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高校の先輩が大学で後輩になった日々の話

 大学三年生にもなると、サークルの新歓コンパも慣れたものだ。いつもの居酒屋。お決まりのプラン。そして、お馴染みのイベント──新入生による自己紹介。

「大学生活、サイッコー!!」

 トイレから戻ってきた俺を出迎えたのは、とある新入生の雄叫びだった。

 タンポポじみた金髪に、スポーツサングラスをかけた男。声も大きけりゃ身体もデカい。遠目に見ても、おそらく2メートル近くあるだろうか。十字架と謎の英文がデカデカとプリントされたTシャツに、くたびれたウォッシュジーンズという出で立ちは、そこだけ見ればヤンキー中学生といった風情である。

「──ってわけでェ、」

 言うが早いか、そいつは近くのテーブルにあったビールピッチャーをひったくる。

「挨拶代わりに飲んじゃいまーッす!」

 新入生には酒を飲ませない、というのが我がテニスサークルにおける新歓コンパの鉄則だ。新入生の傍らにいた同期が慌てて止めに入ろうとしたが、

「大丈夫ですって、俺もうハタチ過ぎてっから!」

 と、そいつはピッチャーをそのままジョッキのごとく呷った。こういうヤツは、別に珍しくもない。我が大学における新入生の半分近くは浪人生であり、二浪以上しているケースもザラだ。加えて、ウチ以外のテニスサークルはいわゆる「飲みサー」として有名なところが多い。テニサーの新歓活動にかこつけて、長きにわたる受験生活の鬱憤を酒で晴らそうとする──そんな新入生はいくらでもいる。

 毎年恒例の、ありふれた光景。なのに、不思議と目が離せなかった。自分の席に戻ることも忘れ、俺はその場で呆けたように立ち尽くしていた。

「改めまして、オージユーキでーッす!!」

 ビールを飲み干した新入生の大声が、居酒屋の大座敷おおざしきに響きわたる。「まさか」という予感は、すぐに確信へと変わった。見覚えのある顔、聞き覚えのある声。記憶にある名前とも一致している。まじまじと見つめていたところで、一瞬、その新入生と視線がかち合った。ほとんど反射的に目を伏せて、俺はそそくさと自分の席へ戻ったのだった。

 ──ただ、悲しいかな、嫌な予感は当たるもので。

「おい、タマゴ・・・

 飲み会終わりの帰り道で。
 声をかけられた。
 例の新入生に。

 聞こえないフリでやり過ごそうとしたのも束の間──そいつは、もたれかかるようにして俺の首に腕を回してきたのだ。

田間たままもるだろ、おまえ」

 どうやら、観念するしかなさそうだった。新入生がさらに顔を寄せてきて、酒くさい吐息がぷんと鼻をつく。次いで彼は、耳打ちするようにして告げた。

「高校では俺が先輩だったわけだけど──分かってんだろうな?」
「……うッす」

 骨の髄までしみついた上下関係は、簡単には抜けないものだ。しかし、彼にしてみれば「後輩」の態度はぞんざいに映ったらしい。べちん、といきなり頭をはたいたかと思うと、そのまま不機嫌そうに去っていった。

「……マジかよ」

 遠ざかる背中を眺めながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 いつだってそうだった。あのひとは、口より先に手が出るタチなのだ。相変わらずといえば相変わらずで、だからこそ変貌ぶりも余計に際立ってしまう。無理を感じる明るさも、痛々しい酒飲みアピールも、この期に及んで先輩扱いを強要してくることも──。

 昔は想像すらしなかった。あんなひとでは、なかったのだ。

***

 彼──大路おおじ雄輝ゆうきは、高校時代のいっこ上の先輩だった。

 我が野球部のエースにして、高身長のイケメン。加えて、親は有名な地元企業の社長。ゆえに、ついた渾名は「王子」。「大路おおじ」も「王子おうじ」も音としては似たようなものだから、本人は渾名あだなとして認識していなかったかもしれない。ただ、周囲が彼を「オージ」と呼ぶとき、そこには貴公子に対する敬意とでもいうべきものが根っこにあった。

 かたや、俺の当時の渾名は「玉子たまご」である。名前の「田間たままもる」を愚直に音読みして、タマゴというわけだ。アイ・アム・エッグ。

 ただ、その渾名が定着したのは、オージ先輩の影響によるところが大きい。

 高校一年生の春──野球部の規則通りに頭を丸め、初めて部室に顔を出した日のこと。オージさんはこちらを見るなり、いきなり両手で俺の頭を掴んできたのだ。驚いたのは言うまでもない。何か粗相そそうをしてしまったのか、これからシゴキでも始まるのか……と内心ビビっていたところで、彼は静かに口を開いた。

「おまえ、すごく卵型たまごがただな……」

 心の底から感心した、と言わんばかりのつぶやき。何がですか、と訊こうとして、顔の輪郭のことを指しているのだと気付いた。

「俺さ、野球帽がいちばん似合うのって、卵型の顔だと思うんだよ……だから、いいなと思ってさ」

 そう付け加えて、彼はようやく俺の頭から両手を離したのだった。

 今なお当時を鮮明に思い出せるのは、それだけ俺にとっても強烈な体験だったからだと思う。イケメンに自分の顔を褒められるなんて、それまでの人生にはなかったことだったから。

 ただ、オージさんの容姿が優れていたからこそ、俺はなるべく彼の隣に立たないようにしていた。練習や試合中なんかは、特にそうだ。全員丸刈りで同じユニフォームなのだから、みんな同じに見える──なんてことはない。むしろ逆だ、髪型やファッションで差別化できないぶん、外見的には「素材」の良し悪しが残酷なまでに際立つわけで。

 おまけに、選手としてグラウンドで一番輝いていたのもオージさんだった。なんせ不動のエースピッチャーである。190センチの長身から放たれる速球、そして落差のあるフォークは、誰もが名を知るような強豪校のバッターですらキリキリ舞いさせるほどの力があった。俺のポジションはキャッチャーだったが、公式試合でオージさんとバッテリーを組むことはついになく──まぁ、それはどうでもいいことだ。

 女子からの人気は高く、けれども本人はいたってクールで、浮ついた言動なんて見たこともなければ聞いたこともなくて……少なくとも、俺の知っている「王子」は、それほどまでに輝かしい存在だったのだ。

