明智光秀

 はい!やってまいりました。孝太の雑録。

 今日は明智光秀についてです。明智光秀といえば今期のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公であり、真っ先に思い浮かぶのが、本能寺の変。この本能寺の変の原因としてよく言われるのが、「母親を殺された」、「家康の接待で恥をかかされた挙句、丹波、丹後は召し上げにし、切り取り次第で出雲、石見を与えるという国替えを命じられた」、「親族筋である長曽我部家への侵攻を防ぐため」、「信長の傍若無人な振舞いに我慢が出来なかった」、「秩序を守るため」、「天下取りの野望」等等、多々ありますが、先日のNHK -BSの番組「英雄たちの選択」では違った視点でその事について語っていました。また、僕が13年前に読んだ「その時歴史が歪んだ」という本にも面白い視点で書かれていましたので、今日はこの2つを中心に本能寺の変、そしてその後の光秀の生存説についてお話しようと思います。

1 本能寺の変

 まずは明智光秀を語る上では切っても切れない関係のある事件ですよね。先述した通り、考えられる理由は諸説ありますが、今回は別の視点から考察したいと思います。

①エリート故の苦悩

 「英雄たちの選択」で出ていたことなのですが、明智光秀はとにかく優秀な人物だったようで、指示が出れば、どれもほぼ的確に処理できたようです。実際、彼は40歳を過ぎてから織田信長に仕えたにも関わらず、短期間で一兵卒から大名にまで出世しています。
 しかし、これが彼の悲劇でもあったようです。主君にとって余りにも優秀だと「いずれ自分の地位が脅かされるのではないか?」と不安になる事もあります。信長もこのパターンに当てはまるようで、晩年は光秀にかなり無茶ぶりをしていました。が、もともと光秀は優等生タイプで「期待に応えなければ」という気持ちが常にあります。どんな要求も受け入れて、処理していきました。でも、人間には限界があります。ストレスを溜め込めば身体のみならず、精神にも悪影響を及ぼします。ここで働くのが防衛本能。キレるもその一つ。おそらく今までの信長の態度にキレた結果、本能寺の変が起きたのではないかという事でした。

 更に付け加えるのであれば、信長を排斥したい人物はかなりいました。室町幕府最後の将軍である足利義昭、公家の近衛前久、諸説ありますが、密かに天下を狙う羽柴(豊臣)秀吉、その部下で息子を殺されそうになったことを恨んだ黒田孝高・・・これらの人物の誰かが光秀に接触し、話を持ちかけたとすれば、行動に移してもおかしくはないですよね。

 今までにない視点での本能寺の変、非常に面白かったです。

②衆道

 もう一つは衆道説。いわゆる同性愛のもつれから起きたと言われる考察。「その時歴史が歪んだ」に記載されていました。この時代、武士の同性愛は珍しくなかったようで、主君に目をかけられた小姓が出世する事も多かったようです。伊達政宗と片倉重長、徳川家康と井伊直政は結構有名な話ですね。

 織田信長も例外ではなく、古くは前田利家、そして最後は森蘭丸、と衆道については有名です。実際両名とも織田家中では上位にいました。実は明智光秀もその相手だったのでは?という説です。実際光秀はイケメンだったようで、頭も良く、人間性も良かった。だとすればモテてもおかしくありません。しかし人の心は移ろいやすい、男女問わず時間が経てば若い方へ心が移ってしまうもの。飽きられた光秀は段々遠ざけられるようになりました。更に森蘭丸も信長の寵愛を受けていることで傍若無人な振る舞いをする事があり、光秀に対しても高飛車な態度を取っていたようです。「元彼」より「今彼」を大事にし、更には自分を遠ざけようとした信長に対し、愛情が憎悪に変わったことも想像に難くはありません。そして本能寺の変に及びます。

 これも面白かったです。戦国時代ならではの時代背景をよく見ていると感心させられました。

2 その後の光秀

 本能寺の変を起こしたものの、盟友である細川藤孝や中川清秀、筒井順慶の協力を得られなかった光秀は、中国地方から急遽引き返してきた羽柴秀吉に惨敗し、逃げている途中に落ち武者狩りに遭い、最期を遂げた、というのが通説ですが、もう一つ有力な説があります。それが天海僧正説です。
 落ち武者狩りにあったのは影武者、もしくは怪我はしたものの一命を取り留めた光秀は第三者の支援を受け、余生を過ごしたという説であり、その第三者こそ徳川家康と言われています。
 家康が光秀を助けるには以下の理由があります。

①中国征伐が終われば、自分は信長の邪魔者であり、いつ矛先が向いてもおかしくなかった。しかも勝てる見込みは全くなかった。

②信長の命で家康は妻と長男を殺す羽目になり、ずっと恨みに思っていた。関ヶ原の戦いでは、長男を偲んでいた程。

 以上の理由から考えれば、家康にとって光秀は恩人であり、妻子の仇を取ってくれた人物でもあります。更に優秀な人材なので自分の手元に置きたいと思うでしょう。

 しかし、光秀は主君殺しの大罪人です。表だって重用するわけには行きません。そこで一旦出家させ、僧籍に入らせることによって自分の相談役としたのです。勿論家康の周囲には本多政信や井伊直政等、優秀な部下が揃っていましたが、彼らだけでは成し遂げられない事もあったでしょう。家康が従来の本拠地である三河から、小田原征伐終了後の北条家の旧領に国替えになったとき、0から江戸を現在の首都である東京になるまで育て上げる事が出来たのも、何もない状態から領国経営を成し遂げた経験のある光秀のアドバイスがあったからではないでしょうか。
 天海が歴史の表舞台に現れるのは1600年代に入ってからですが、それまでは家康の側近として陰ながら支えていたのかもしれません。

 そういった意味では光秀からしても自分を破滅に追い込んだ豊臣(羽柴)家が、1615年に滅亡した際は、家康が自分の無念を晴らしてくれたという想いがあったのではないでしょうか。その感謝の意かは分かりませんが、家康の死後、彼を祭る論争が起きた際、崇伝は明神を主張しましたが、天海は「豊国明神から豊臣家の末路を見ろ」と反論し、最終的に彼の主張する権現に決定しました。

 天海の没年は諸説あり、はっきりとしていません。光秀と同一人物説を取れば、116歳(数え歳)となりますが、この時代になればそれくらいの長寿の人がいてもおかしくないですね。

 ちなみに僕は同一人物説を支持しています。
 波乱の前半生を送った光秀は、本能寺の変後、家康の元でようやく自分の力を存分に発揮し、幸せな人生を送ることが出来た。こう考えるのも一興かと思います。

3 おわりに

 というわけで、今回は明智光秀について取り上げてみました。歴史について書くのは不慣れだったのですが、僕も色々調べてみて面白かったです。こういった企画は、今後もやっていきたいですね。

 今日はここまでとします。最後までお読み頂きありがとうございました。

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