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【長編小説】 初夏の追想 11

 「お母さん、くすのきさんは、美術史にすごく詳しいんだよ」
 そのとき守弥が言った。そして、数日前に私と彼が語り合ったことについて、母親に話して聞かせた。
 彼女は喜んだ。そして、早口で弾むように話し始めた。
「嬉しいわ。実は私、大学時代、美術史を専攻していたんです。時代ごとに花開いた様式や芸術運動にはさまざまなものがあって、学んでいてとても楽しかったわ」
 私はそれに答えて言った。
「そうですね。僕は特に十九世紀から二十世紀初頭のフランス絵画が好きです。印象派からエコール・ド・パリの画家たちが活躍したころの作品群には、ほかにはない勢いと魅力を感じます。そして、彼らの人生にも、大いに興味がありますね……。彼らは実に多彩な人生を送っています。そして、大半の画家が早世していますよね。そういう彼らの、短いけれど充実した、濃い色彩に彩られたような人生に、強烈に惹かれるんです。そして、彼らの送った人生を詳しく知った上で改めて作品に触れると、より鑑賞の奥行きが増すような気がするんです。僕は……こんなことを言うのは非常識かもしれませんが……、ひょっとしたら絵画そのものよりも、画家たちの人間としての物語のほうに興味があって、美術を愛好しているのかもしれません……」
 私は知らず知らずのあいだに、熱心に喋っていた。そして、そんな自分自身に驚いた。私はそれまで、自分がこんなに人前で自分の考えを述べる人間だとは思っていなかったのである。ところが、この日の一座の人々の寛容な雰囲気、陽気で如才ない犬塚夫人によって作り出されたこの限りなく柔軟な空気が、私をいつもとは変えていた。あるいは、先だって篠田の振るった熱弁にいささか刺激されていたのかもしれなかった。
 しかも、一同が私のような者の話を、興味のある顔をして、熱心に聴き入っているのだ……。こんな経験は生まれて初めてだった。やや有頂天になってしまった私は、犬塚夫人の好意的な微笑みによるうながしを受けて、さらに話し続けた。
「例えば、モーリス・ユトリロ。彼の描いたパリの街並みは味わい深いものですが、その裏には、悲哀に満ちた孤独な人生が隠れているのです。
 ユトリロは、人気ひとけのない街の路地を好んで描き、人物はほとんど描きませんでした。彼は生涯、自分の父親が誰なのか知らずに過ごしています。彼の母親はシュザンヌ・ヴァラドンという女流画家で、当時モンマルトルの画家たちの人気モデルでもありました。彼女は恋多き女で、彼女を描く画家たちと、次々に関係を持ったと言います。彼女の相手が画家だけでなかったのは、息子モーリスの父親が、噂された数々の候補の中から、スペイン人ジャーナリストのミゲル・ユトリロであると役所に届けられたことからも推察できます。モーリスはここからひとまずユトリロという姓を得たわけですが、真相は誰にもわからなかったようです。シュザンヌは若いころ、キャバレーの弾き語りで作曲家でもあったエリック・サティと婚約してもいましたし、ロートレックとは三年間恋人関係にありました。
 モーリスは、物心つくころ、母とは別に、パリの郊外に祖母と暮らしていました。幼少期の寂しさが影響したものかどうかわかりませんが、彼は十代の初めには、すでにアルコール依存症の症状を呈していたそうです。面白いのは、彼が絵を始めるきっかけになったのが、精神科医の勧めで、依存症の治療として絵を描かされたことだったということです。
 シュザンヌは、嫌がる息子に無理矢理絵を描かせたといいます。彼女自身にも、あるいは幼い我が子を孤独のうちに過ごさせていたことへの後ろめたさがあったのかもしれませんね。とにかくユトリロは、母に追い立てられながら、段々とその才能の片鱗を見せるようになりました。
 絵は確実にユトリロの心をとらえていきましたが、彼は飲酒癖を断つことができませんでした。酒浸りになりながら、街角で制作をしている彼は、市民や子供たちから蹴られたり、石を投げられたりしていたそうです。救いようのないアルコール中毒の彼は、パリの裏道で、野良犬のように、邪魔者扱いされていたのですね。
 やがて、五十一歳のとき、彼は資産家の未亡人と結婚します。と同時に、自らの義務を果たした安堵であるかのように、母シュザンヌは目に見えて衰えていったといいます。
 私はここに、母と息子の、目に見えない深遠なドラマがあるように思えてなりません。それを踏まえてから、改めてユトリロの絵を見てみると、彼の孤独と哀愁に満ちた眼差しと、母の暮らしていたモンマルトルに対する恋着とが見えてくるようです。芸術家たちがモンマルトルの観光地化に伴って新たな制作の場を求めて南のモンパルナスへ移って行ったときも、彼だけはそこに留まりました。彼の人生は非常に閉鎖的で、例えばゴーギャンのようなドラマティックさはありませんが、彼の絵を見ていると、人気のない街角の閑散とした静けさだけが伝わってきます。ユトリロは、酒浸りの濁った意識の中で、その場の建物の威容や質感を巧みに捉えながら、彼にとって恵み深くて優しい、パリの裏道の静謐せいひつな空気を母の姿になぞらえて、キャンバスに写していたのではないでしょうか……」
 
 私はここで話を切った。見ると、皆が唖然として私のほうを見つめている。
 守弥が最初に口を開いた。
「やっぱりすごいね。これだけひとりの画家について語れるのは、楠さんしかいないよ」
 犬塚夫人が、すぐあとを継いだ。