***

「マモルさん、『王子』のこと知ってます? ……ほら例の一年生ですよ、あのデカくてヤベーやつ」

 サークルの溜まり場である大学ラウンジに着くなり、二年生の後輩たちからそう聞かれた。

「知ってるよ」俺も俺で、苦笑を返してみせる。「ヨーチュー、だろ?」

 要注ヨーチュー、すなわち要注意人物。ゴールデンウィーク明け、新歓も終わった頃にはもう、部内は「王子」の話題でもちきりだった。酒癖の悪さ、声のデカさ、絡みのウザさと三拍子揃ったルーキーとして有名なのだ。特に、女性陣からのウケは悪いらしい。抜群の積極性で女子に突撃するものの、いつも空回りしてばかりなのだという。

「この前の最後の新歓もヒドかったんすよ、ベロベロに酔っ払って、一年女子にウザ絡みしてて」
「ていうか二年の女子も口説こうとしてたよな」
「そんで最後には眠りやがって……俺ら三人がかりでかついで退店したんですよ!?」

 彼らの苦労は分かる。それはもう痛いほどに。俺だって、前々回の新歓では同じようにオージさんを介抱したのだから。酒の酔いに任せて好き勝手に振る舞い、最後には上級生たちが尻拭いをする。そんな、新入生ゆえの暴君ぶりが「王子」たるゆえんだった。

「たぶんなんですけど、今年の新入生が少ないの、王子のせいっすよ」

 だろうな、と思う。例年に比べて、新入部員の数は10人ほど減っている。いつもは50人ほど入ってくるのが、今年は40人だ。ただし、見ようによっては悪いことばかりでもない。

「──ヤバそうなの、何人だ?」
「……はい?」
「要注の数だよ。王子のほかに何人いる?」
「いや、今のところアイツひとりだけです」
「だよな。ところでさ、この時期の要注って、毎年何人くらいいるか知ってる?」
「いえ……2、3人くらいですか?」
「10人だよ──つまり、そういうこと」
 
 毎年、問題児ともくされる新入生は男女問わずいる。酒癖が悪かったり、セクハラまがいの行動をしたり、何やら怪しい団体への勧誘を始めたり、などなど。

 オージさんが絡んでいたのは、大体においてそういうメンツだ。彼と出会った第一回目の新歓コンパからずっと、飲み会での行動を見てきたから分かる。不穏なやりとりをしているところへ、知ってか知らずかオージさんが割って入るのだ。もともと絡まれていた被害者たちも、確かにそう証言している。毒をもって毒を制す、というべきか──もっとも、被害者側からすれば、どちらも毒であることに変わりないのだが。

「王子パネェ……」
「猛毒じゃないですか……」
「十人ぶんのウザさってことでしょ……」

 揃って溜息を吐く後輩たちだった。さすがに、フォローというには弱すぎたらしい。むしろ、余計にオージさんへの恐怖心を煽ってしまったか。

「まあ、逆に管理する側としてはラクだよ。あいつだけ注意してりゃいいんだから」
「マジでお疲れ様です……すみません、マモルさんに対応してもらう場面も増えるとは思うんですけど」
「気にすんなって、ある意味それが仕事みたいなもんだから」

 後輩たちが、どこかほっとしたように口元を緩める。正直気乗りはしないが、仕方ない。なんせ、こちらは数ヶ月後に部長となる身なのだ。とはいえ、必要以上に関わりたくないというのが本音だった。ましてや高校時代の繋がりなんてのは、なおさら知られたくないわけで……。

「そういえば、マモルさんって……王子と地元が一緒なんですね?」

 出し抜けにそう問われて、一瞬、身体が固まった。どうしてそれを、と問い返そうとしたところで、遅れて気付く。後輩の手には、一冊のノートが握られていた。サークルで用意した、いわゆる「プロフィール帳」というやつだ。新入生同士はもちろんのこと、先輩・後輩間で名前と顔を一致させるための交流促進アイテムである。

 オージさんはそれを書いたのだろう、もちろん俺だって書いた。名前や生年月日をはじめとして、出身高校や所属していた部活に至るまで……。

「ほら、見てくださいよ、ここ」

 背筋に流れる嫌な汗を感じつつ、差し出されたノートを覗き込む。しかし、予想した内容はそこにはなかった。

七米津なめづ高校って……知ってます?」
「……いや、知らんな」

 知らないフリを、した。その高校名は、俺が通っていた学校──泰善たいぜん高校の古い名称だった。校名が変更されたのは、ちょうど俺が入学した年のことだ。オージさんが入学した当時はまだ「七米津」だったから、彼がウソをついているわけではない。だが、しかし──。

「アイツ柔道部だったんすね、いやー納得だわ」

 いや、それは明らかなウソだ。柔道とは縁もゆかりもない、野球漬けの生活だったのだ。ただ、今の見かけは、確かに柔道部と言っても差し支えのない風貌をしていた。身長の高さに加えて、もともと筋肉もある。重要なのは、当時よりそこそこ太っていることだろう。単に運動不足なのだろうが、それがまた良い具合に「柔道部」らしさを醸し出しているのだ。

 バレなくてほっとした。同時に、釈然としない気持ちも残った。あのひとにとって、高校での三年間は無かったことになっている──そのことが、無性にかなしかったのだ。

***

 七米津、もとい泰善高校の野球部は、どこにでもあるような地方の弱小部活だった。

 それが、なんの間違いか甲子園を目指すまでになったのは、ひとえにオージさんのおかげだった。もっというなら、オージさんの代が粒揃いだったのだ。彼らが活躍するなか、俺たちの代はずっと控え要員に甘んじていた。その立場は、一年生の頃はもとより、二年生になっても変わらなかった。

 予想外だったし、面白くもなかった。弱い野球部だと思っていたからこそ、俺は入ったのだ。小学校から中学校にかけては主力メンバーだったプライドもあって、この高校なら主役になれるだろうとタカをくくっていた。女子にモテたいという下心だってあった。それが蓋を開けてみれば、上がつっかえていて出場機会がほとんどない。そのくせ「王子」のおかげで野球部の人気はうなぎのぼりとくる。

