見出し画像

「依存体質」



 暗くなった部屋でスマートフォンが光り、画面を開くと美雨から「助けて」とだけメッセージが届いていた。
 思わず「またか…」とため息が出る。ようやく資料の整理が終わり、明日の会議でのプレゼンに備えゆっくり休みたかったが、このまま美雨を放っておくわけにもいかなかった。

 車のエンジンは酷く重苦しい音を立てて目を覚ました。真っ直ぐに伸びる国道沿いの道で僕以外の車を見かけることはほとんど無く、等間隔に列んだ街灯の下を通るたびに、僕の体から大切な何かを抜き取られているような気がした。
 十五分ほど車を走らせると美雨の住む二階建ての簡素なアパートの前に着き、僕はいつものコインパーキングに車を駐車させた。アパートの前に戻ってくると二階の一番左端にある美雨の部屋から、すでに男の怒鳴り声が薄っすらと聞こえていた。僕はまたため息をついて手すりが所々錆びている階段を上がる。重い気持ちでいるのに、コンッコンッコンッ!と階段の音が小気味よく鳴るせいで、今日もまたリズミカルに僕は階段を駆け上がってしまった。

 ドア一枚隔ててるとは思えないほどの臨場感のある美雨の叫び声と、迫力ある男の怒号が僕の体が圧迫する。インターフォンを押すとまるでこの場にそぐわない、コンビニにの入店音と全く同じ長めのチャイムがなる。一瞬で静まり返った部屋の中から「は〜い」という美雨の声が聞こえ、「助けて」とメッセージを送くるほどの修羅場にいても尚、チャイムに対して他所行きの声を出す美雨が滑稽に思えた。
 チェーンの掛かったドアの隙間から美雨が顔の覗かせ、「来てくれたんだ…」とわざとらしい言葉を吐いた。

 こういう時も必要なのかと思いながらも、一応お邪魔しますと言ってから部屋に上がる。リビングスペースには長めの金髪を後ろに流し固めたタンクトップ姿の男が、ソファーに座りながら貧乏ゆすりをしている。どうせあるのだろうと視線を向けると、左肩には十字架に磔にされたキリストが彫られていた。
「おたくどちらさん?」男の冷たく乾いた声に心臓をギュッと掴まれるが、これはまだ当たりの方だ。一応は僕を無関係の一人の大人として捉えてくれている。最悪なのは「誰じゃこいつ」とか、「なんだよテメーは」とぶっちぎってくるパターンで、この場合は高確率で殴られる結末が待っている。

「健太くん…私の幼馴染の…」

「まぁ、あの…昔からの兄貴と妹みたいな関係ですね!」

 言葉足らずの美雨に代わり慌てて危険回避の言葉を付け足す。実際に僕らは血の繋がりがない以外は普通の兄妹と変わらなかった。美雨は僕よりも2歳年下で、家が隣同士ということもあり幼い頃からよく遊んでいた。物心がつく前に父親が家から出て行き、母親も仕事で夜中まで家に帰ることがなかった美雨は、晩ご飯も含めほとんどの時間を僕の家で過ごしていた。一人っ子の僕の家庭では小さな美雨の存在が過度な負担になることもなく、娘を欲しがっていた僕の母親は美雨が家にいてくれることをとても喜んでいた。事あるごとに「あなたはお兄ちゃんなんだからどんな時も美雨ちゃんを守ってあげなきゃダメよ」と言い聞かされ、家庭環境の事などで美雨がイジメられる度に僕は彼女を庇い、気にすることはないと元気づけたりしていた。

