソーシャルの頂点に君臨しているような人なので、男性は彼の別の面を知りにくいと思うんです。けれども、斎藤のような人が、浅川のような聡明だけれど弱っている女性に対して、どうふるまうかということを私達は嫌というほど知っているので。コマ切れにLINEを送ってくる人っていうのは、本当にいるので。

佐野:本当に計算高くて、気になるところで止めたり……。その沼を私は通り過ぎることができたので、世に伝えたいと思って。まだ、斎藤のような人に捕まっている人に対しても。

ドラマと現実

 このドラマを実際に放送するまでが、どれだけ大変だったのかは、想像もできるかもしれないけれど、現実は、おそらくは、想像以上のようだった。(企画から放送まで6年かかったこと。プロデューサーが、会社をかわって、やっと実現したこと、などは有名なエピソードになっている)。

 脚本を担当した渡辺あや氏が、インタビューで、こう話をしている。(2022年10月。まだドラマの放送が全て終わっていない時期)

ーー 今回、オリジナル脚本で、しかも冤罪事件という踏み込んだ内容の企画が民放の連ドラで実現できたのはなぜなのでしょうか?
渡辺 これはもう関西テレビ(以下、カンテレ)さんのうっかりとしか言いようがないですね(笑)。実は佐野さんがTBSで最初に企画を出したときは、案の定、却下されたんですよ。こんなにハレーションを起こす、つまり波風を立てるリスクの高い脚本はできない、と。
    私は「いいじゃん、やっぱりラブコメやろうよ」と言ったのですが、佐野さんが「私はもう今更あやさんとラブコメなんてやりたくないです。私がなんとか実現しますから、書いてください」と言ってくれた。そこで、8話くらいまでの脚本(当時)を先に書き上げて、佐野さんがいろんなところに掛け合ってくれたんです。ただ、それもことごとく断られてしまって。

 ――まさに『エルピス』の劇中で冤罪事件の報道を止められるようなことが、ドラマの企画成立過程でも起こっていたのですね。
渡辺 そうこうするうちに佐野さんがTBSを退社したり、体調を崩されたりして、これは完全に暗礁に乗り上げたな、とほぼ諦めていたんです。そしたら2〜3年のブランクをあけて、佐野さんが「カンテレがこの企画をやらせてくれそうなので、私、カンテレに入社します!」と不死鳥のように復活してきたんですよ。それで今、なんとか実現しつつあるという感じです。私は、まだなんかあるんじゃないかと半信半疑でいますが。

 考えたら、警察批判のドラマも、医療の責任を問うようなドラマもあるのに、もしかしたら、王道でもある政治批判のフィクションがこれだけ描かれなかった期間が長かったことは、異常だったのかのしれないけれど、それは、「報道の自由度の低さ」ともリンクしているのかもしれない。

(2022年で、71位↓)

 
 だから、このドラマは放送するまでに6年もかかってしまったのかもしれないけれど、企画が始まったという2016年頃は、確かに忖度と萎縮が今よりも強かった印象はある。

――佐野Pが最初に渡辺さんとお会いしたのが2016年ということは、『WW』や『ここぼく』とほぼ同時期に『エルピス』の企画開発も始まっていたということですか?
渡辺 そうですね。だからその……ちょうど安倍政権の絶頂期みたいなときですよね。当時、政権与党の批判が言えなくなっている萎縮した空気を感じていました。昔は、総理大臣や政治家の悪口なんてみんな平気で言っていたし、新聞にもそういう風刺漫画が普通に載っていたじゃないですか。それがこの10年くらいで、誰も言わないというか言っちゃいけないような風潮になって、それがものすごく怖かったんです。

――たしかに、昔は政権批判って、大人なら誰でも世間話のネタにするような“庶民のたしなみ”でしたよね? いつの間にか、そういうことを言うだけで“批判ばかりのダメなリベラル”みたいなレッテルを貼られるようになった気がします。
渡辺 そんな萎縮した空気の中で私だけがやる気になっても、それが局の上層部に潰されてしまったら何も変わらない。『WW』や『ここぼく』が放送に漕ぎ着けたのは、なんとかしなきゃいけないと危機感を抱いた人たちが、いろんなごまかしや言い逃れを使って上に企画を通し(笑)、どうにか表現する方法を見つけようと手を尽くしてくれたおかげなんです。