 一年生の終わり頃から、俺は部活をサボるようになっていった。そんでもって、野球部の人気を利用して、たびたび他校の女子と合コンをした。「オージ先輩も来るからさ」とダシにしたことは数知れず──そうやって、俺はせめてもの青春を謳歌していたわけだ。

 ただ、当然ながら、すぐにそのツケは回ってきた。
 忘れもしない、二年生になりたての春のことだ。

 その日も俺は、いつものように練習をサボり、クラスのヤツらと合コンに出かけた。駅前の繁華街に繰り出して、カラオケとボウリングのお決まりコースを堪能してさ。うん、最高だったよ。最終ゲームの10投目、ターキーを達成して、ガッツポーズで振り返ったんだ。

「──おい、タマゴ」

 目の前に、オージさんがいた。あちこちに泥が散ったユニフォーム姿。肩にはパンパンに膨らんだスポーツバッグ。ああ、部活帰りなのか、とマヌケなことを思った瞬間、横っ面に衝撃が走った。間髪入れずにもう一発──目にも留まらぬ往復ビンタだった。

 その場に崩れ落ちた俺に向かって、オージさんは静かに、しかし憤怒ふんぬの形相で告げた。

「他のやつらには黙っててやるから──明日はちゃんと練習に来い」

 翌日、俺はビクつきながらも部活に顔を出した。ボウリング場での一件などなかったかのように、オージさんはひょうひょうと振る舞っていて、それがまた逆に恐ろしかった。

「……すみませんでした」

 オージさんが休憩したタイミングを見計らって、俺は改めて謝った。彼はひとつ頷いて、それから少しの間を置いて、言った。

「ピッチング練習するから、おまえ受けてみろ」

 初めてのことだった。少なくとも俺が一年の頃は、わざわざ指名されることなんてなかったのだ。言われるがままにマスクをかぶり、距離をとった。きれいなオーバースローで放られた白球が、唸りを上げて飛んでくる。どうにかれた。ストレートが続いたところで、決め球のフォーク──これも、なんとかこぼさずにキャッチ。正直、後ろに逸らさないようにするだけで精一杯だった。でも、今までになく楽しかった。オージさんの球を受けている──ただそれだけのことで、心が確かに浮き立つのを感じた。

「悪くない」

 10球ほど投げたところで、オージさんは表情一つ変えずにそう言って、つづけた。

「今度から、まずはおまえが受けろ。おまえにとっても肩慣らしになる、いいな」

 それからというもの、俺は毎日のようにオージさんの練習に付き合うようになった。柔軟とランニングが終わって15分の投球練習。その営みは、彼が引退するまで続いたのだった。

***

 ゆるやかにサーブされたテニスボールが、オージさんの真横を通り過ぎていく。ほとんど同時に、ラケットの風音が虚しくコートに響いた。数秒遅れて聞こえてくるのは、彼の舌打ちだ。九連続の空振り──さしずめ野球ならば三連続三振。たまらず、俺は外野から声をかける。

「ボールから目を離さないで、引きつけて!」

 大学近くのテニスコートを借りての、サークル全体練習。とりあえずは一年生同士で組ませてみたものの、結果は芳しくないようだった。初心者歓迎をうたっているサークルということもあってか、一年生には未経験者も多いのが救いである。とはいえ、ラリーがまったく続かないのは問題だった。オージさんの空振りは多いし、たまに当たったかと思えばホームランよろしく明後日の方向にかっ飛ばしたりする。

「──クソが」

 本人としては、単なるつぶやきなのだろう。己を責めてもいるのだろう。ただ、彼の声はよく響くのだ。ラリー相手の一年男子が、気の毒なまでに萎縮しているのが傍目にも分かった。

 恵まれた体躯たいくから繰り出される、へっぽこスイング。そう、このひとは打つのが大の苦手なのだ。野球部時代からずっとそうだった。ピッチングセンスはずば抜けているものの、バッティングはからっきし。エースで四番というのは高校野球の花形だが、オージさんに限って言えば打順の最後尾──九番が定位置だった。そのくせ、不思議とチャンスで打席がよく回ってくる。だから試合終盤でのチャンスシーンには、俺がピンチヒッターとして送り出されることが多かった。いわば「代打の切り札」──それが俺の、高校時代の主な役割だったのだ。

「すみません、休憩させてください!」

 オージさんの相手をしていた一年生が、そそくさとコートの外に引っ込んだ。しかし、代わりに入ろうというヤツは誰ひとりいない。ふと、視線を感じて振り向けば、オージさんがこちらをじっと見つめているのだった。

「はいはい、行きゃいいんだろ、行きゃ……」

 無言の重圧に耐えかねて、ラケットを拾い上げる。ただ、即座に練習を再開するわけにはいかない。俺はオージさんのほうへと歩み寄り、そっと告げた。

「……先輩、イラつくのは分かりますけど、ちょっと辛抱してくれませんか。他校との試合でもなし、練習相手を怖がらせたってどうしようもないですよ」
「……コソコソしやがって」
「……はい?」
「……注意するなら、もっと大きな声で言えっての」

 声こそ抑えているが、こちらを見下ろす瞳には苛立いらだちがありありと滲んでいた。この威圧感も相変わらずだ。俺とて身長は170センチちょっとあるし、体格もそこそこ良い方ではあるのだが、オージさんを前にするとどうにもかすんでしまう。

 それにしても──「もっと大きな声で」とは、さすがに横暴だろう。こちらも体面というものがある。三年生が一年生を「先輩」扱いしているなんて知れたら、色々と面倒だというのに。

「カンベンしてくださいよ」

 せめてもの抗議にそう言い置いて、俺は自陣へと戻った。いざ練習再開──ひとまず、緩いサーブを打ってみる。さっきの一年生よりももっと遅い、山なりの球。オージさんがラケットを振ると同時、ぼこん、と鈍い音がした。おそらくはラケットの縁に当たったのだろうが、それでも上出来だ。ラリーが続くことが重要なのだ。これまでを見るに、フォアハンドよりもバックハンドのほうがまともに返せるようだった。後はもう、彼の利き手とは反対側にひたすらリターンしてやればいい。