 美雨に変化が起きはじめたのは彼女が高校に入学してからだった。中学までは地元の同じ学校だったが、高校からは学力や経済的な理由で別々になり、美雨がどんな学生生活を送っているか僕にはよく分からなかった。バイトも炊事洗濯もある程度は自身でこなせるようになった美雨が僕の家に顔を出す頻度は減ったが、それでも必ず僕に家にやって来るタイミングがあった。
それは美雨が付き合っている彼氏となにか揉め事があった時だった。高校生になった美雨は、男と付き合いすぐに別れるという行為を頻繁に繰り返すようになった。付き合う男は皆不良と呼ばれるような人間ばかりでトラブルになることは多かった。それは美雨の家庭環境にもやはり原因があったと思う。父親の顔も知らず、母親からの十分な愛を与えてもらえなかった彼女が、温もりや愛情を優先的に求めることは当然の結果に思えた。

 しかしまだ高校生という年齢では、示される愛情さえも未成熟で簡易的なものであり、その言葉を口にする奴ほど、自己中心的で独占欲の強い人間が多かった。必然的に美雨は精神的にも肉体的にも傷つくことが多くなり、その度に僕の家にやって来た。
 自身の母親や学校には状況を知られたくないと泣く美雨に対して、「大丈夫、健太は小学校からずっと空手を習ってるから、ちゃんと健太が守ってくれるから!」と言って、僕の母親は美雨を抱きしめ続けた。そして僕が美雨の彼氏という男や、その軍団達の中に毎度投入されるのだが、小学生から真面目に習っている空手のせいで僕は何をされても反撃することが出来ず、痛みに耐えることと、病院に行くべきかどうか、自身の負った怪我の状況を見極めることだけに空手は活かされた。
 美雨は傷だらけで帰ってくる僕に、何度もありがとうと言った。

 僕が大学を卒業して東京に就職が決まった後に、母親から電話で「美雨ちゃんも東京で仕事するみたいで、あんたの近くに住むみたいだからよろしく頼むよ!」と言われて現在に至る。
 いい加減にこんな生活から彼女は抜け出さなくてはならない。他人に依存することで自身の寂しさを埋めたり、愛情に似せた、相手を支配することだけが目的の、まがいものの欲情にほだされてしまう弱さから脱却しなければ未来はない。

「あの〜幼馴染かなんか分からないですけど、俺ら二人のことなんでほっといてもらえます?」

「二人で解決できるなら絶対その方がいいし、僕も勿論その方が楽なんですけど、彼女が第三者に助けを求めた時点でもう二人のことでは無くなってるんですよね」

 金髪の男は舌打ちをして目線を下に向けた。

「何があったかはちゃんと美雨から聞かないと分からないし、今日はもう夜遅いんで解散しましょうよ。それでお互い納得できないことがあるなら僕を交えて三人で話しましょう」

「だからなんでオメーが出てくんだよ、話するなら二人でやるよ気持ちわりーな」

「だから僕も二人でしてくれた方が楽なんですね。ただどんな事情があったとしても、自分の彼女に対して外に響くような大声で怒鳴ったり、ましてや物を投げつけたり手をあげたりすることの方が異常なんですよ。状況見たら全部分かるので。だから今日は帰って一旦冷静に考えてみて下さい」

 男は諦めたように息を吐き立ち上がった。その気配から今日も一発殴られそうだなと悟った。男はゆっくりと僕に近づきポケットから抜いた拳を後ろに引いた。振りかぶってこないということはボディー狙いのようだ。助かった、素人に殴られるなら顔よりも断然はボディーの方が痛みは少ない。僕とすれ違うような体勢になった時、男は右拳を僕の腹に素早く当てた。ほら、痛くない、そう思った瞬間に右の脇腹が熱くなった。びっくりして確認すると僕の腹にはナイフが突き立てられていた。
 きっと小さなナイフだが、僕の腹からは血が流れ落ち白いカーペットを赤く染めていく。美雨が悲鳴を上げると、男は慌てて部屋から出て行ってしまった。美雨が僕に駆け寄り抱き抱えるようにして二人でカーペットの上に座り込んだ。
 目に涙を浮かべた美雨は僕の体を支えながら、それでも満足そうな笑みを湛え何度も僕にありがとうと言った。薄れゆく意識の中で、救急車のサイレンのようにその言葉だけが響き続けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?