「エルピス」の登場人物たちが理不尽さに次々遭遇し、なんとか乗り越えて、免罪事件に関するテレビ放送の実現までたどり着く過程と、このドラマの企画を立ち上げて、実際にドラマとして放送する過程は、インタビュー中でも触れられていたのだけど、かなり重なりそうで、それがドラマにもリアルさを加えているように思える。


 それは、かなり古い映画になるけれど、当時、無名の俳優だったシルベスター・スタローンが、企画自体も持ち込んで、無名のボクサーを演じて、スターになっていく「ロッキー」と似ている感触もある。

 そういう部分も、このドラマに面白さを加えているように思う。

ドラマへの批判

 これだけ話題になったドラマなので、賞賛もあるが、当然のように様々な見方もあるし、批判もされる。

浅川と岸本が経験したのは、社会において多くの人が遭遇する、組織や権力といったものの暴力性・理不尽さ、抑圧や忖度の問題である。それを自己批判も含めて描写していくような創作上の挑戦そのものは、とても大切なものだ。
 あらゆる意味での差別が蔓延り、個人の意見を表明することへの抑圧にもまみれたこの日本社会では、尚更それは重要である。本作が「民自党」という名称に置き換えて批判しようとしたであろう、政権与党としての自民党による数々の失政に対しても、私も強く批判したい気持ちがある。
 しかしそうした点を踏まえても、この物語が持つ、現実に実在した事件=具体的な社会・歴史に対するデリカシーの無さ、そしてそこに起因する「他者」を「食い物」にするような扱い方には、看過できないものがあるように思う。

 「食い物」にするような扱いは、具体的には、こうした部分だと指摘されている。

私が気になるのは、「私の物語」を語るために「着想を得た」複数事件を切り刻み、貼り合わせる必要が何故あったのか、という点である。
 『エルピス』が選択した方法は、ひとつの事件をモチーフとし、それに対してフィクションの想像力を持って向かい合うようなやり方では少なくともない。それぞれは無関係であり内実についても大きく異なる実在事件をカットアップ・コラージュのように繋ぎ合わせ、「私の物語」を語るためのストラクチャーにする作品上の必然性が薄弱であるというのが、鑑賞後の私の印象である。

現実の事件をもとにしているということ

 おそらく、大きなことを粗い認識で言えば、人類は、かなり昔から、他人の現実の出来事をずっと「物語」にして「食い物」にしてきたはずだ。

 日本に限っても、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃など、江戸の住民がこぞって見物した「物語」は、現実の、時によっては多くの死者が出たような派手な事件をもとにして、そして、江戸幕府への忖度によって、昔の話という前提にしながらも、絶え間なく創作されてきた。

 それは、明治以降の近代になっても、それほど変わらなかっただろうし、昭和の戦前から戦後になっても続いたし、平成や令和になっても、ドキュメンタリーやノンフィクションだけでなく、現実の事故や事件をもとにしたフィクションは描かれてきた。

 その中には、一つの事件だけではなく、複数の出来事をもとにしているフィクションも存在したはずだ。

 そして、私自身も視聴者として、そうした物語を「食い物」として、エンターテイメントとして消化してきた。それは、江戸時代の人間と、おそらくは変わらないはずだ。それは、やはり、どこかで罪深さのようなものと無縁ではないだろうと思う。

 ただ、そうした「物語」がどうして、ずっと作られ続けてきたのか。

 そうした本質的な考察などは、私の能力では無理だとは思うのだけど、演劇自体の歴史も長いのは、やはり、人は人に対しての興味が最も強いこと。そして、自分以外の人生を生きられないという限界があるから、その「物語」の中にいる時間だけは、他の人生を経験できること。そうしたことを通じて、自分がどう生きていけばいいのか、を学んでいる、ということではないだろうか。

いくつかの事件をもとにしていること

 「エルピス」はドラマ自体が始まる前に、いつも注意書きのようなテロップが流れていた。

 それは、これまで無数に見てきた「このドラマはフィクションであり、実在の事件、人物、組織などとは一切関係がありません」ではなく、「このドラマは実在の複数の事件から着想を得たフィクションです」という文章が、画面の下に小さく表示されるのではなく、嫌でも読めるように真ん中に表示されている。

 このこと自体が、先述した記事では、批判の材料にもなっているのだけど、このことによって、視聴者の自分の姿勢には、他のドラマを見る時とは違う、微妙な気持ちの変化があった。