 彼が打ちやすい場所へ返球する一方で、コートアウトしそうな荒れ球をどうにか拾い続ける。終わる頃にはもうヘトヘトになっているというのが、お決まりのパターンだ。もしもここがテニスコートではなく、グラウンドだったら──そう、高校時代であったなら。オージさんとのマンツーマンの練習は、厳しくもあったが、それ以上に楽しかったはずなのに。

***

「……いいんすか、俺なんかと練習してて」
「どういうことだよ」
「いや、だから……投げるなら、俺じゃなくて正捕手にもっと時間を割いたほうがいいんじゃないかと」

 そんな疑問をぶつけたのは、高校二年生の六月──甲子園出場をかけた地方予選が始まろうかという頃合いのことだった。「肩慣らし」ということで始めたコンビ練習は、時期が本格化していくにつれて頻度も増えていった。

 監督に言われたわけでもなく、二人でグラウンドに居残ってピッチング練習に勤しむ。しょせん俺は控えキャッチャーであって、試合でバッテリーを組むのはオージさんと同学年の先輩なのだ。出場機会が見込めないことは当の自分がよく分かっていて、だからこそ負い目があった。僭越せんえつながら、時間がもったいないとすら思っていた。

「必要なことだろ」
 あくまで淡々とした調子で、オージさんは言った。
「万が一あいつが怪我したら、おまえとバッテリーを組むことになるだろうが」
「そりゃそーですけど……」
「それに、おまえが受けているときのほうが気分良く投げれる」

 今にして思えば、俺を練習相手にしていたのは、雑談要員としての側面もあったかもしれない。オージさんは朴訥ぼくとつな人柄ではあったものの、喋るのが苦手というわけではないらしかった。その証拠に、話題を振ってくるのは決まって彼の方からだ。野球の話もするにはしたが、無関係なお喋りのほうが多かったと記憶している。いま流行りのゲームは何か、人気のアイドルは誰なのか、そして将来の進路をどうするか──。

「タマゴ、進学希望なんだって? どっか行きたいところあんの?」
「別にないっすよ。行ける範囲で、なるべく頭の良さそうなトコがいいなーって」
「スポーツ推薦で?」
「いや、んなもん期待してませんよ。ふつーに一般受験すると思います」

 苦笑交じりに答えて、球を投げ返す。

「先輩はどうなんすか──大学とプロ、どっちなんです?」
「プロに決まってんだろ」
「ですよねぇ」
「ところでおまえの親……酒強いのか?」
「はい? まぁそこそこ強いですよ、毎晩のように夫婦で飲んでますし」
「……羨ましいな」

 思わず、球をはじいてしまった。なんてことのない、ど真ん中のストレート。いつもなら怒号が飛んでくるはずが、その時ばかりはなぜか怒られなかった。

「……たぶんな、酒弱いんだよ、俺。両親そろって下戸げこだから」
「……それが、どうしたんです?」
「プロってめっちゃ飲むらしいんだよ、特に有名な選手ほどな」

 オージさんの表情は、薄闇にまぎれて窺いしれない。ただ、どこか弱気な物言いが、ひどく耳に残った。俺も俺で、慌てて話題をらしたのだっけか。

「まずは甲子園で注目されなきゃ、でしょ?」
「まあ、そうだけどよ」
「頑張って甲子園に連れてってくださいよ、期待してますから」
「アホ、おまえも頑張るんだよ」

 そうして始まった、甲子園出場をかけた地方予選。我が野球部はあれよあれよと勝ち進み、ついにあと一勝で甲子園ということころまで来た。

 その最終試合は、接戦だった。一点ビハインドで迎えた九回裏、ツーアウトフルベースで一打サヨナラのチャンス。バッターはオージさんだったが、そこで俺が代打に出されたのだ。粘りに粘った。はっきりとしたボール球には手を出さず、クサい球はファウルで逃げて──そして、忘れもしない、フルカウントからの10球目。

 相手ピッチャーがほうってきたのは、ど真ん中の棒球ぼうだまだった。
 おそらくは、フォークのすっぽ抜け。
 甘すぎる球、明らかな失投。

 なのに──いや、だからこそ反応が遅れてしまった。

 今でもありありと思い出せる。

 振り抜いたバットが、くうを切る感触も。
 相手ピッチャーの、獣じみた雄叫おたけびも。
 仰ぎ見た太陽の、刺すようなまぶしさも。

 終わってみればあっけない、俺にとっては最悪の幕切れ。

「──すみませんでした」

 人目もはばからずに涙を流しながら、俺はオージさんに頭を下げた。自分に対する情けなさと彼に対する申し訳なさで、まともに顔を見ることもできなかった。ふいに、ぽん、と頭に何かが乗せられる。それがオージさんの手だと、遅れて気付いた。

「おまえが打てなかったなら、仕方ないだろ」

 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その面持ちは優しげだった。高校時代を通して、あれほどまでに温かな彼の表情を、俺は見たことがない。

 ──俺が三年生になって、監督から知らされた事実がある。

 かつてサボりの常習犯だった頃、当時の上級生たちから、俺を退部させようという声が上がっていたこと。それを唯一押し留めたのが、他ならぬオージさんであったこと。「キャプテンは俺ですから、責任持って面倒見ます」──その宣言通り、俺を部に復帰させたこと。

「オージになれとは言わんよ」
 懐かしそうに目を細めながら、監督は言ったものだ。
「ただ、あいつがそういう姿勢だったことは、頭の隅に留めといてくれ──なっ、キャプテン」

 こうして我がチームは念願の甲子園出場を果たしたのです──となれば綺麗なのだが、現実はそう甘くない。結果として、俺たちの代も甲子園には手が届かなかった。地方予選で初戦敗退。そんなていたらくが物語るとおり、結局は上の代が特別であって、俺たちの代は平凡だったのだ。まあ、代打要員だった俺がキャプテンに指名されるくらいなのだから、お察しである。

 正直、野球についてはやりきったと思った。だから、大学では別の運動系サークルに入ろうと思った。結果として、落ち着いた先が今のテニサーだった、それだけのことだ。適切に飲んで、適度に運動する。そのバランスでいえば、今いるサークルは理想形だった。愛着もあるし、部長に指名されてからは想いもいっそう強くなった。

