見出し画像

自分を表現すること

7月13日の夕方に、中村佳穂のライブを聴きに恵比寿リキッドルームへ遊びに行ってきました。

ぼくが初めて中村さんにお会いしたのは、5年ほど前のこと。それから彼女のライブに何度も行ったり、京都でのパーティーも企画したりするなかで、彼女の歌や音楽と向き合う姿勢を通して、ぼくは中村さんからいつも勇気づけられ、励まされてきた気がします。

また彼女をきっかけに、新しい友人たちができたり、大学時代の仲間に再び巡り会えたりもしました。音楽は人をつなげるのだなと思います。

中村さんはライブのとき、いつもピアノを弾きながら口上を述べるように歌い始めます。自分の名前は中村佳穂で、どこからきて、なぜ今ここにいるのか、なぜあなたの前にいるのか、そしてここから何が生まれるのか。

それは時に聴いているこちらが赤面するようなピュアな想いであったり、繊細さであったりもするわけですが、わたしはそうした想いをすべて歌にして聴衆に届ける、そういった覚悟のようなものが彼女の中にはあり、それが彼女の表現の大きな芯になっていると思います。

自分を表現する、ということはアーティストや音楽家だけに許された特別な行為ではありません。

それはぼくたちの誰もが、普段の生活の中で自然に行っていることです。

しかし、自分を表現することと、自己開示をすることはイコールではありません。ポーズやガードを取り去った自己開示は、恥ずかしいし、おそろしいことでもあります。

自分が自分であることは一点も動かしようのないことです。今ここにいる私ではない私は存在しません。これが私です。その私をすべて開いたとき、無理解や誤解、その他どんな理由で私を否定されたとしても、私はここから離れることはできません。逃げることはできないのです。なぜなら、これが私だからです。

そんな無防備な自分を表に出して、傷つくかもしれない可能性を抱えながら、それでも勇気を振り絞って自分のすべてを表現していくということは、とても勇敢な行為ではないでしょうか。

中村さんのライブを観ながら、ぼくはいつも自問自答してしまいます。ぼくはこのように正直に自分のすべてを出しているだろうか。人からよく思われようと隠している部分はないだろうか。そうして他者に対して隠しているまさにその部分によって、自分を肯定することを自分で難しくはしていないだろうか。

私は自分のすべてを抱擁しているだろうか、自分に対してYesと言っているだろうか?

上手く生きることと、良く生きることの二つの生き方があるとして、そのどちらかがより重要だとか、価値があるだとかいう議論は少し行きすぎであって、社会の中で生きていくぼくたちには、どちらも必要です。

だがそうして、ぼくたちは自分を守るために自分を隠すことに、自分の部分的な真実を語ることに、いつの間にか慣れてしまってはいないか。自分の声に耳を傾けることをせず、職場や家庭での役割のような、他人から期待される像に自分を同一化させてはいないだろうか。

自分をどう表現するかということは、人生をどう生きるかということと密接に関係しています。

中村佳穂の歌と音楽は、人は自分を開いていくことができるのだという事実を、ぼくたちの目の前で示しています。そしてそれは、彼女の音楽が自由であるということと、深く関わっているように思われるのです。

ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。