 様々な理不尽とも言える忖度、圧力、そうした出来事に対する登場人物たちの戦いが、ドラマとして魅力的に描かれていて、それをエンターテイメントとして視聴者として「食い物」にしながらも、この出来事に近いことは、現実にあったのだろう、という思いが、ずっと気持ちの中にあった。

 視聴者として、具体的に、この部分は、どの事件をもとにしているのかは判断もできなかったが、ドラマの中の、それぞれの出来事は、いろいろな事件をもとにしているのだろうという印象もあった。

 そうなると、どこかで、画面の中の人物の行動や決断に対して、自分ならばどうするだろう。もしくは、「正しさ」が歪みそうな場面で、どのように振る舞ってきただろうか。そうして、場合によっては、あまり思い出したくないようなことまで、記憶として蘇ってきた部分があった。

 つまりは、フィクションという架空の出来事に対して、実在の事件をもとにしている、という注意書きを前もって提示されたことで、このドラマの中で起こっていることが、少なくとも私は、視聴者として、「自分のこと」に近づいてきた。そんな効果もあったと思う。

 さらには、たとえば仕事の時、生活の場面でも、「正しさ」を試されている瞬間は、それこそドラマのように劇的ではなく、とても小さなことでも、その時に、安易に流れないことはとても大事ではないか、というような思いが蓄積していった。

 さらには、このドラマが、いくつかの事件をもとにしていることで、それも「食い物」にしているのも事実だけど、ストーリーが多面的になるだろうし、一つの事件だけを参考にしてしまったら、この役は、この人ではないか、というような、余計に「食い物」にするような下世話な好奇心が強くなった可能性もある。

 いくつかの事件をもとにしたという注意書きによって、冤罪事件や、報道の忖度や、権力からの圧力が、より一般化されたように思え、その方が、視聴者としては、ストーリーに入って行きやすかった。

 それ自体が、批判されるような態度かもしれないけれど、でも、だからこそ、「私の物語」ではなく「私たちの物語」として見ることもできたのだと思う。

生きている人間が演じている、ということ

 それに今回、改めて、考えさせられたのは、生きている人間が演じている、という意味だった。

 長澤まさみも、眞栄田郷敦も俳優という職業であり、台本をもとにして、そのセリフを覚えて話している。

 だけど、当然だけど、うまい俳優は、自分が話しているように話すはずだ。
 そうでないと、元々、ドラマはフィクションという作り物だから、その俳優の演じ方で、物語に共感しにくくなるし、特にシリアスな内容で、嘘くさい演技を目にすると、視聴者の気持ちは白けてしまう。

 ドラマを見ている時は、ベースの部分では、これが現実ではない、という意識はある。だけど、俳優の能力が高くて自然な演技力でドラマを進めてくれると、まるで本当のことのように思える時はある。

 演じている本人も、フィクションとわかっているとしても、実際に撮影をしているときは、はっきりとしたウソでもなく、本当でもない意識なのか。それとも完全に役を生きている人もいるのかもしれないが(今回は、そう見えた)、ただ、テレビを見ている視聴者は、その俳優が役を演じているといえ、実際に話をし、動揺し、悩み、落胆し、怒り、泣き、という、普段はあまり見る機会のない、人として姿を、見届けることで、いろいろなことを感じ、考えることができた。

 このドラマが参考にしている著作も読んだこともあり、それは冤罪事件というものが、どれだけ理不尽で、しかも、権力の横暴としか思えないようなことも多そうだと思っていても、だけど、この「エルピス」をみた後の方が、様々な感情を強く刺激されたのは、俳優という人間が、本気で演じてくれたこそ、より強く届いたから、だと思う。

 こうした事実をもとにしたドラマは、場合によっては、陰謀論という危ういものと結びつく可能性はあるにしても、少なくとも、この「エルピス」によって、世の中の出来事に対しての見方が、少し複雑になったし、同時に、視聴者にも、自分自身のこととして、「正しさ」を考える機会を、提供してくれた。

 そして、やっぱり、先が真っ暗な時代で、ほんの少しの希望を描いてくれたことは、とても心強いことだった。

 いいドラマだった。



(とても微力ですが、応援の意味も込めて、以前から買おうと思っていた携帯用のミラーを買いました↓)。



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