 オージさんの心意気を胸に、サークルを回していく──。
 そこで障害となるのが、まさか当の本人だとは思いもしなかったけれど。

***

「例の王子サマさー、さすがに調子乗りすぎだと思うわけよ」

 大学も夏休みに入った、八月の初め。待ち合わせ場所に指定された居酒屋に着くなり、部長はそう切り出した。名目上は部長職の引き継ぎ説明だが、そんなものは先月の時点でとっくに済んでいる。実態としては、オージさんにまつわる井戸端いどばた会議とでも言うべきものだ──それも、かなり個人的な。

「俺の彼女がさ、あいつに口説かれたんだわ」
「というと……具体的には?」
「飲みに誘ってきたんだとよ。本人は遠回しに断ってんのに、しつこく言い寄ってきたって話」

 マジありえんわ、とぶつくさ文句を言いながら、部長はビールをあおった。なるほど、と俺も適当に相槌を打ちながら、つまみの枝豆を口に運ぶ。

「王子」の悪評は、以前にも増してサークル内に広がっていた。退部にしろ、という意見もちらほら上がってきている有様だ。もともとその手の話題には寛容だった四年生ですら、最近は彼のことで苦言をていするようになった。そこにきて、今回の一件である。

「──で、どうするんです、あいつのこと」
「そりゃあおまえ、決まってんだろ?」

 その口ぶりに、俺はすべてを悟る。引退間近とはいえ、部長はいまだこのひとだ。鶴の一声をもってすれば、オージさんを強制退部にすることは造作ぞうさもない。そうなれば俺もかばいきれない。もはやここまでか──諦めに浸りつつ、ジョッキに口をつけたところで。

「マモルから王子に言ってやってくれよ、ビシッと! ガツーンと!」

 思わず、ビールを吹きそうになった。

「いや待って、なんで俺なんすか!」
「おまえ以外に誰がいるんだよ!」
「いやいやいや、話のスジ的にも立場的にも部長が言うべきでしょうよ!」
「だってほら、俺は就活中だし、代替わりももうすぐだし……?」
「後腐れがないってんなら、部長のほうが適任でしょうが……」
「そこはそれ、次の部長はおまえだし、しかも王子といちばん仲いいじゃん」

 上下関係が薄い、ゆるふわサークル。その平等性は、主体性の無さと表裏一体だ。俺だって同類ではあるものの、根っこが体育会系であるせいか、相対評価でリーダーシップがあるということになっている。オージさんとの仲だってそうだ。俺としては、なるべく普通に接しようとしているだけで──ただ、そんな抗議をしたってラチがあかない。

「……わかりましたよ」

 ヤケ気味にビールを一気に飲み干してから、俺は部長を見据えた。

「要するに、王子サマの処遇は俺に一任すると。そういうことで、いいんですね?」

***

 先輩と別れた後の帰りしな、コンビニで缶ビールを買った。飲み直さなければやってられなかった。駅前のロータリーに差し掛かったところで、隅っこのベンチに腰を下ろし──さっそくとばかりに缶を開ける。いつもは学生でひしめき合うこの場所も、夏休みに入ったおかげか人通りはまばらで新鮮に映る。案外、こういう独り飲みも悪くはない。ただ、もやついた気分が完全に晴れるわけでもなかった。

 頭を占める事柄といえば──言うまでもなく、オージさんの今後についてだ。

 とりあえず、彼が即座に追放されることはなくなった。しかしそれも、首の皮一枚でつながっているというだけのこと。もう後はない。さしずめ9回裏ツーアウト。いや、本来ならば大差コールドゲームで終了しているはずが、幸か不幸かここまで来てしまった。

 次にオージさんと顔を合わせたときが、山場やまばだ。順当にいけば、そのタイミングは二週間後のサークル夏合宿になるだろう。面と向かって反省を促し、改善が見られなければ退部とする。それくらい強い態度で臨まなければ、俺としても部員からの信頼を失ってしまう──。

「めんどっくせぇ……」

 何度目か分からない溜息が、口の端から漏れた。代わりとばかりにビールを流し込もうとするが、いつの間にか空になっていた。酔いが回る気配は微塵もない。悲しいかな、酒に強い体質というのは、こういうときに不便なのだ。よっぽど、この場に寝転んでしまいたい気分だったけれど、知り合いに見られでもしたら格好もつかない。

 やれやれと重い腰を上げたところで──ふと、ほど近くの人影が目に入った。

 オージさんが、いた。そばにいるのは、女子ふたり──うちのサークルの二年生だ。煌々と輝くポールライトに照らし出された三人は、その表情から顔色までつぶさに見て取れる。加えて言うなら、オージさんのほうはすっかり出来上がっているようだった。

「いーじゃないですかセンパイがた! ここで会ったのも何かの縁ですよ! せっかくだから飲み行きましょーよ!」

 バカでかい声が、蒸した空気を震わせる。彼の誘いに、ふたりが応じていないのは明らかだった。そろって顔に苦笑をはりつかせ、手を横に振っている。ひとりはわずかに後ずさり、もうひとりはくるりと背を向けた。しかし、その肩をオージさんの手が掴む。あたかも、逃さないと言わんばかりに──。

「いーでしょう、センパイ、ねぇ!!」

 退部扱いにしたところで文句は出ないだろう。
 オージさんを追い出して、そのまま縁を切る。
 新部長の初仕事としては、おあつらえ向きだ。

 ──けれど、そんな結末は、どうしても許せなかったのだ。

 瞬間、俺は右手の缶を全力でぶん投げていた。オージさんに──ではなく、そばにあった屑カゴへ。がごん、とけたたましい音が鳴り、三人の視線が一斉にこちらを向く。大きく息を吸って、俺は精一杯の笑みを浮かべた。

「はいはーい、代打・オレ! 田間センパイだよ!!」

 あからさまに鼻白はなじらんだ様子のオージさんに構わず、俺はつづけた。

「このまえ飲む約束してたじゃん? いい店連れてってやるよ、な?」

 口から出任せだったが、この際どうでもよかった。呆気にとられている傍らの二人に向けて、小さく手を振ってみせる。彼女たちも意図を察したのか、小さく頭を下げると、足早に去っていった。

 ──さて、問題はここからだ。

「どういうつもりだァ、タマゴぉ!!」

 鼓膜が割れんばかりの大音量。真っ赤に上気した顔。鬼がサングラスをかけたなら、たぶんこんな具合なのだろう。

「こっちのセリフですよ!」

 俺も負けじと、真っ向から怒鳴り返す。

「泰善の王子サマが、ずいぶんオヤジ臭くなりやがって──」

 続けようとした言葉は、しかし、彼の張り手によって遮られた。いきなり胸をドツかれたのだ。鈍い痛みとともに、恐れがそのまま奥に引っ込み──代わりとばかりに湧き上がってきたのは、どうしようもない怒りだった。

「いい加減にしろや!」

 お返しとばかりに、こちらも胸板を突き飛ばす。彼からしてみれば予想外だったのか、それとも酔いのせいか。体勢を崩し、そのまま後ろに倒れ込んだのだ。

「失望させんなよ、先輩!!」

 一喝とともに、身構えた。すぐに反撃が来るだろう。おそらく俺はブチのめされるに違いなかった。しかし、オージさんはいつまで経っても起き上がらない。代わりに聞こえてきたのは、怒声でもなければ罵声でもなく──唸るような泣き声だった。

 面食らうこちらをよそに、オージさんは伏せていた顔を上げた。

「……なにが先輩だァ、俺の願いも聞かなかったくせに」
「……何がですか、ワケわかんないっすよ」
「……新歓で最初に言っただろうが……ちゃんと後輩扱いしろってよォ!」
「……はぁ?」

 ──「高校では俺が先輩だったわけだけど、分かってんだろうな」。

「──はぁあああああ!?」

 あの脅迫めいた文句の意味は、そういうことだったのか。
 どう考えたって、あまりにも言葉が足りなさすぎる。
 ああもう、このひとは──本当にこのひとは!

 そこでようやく、俺は気付く。周囲の通行人の視線が、俺たち二人へと注がれていることに。傍から見れば、俺が酔っぱらい相手にカツアゲでもしているように映るだろう。冗談じゃない、むしろ被害者はこっちなのだ。

「……とりあえず立って! ほら早く!」
「もうやだァ……ねるゥ……」
「起きろォ!!」

 切なる叫びとともに、巨体を引っ張り起こす。勢いのままに、無理やりながらも肩を貸す格好に持ち込んだ。オージさんの足元はおぼつかないが、歩けないほどではない。ならば、どうにか連れて行くことはできるだろう。ゆっくりと、しかし着実に、足を踏み出していく。

 向かう先は、駅とは真逆の方向だ。

「どこ行くつもりだァ……」

 力なく尋ねるオージさんに、俺は微笑んでみせた。

「飲みに行くんだよ、お望み通りな」

***

 それから、10分ほど経った頃だろうか。

 俺とオージさんは、とあるバーのテーブル席で向かい合っていた。学生街の裏路地にあるこの店は、サークルの行きつけでもある。幸いにして、客は自分たち二人だけだ。

 オージさんはと言えば、入店してからずっと押し黙ったままだった。見たところ、歩いているうちに酔いもあらかためてしまったらしい。こちらとしてはありがたい限りだが、当の本人としては複雑な心境だろう。唇を真一文字に引き結び、きまり悪そうに視線を泳がせているのだった。

「プリンス・マティーニを2つで」

 オーダーを取りに来た店員にそう告げたところで、オージさんは俺をまじまじと見つめた。

「おまえ、今の……」
「いいって、俺の奢りだから心配しなくて」
「そうじゃなくて──マティーニってかなり強いやつだろ」
「よく知ってるじゃん、バーはよく行くのか?」
「行ったことはねーけど、有名なカクテルだろ」
「なるほどね、ちなみに乾杯のときはグラスをぶつけないようにな」

 そんな話をしているうちに、テーブルには二杯のカクテルが並んだ。互いにグラスを掲げて、口に運ぶ。ふぅ、と小さく息をついて、オージさんは眉をしかめた。
 
「さすがに……強いな」
「辛口でいいだろ? ま、アルコールは入ってないけどな」
「……はっ?」
「ノンアルカクテルなんだよ、これ」

 大学界隈の店とあって、学生をお得意様にしている店は多い。このバーの売りは、学生サークル固有の「代表カクテル」を創作してくれることだった。ウチのサークルの場合は、この「プリンス・マティーニ」がそれというわけだ。

「──この代表カクテルは二代目でさ。初代はサークル名をそのまま冠した、それこそマティーニ並みに強い度数のカクテルだったわけ」

 我がテニサーの創立当時、つまり10年ほど前は酒飲みの部員も多かったらしい。また、テニサー間における酒豪アピールにこぞって使われてもいたという。ただ、それももはや昔の話だ。今となってはウチのサークルも「飲みサー」ではないし、逆にそれを目当てに入ってくる新入生も多くなった。

「そういう事情もあってな。去年、俺の提案で代表カクテルを変えることになったんだよ」

 カクテルの王様と称されるマティーニ。本来ならば、カクテル初心者が興味本位で飲むような度数ではないけれど、これはノンアルコールだ。ゆえに、王ではなく王子──プリンス・マティーニ。その種明かしまで含めて楽しむ、いわばネタカクテルだ。とはいえ、バーテンダーが力を入れて風味を再現したとあって、呑兵衛のんべえの部員にも評判が良い一品である。

「……あれか、モヒートに対するヴァージン・モヒートみたいなもんか」
「そうそれ、大正解」

 ──正直に言えば、発想のもとはオージさんだった。コンセプトを考えるときに、自然と思ったのだ。オージさんが大学生になったとして、彼みたいな下戸でも楽しめるような……そんなカクテルがあればいいなって。そんなことは、本人を前にして言えやしないし、この先も言うつもりはないのだけれど。

「とにかく、うちはそういうサークルなんだよ。酒に強いかどうかなんて誰も気にしないし、見栄をはる必要もないわけで」
「……逆だろ、だからこそ見栄をはりたくなるもんだ」
「なんでそうなる」
「酒は飲めないより飲めたほうがモテるだろ。酒を飲まないサークルなら、なおさら」
「モテるって……?」
「おまえを見てるとなおさらそう思うよ……サークルの女子からモテモテじゃん」
「モテモテって……いや本質はそこじゃなくて……っていうかそれを言うなら、さぁ」

 本当なら、ずっと触れないでおくつもりだった。
「なんで、野球部に入らなかったんですか」

 それでも、言わずにはいられなかった。
「どうして、野球を続けてないんですか」

 泰善高校の元チームメイトとして──
 いや、“王子”のファンとして、悔しくて仕方なかった。

「プロフにわざわざ昔の高校名書いて、柔道部なんてウソまでついて──どうして、ウチに来たんですか……?」

 にわかに、静寂が降りる。しかし、それも長くは続かなかった。

「もう、投げられないんだよ」

 ぼそりと、つぶやくようにしてオージさんは口を開いた。

「俺の肩は、もう競技レベルで使い物になりゃしないんだ」

***

 大学進学はもともと考えていなかった──とオージさんは言った。

「プロか、社会人野球でやっていくか、その二択だったよ。けど、おまえも知ってる通り、ドラフトには引っかかりもしなかった」

 だから、オージさんは高校卒業時点で就職の道を選んだ。社会人野球では名門とされる隣県の企業に入社して、ゆくゆくはプロを目指そうとしていた。そこまでは、俺も知っていたのだけれど。

「就職してすぐだよ、肩の故障が見つかったのは」

 このまま野球を続けるなら、日常生活にも支障が出る──医者からはそう伝えられた。

「プロへの道が絶たれた時点で、野球への未練はなくなってた。自分でも驚くくらいに。じゃあ俺の人生なんだったんだって思ったよ──そこでいきなり、大学に行きたいって思ったんだ」

 彼が選んだのは、仕事を続けながらの浪人だった。ハタチの初受験はあえなく失敗。それでも、二浪目にして念願の合格を勝ち取った。そうして進学したのが、世間的には「難関校」とされるウチの大学だった。

「……学歴だとか、就職だとか、もちろんそれもあるさ。少なくとも、親にはそう説明した。けどさ、一番の理由はそうじゃねぇんだよ──俺なりにさ、自分の青春ってやつを取り戻したかったんだ」

 ──高校の頃はさ、まあ、自分で言うのもアレだけど女子から人気があったさ。けど、意識して遠ざけてた。異性に死ぬほど興味があっても、それは今じゃないって必死に言い聞かせて、我慢してた。それがプロにも行けなくて、野球すらできなくなって──やっと気付いたんだ。俺から野球を取ったら、何も残りやしないんだって。最初の就職先だってそうだった。せめてもっと明るく、今よりも酒が飲めるようになれって──だから、大学ではそういうふうになろうって、そう思ったんだ……。

 大きく息を吐いて、彼は自嘲気味に微笑んだ。

「不純な動機ってやつだよ、笑うなら笑えよ……センパイ」

 俺もまた、深々と溜息を絞り出して、微笑み返す。

「なあ、大路おおじ

 呼び捨ての名字は、いざ口にしてみれば、案外すんなりと馴染んだ。

「……なんで俺が、そんなんで笑うと思ったわけ」

 ナメないでほしい。異性との付き合いに関しては、自分は紛うことなき「先輩」なのだ。テニスなんかよりも、よっぽど。

「不純な動機? 上等じゃん。俺だって、高校で野球をやってたのはそういう理由なんだから」

 同情はする。共感もする。
 でも、だからこそ、言わねばならないこともある。

「はっきり言って、今のおまえがモテるわけがないし、それ以前の問題だ」

 一息の間を置いて、俺はつづけた。

「飲めりゃモテる? 笑わせんな。いくら飲めたところで、酒癖が悪けりゃ人は離れていくんだよ。ウチみたいなサークルなら余計にな。酒に呑まれるくらいなら、ハナから烏龍茶だけ啜ってる方が百億倍マシなんだよ」

「だったら──どうすりゃいいんですか」

 うなだれた格好のまま、オージは絞り出すように言った。

「俺だって、どうにかしようと思った、せめて謝ろうって──でも怖くて、酒で気を大きくしなきゃマトモに話せもしないのに」

 まくし立てるように言って、彼は伏せた顔を上げた。

「もう……どうしようもないでしょうよ、こんなの」

「どうにか、するんだよ」

 本人の「やる気」があるのは分かった。
 ならば、その背中を押してやればいい。
 俺だって、方策を用意してはいたのだ。

 ただ、「後輩」の立場がそれを邪魔していたというだけで。

「先輩の言うこと、ちゃんと聞いてもらうからな……覚悟しろよ?」

***

 そうして迎えた、サークルの夏合宿初日。飲み会がはじまっておよそ一時間。百人あまりが一堂に会する宴会場は、新歓期とはまた違った盛況ぶりを呈していた。

 この時期にもなると、新入生の顔ぶれはおおむね固まるものだ。とはいえ、それなりに大所帯のサークルでもあるから、上級生がメンツを把握するのも一苦労である。とはいえ、それは新入生も同様の悩み。一年生同士であっても、互いにまだ面識が無いというケースは少なくない。

 そうした課題を解決するためのイベントとして、大体どこのサークルでも夏合宿を企画する。新入生の自己紹介、そしてウチみたいにサークル代表の交代式を重ねるところだってある。つまり、俺も今日から晴れて「部長」というわけだ。

「ようお疲れ、マモル新部長」
「大遅刻っすよ、元部長」
「仕方ないだろ、昨日は徹マンしてたんだから」
「何も仕方なくないんだよなぁ」

 手荷物もそのままに宴会場へ入ってきた元部長は「すまんすまん」と悪びれた様子もなく頭を下げた。なんでも、寝坊をかまして観光バスに乗り遅れたらしい。元気なものだ。この宿まで6時間、鈍行電車を乗り継いでやってきたというのに、疲労の色はまるで見えない。

 駆け付け一杯とばかりにビールを口にしながら、先輩は辺りをしげしげと眺め回した。

「何か問題はなかったか?」
「いや特に、平和そのものですよ」
「そりゃいいや、王子を退部させた甲斐があったな?」
「いやいや、勝手に除名しないでくださいよ」
「マジで? アイツどこにもいねーじゃん……あ、欠席か?」
「ガッツリ参加してますよ……ほら、あそこ」

 俺が指し示した先には、丸刈りの優男やさおとこがいる。身にまとったライトブルーのポロシャツが涼やかで、小麦色の肌によくえてもいた。

「誰だよあいつ」
「だから王子ですってば」
「ウッソだろおまえ!?」

 無理もない反応だった。合宿の始まりからして、周囲を驚かせたのだ。オージ本人は早い時間に集合場所に来ていたものの、上級生はおろか一年生ですら本人だとは信じておらず──点呼の段になってようやく「本物」と判明したというのだから。

「……変わったのは見た目だけか?」
 空になったグラスを掲げながら、先輩は忌々しげにオージを見やった。
「ビール片手に女子に絡みやがってよ、相変わらずだな」
「あいつが持ってんの、ジンジャーエールですよ」
 笑いをこらえながら、俺はつづけた。
「口説いてんじゃなくて、謝ってるんです、あれ」

──夏合宿で、皆をあっと言わせてやろう。

 二週間前のあの日、バーで俺から提案したことだ。夏合宿は、新入生にとってお披露目の場であると同時に、仕切り直しのチャンスでもある。この日のために、そしてこれから先を見据えて、俺は二つの大方針を立てた。

 ──まずは、信頼を積み上げること。

「昔のことは忘れろ。飲めない酒を無理に飲むな、他人に無理いをもするな」

 ──そして、印象を一新することだ。

「昔を思い出せよ。おまえの魅力は野球だけじゃない、さっぱりとしたルックスだ」

 高校時代をベースに、変えるべきところは変えて、変えなくていいところはそのままに。頭を丸刈りにしたのも、その一環だった。オージとしては謝罪の意味合いもあったらしいが、俺からすれば髪型として一番似合っていると感じたものだ。

 本人の要望もあって、イメチェンには俺も付き合った。一緒に都心のファッションビルに足を運び、オージの全身コーディネートを見繕みつくろったのだ。正直、まったく苦にはならなかった。

 オージの私服のシミュレーションなんて、高校の頃にさんざんやったからだ。ファッション誌の高身長モデルが、シンプルな服をきれいめに着こなしているのを目にするたび、俺は幾度となくため息をついたものだ。俺には無理だが、オージさんならこんなふうにカッコよく見えるんだろうな──と。実際、当時の見立ては間違っていなかったといえる。俺がチョイスした服は、どれもこれも彼に似合っていたからだ。

「俺、夏合宿で皆に謝って回ろうと思うんですよ」

 帰り道、両手に買い物袋を提げながら、オージは力強くそう口にした。

「皆が許してくれるとは思わないし、怖くて仕方ないけど……それでも、ケジメは必要だと思いますから」

──そうして、今日にいたる。

 飲み会が始まってからというもの、オージはほうぼうのテーブルを練り歩きながら頭を下げていた。一年生についてはあらかた回り終えたのか、今は二年生の輪に加わっている。その中には、ロータリーで絡んでいた女子二人組もいた。

 幸いにして、険悪そうな雰囲気は感じられない。むしろ、この場に関しては、彼女たちの方が積極的に絡んでいるようですらある。上機嫌そうに、丸刈りの頭をよしよしと撫で回すふたり。そして、照れくさそうに口元を緩めるオージ……。
 
「後で、先輩のとこにも来ると思いますよ」

 元部長の肩を叩いて、俺は席を立った。
 
「あの通り本人も反省してるんで、なにとぞ寛大な心で。ね、先輩」

 これからだぞ──オージを横目に、胸の内でつぶやく。
 サークルも、大学生活も、ひいては俺たちの関係だって。
 そう、ここからがスタートラインなのだと。

***

「──それがまあ、順当に部長になるとまでは思わなかったわけよ」

 この話をするのも、本当に久しぶりのことだった。

「めちゃくちゃ懐かしいですね」

 干したカクテルグラスを卓に置いて、オージは照れくさそうに頭を掻いた。

「いやもう、若気わかげの至りというか、その節はご迷惑を……」

「いや、そういうことじゃなくてだな」
 ネクタイを心持ち緩めながら、俺は苦笑を返した。
「人生どうなるか分からんよな、って話さ」

 ほんとですね、とオージは感慨深そうに頷く。彼もまた、俺と同じくスーツ姿だった。傍から見ればどちらが「先輩」に見えるのだろう──なんてことを思ったりもして。

 お互い、入社式を終えた身だった。その日のうちに催された飲み会を一次会で切り上げて、プライベートな二次会にしゃれこんだというわけだ。場所はこれまた懐かしい、学生街裏手のバーである。

「それにしてもマモルさん、スキンヘッドとは思い切りましたね」
「これな……いや、染め直すのも面倒だったからっちまうかって」
「社員の人もウケてましたよ、立派な社会人のタマゴだって」
「丸刈りのおまえだって似たようなもんだろうが」

 ともに新卒扱いでの就職だった。大学院を修了した俺と、大学を卒業したオージ。就職先は、同じ会社──大手スポーツ用品メーカーである。

 とどのつまり、俺たちは同期になったというわけだ。

「なあ、大路」
 ひとつ咳払いをして、俺はつづけた。
「大学では先輩後輩だったわけだけど……分かってんだろうな?」

 言い終えるやいなや、ぽん、と俺の頭に手のひらが乗せられた。

「分かってるよ、田間」

 そのまま、よしよしと撫で回してくるオージだった。

 口より先に手が出るクセは相変わらずで。
 そのくせ、どこか憎めなくて。
 そんな性格は、これからもずっと変わらないのだろう。

「分かりゃいいんだよ、分かりゃ、うん」

 照れに任せて、俺もお返しとばかりに丸刈り頭を撫でてやる。ちくちくとした手触りがくすぐったくて、思わず吹き出してしまった。二人して頭を撫で回していたところで──締めに注文したカクテルがやってきて、俺たちは慌てて互いに手を引っ込める。

「……大路、本当にコレ好きだよなあ」
「……初めて飲んだノンアルカクテルだからな」
「思い出の味ってやつか」
「おまえだって、そうだろ?」

 微笑みを返して、俺はグラスを掲げる。
 応じるようにして、大路も。
 淡い光をたたえて、二杯のプリンス・マティーニがゆるやかに波打った。

<了>

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