「そうね。いま、聞いているうちに、ユトリロの絵が目の前に浮かぶようだったもの……」
「どこかで、専門的な勉強をされたので?」
 篠田が質問をした。
「い、いえ……。ただ、昔から好きで本を集めていただけです。実際に本物の絵を見たこともほとんどありませんし……。私の話は、すべて本から得た知識の受け売りなんですよ」
 私は慌てて言った。実際に芸術に触れ、芸術を実践しているこの人たちがこんなにも感心していることに、縮み上がるような思いがした。
「……それにしても、楠さんは、素晴らしいストーリー・テラーですね」
 柿本が、ぼそりと行った。
「そうだ。その、ストーリー・テラーだ。彼にはその言葉が、何ともふさわしいじゃないか。本から得た知識とはいえ、それをこれだけ自分のものにして語れるとは、大した才能だ」
 と言いながら、篠田が両手を叩き始めた。すると、一同皆が拍手を始めてしまった。
 私は面食らうやら照れ臭いやら、どうにも居心地が悪かった。しかし同時に、何よりも、いま自分の打った演説めいたものに、自分自身で一番驚いていた。
 確かに私は昔から絵画の鑑賞が好きで、かと言って美術館へ足を運ぶ機会など滅多に持つことはできなかったので、画集や美術書を沢山収集していた。そして、絵を見ているうちに、その絵の解説文などの中に簡潔にまとめられて見え隠れする画家たちのドラマティックな生涯に心を打たれ、彼らの人生について研究し始めたのだった。だが、これまで私の周りには、そんなことに興味を持つ人は誰もいなかったし、唯一芸術に携わっている祖父とは、交流を持ったこともなかった。それで、私は誰にも自分の感動や知識について、話をしてみたこともなかったのである。
 だが、彼らは私が話題に乗せる画家たちをことごとく知っていたし、彼らの人生や生きた時代について興味があり、基本的な知識を持っていた。ここで、思いがけずこの人たちに喝采を受け、私は得意だった。
「楠さん、僕はゴーギャンの絵に傾倒しているんですが、どうか彼の人生について話してもらえませんか。いま、ゴーギャンのドラマティックな人生について触れられたでしょう。彼の人生が波瀾万丈だったことを本では読んだんですが、楠さんの口から聞かせてもらえませんか」
 守弥はそう言って、私を促した。
「……ポール・ゴーギャンは、世界を旅した画家として、あまりにも有名ですよね。彼はもともと日曜画家サンデー・ペインターで、パリで株式仲買人として働いていました。三十五歳のときに、本格的に画家になる決意をしますが、それは前年に起こった大恐慌のあおりで、勤めていた店を解雇されたことがきっかけだったのです。彼が絵の道に入った理由が、人生の早い時期から熱烈に画家になることを目指して精進していたほかの画家たちと少し違うのは、この点です。彼は、その前の印象派展に入選しており、自分の絵にそこそこの自信を得ていました。そこで、ほかの職を探すよりは、いっそ画家になって家族を養おうと思ったのです。ところが、現実は厳しく、始めてみると絵はまったく売れませんでした。彼は家族とともに、安く暮らせる場所を求めてフランスじゅうを転々としますが、妻はついに子供たちを連れて実家のあるデンマークへ帰ってしまいます。彼はそのあとも何度か居を変え、アルルではゴッホと共同生活を送ったこともあります。もっとも、それはわずか二ヶ月足らずで幕を閉じてしまうのですが……。その後、ついに彼はタヒチに渡り、そこで多くの作品を制作しました。当時ヨーロッパでは、南洋の島々に対する楽園的イメージが定着していました。ゴーギャンは、人々が抱くタヒチのイメージをモチーフにすれば、きっとパリで売れるに違いないと踏んだのです。
 ゴーギャンは二年後、病気の治療のために作品を携えて帰国します。しかしパリでは、彼のタヒチで描いた絵はまたもや売れませんでした。失意のゴーギャンは、再びタヒチへと渡ります。そして彼はその地で病に倒れ、新たに居を構えたマルキーズ諸島でその生涯を終えることになるのです……。
 彼の作品は、題材の目新しさといい、色彩の豊かさといい、評価し始めたらきりがないのですが、私個人としては、彼の作品より、むしろこのポール・ゴーギャンという人物そのものに、とても強く惹かれるものがあります。あの時代に、こんなに世界各国を移動し、創作意欲を与えてくれる風景を求めて旅に生きた画家はいません。
 その旅は、彼が生まれてすぐに始まっています。パリに生まれたゴーギャンは、一歳のときに、一家でペルーに移住します。彼の母はペルーの王族の血を引く大金持ちだったため、生活は裕福でした。南米で送った幼児期の鮮烈な思い出は、終生探し求めることになる楽園の原風景を彼に与えます。
 そして、パリに戻った彼は、十七歳のときには見習い船員となり、以後、パリに戻って株式仲買人になるまで、世界各地を巡ります。このときの経験が、のちに彼を旅へと駆り立てる原動力になったのかもしれませんね。
 そして、パリで結婚……。そのあとは、皆さんにお話した通りです。
 私が彼に肩入れする理由は、彼が世俗を超越した孤高の存在などでは決してなく、むしろ人間臭い、ある意味では社会で成功してやろうという野心に満ちた男であったということです……。彼は生前、何とか自分の絵を売ろうとして、涙ぐましい努力をしています。だいたい、タヒチに渡ったとき彼の心にあったのは、フランスを離れ、異境の地で描いた絵ならその斬新さでもってきっと人々の目を引き、売れるに違いないという目論見もくろみだったのですし、彼はまた、タヒチで見たこと、感じたことを、『ノア ノア』という本に、物語形式で発表しています。タヒチという世界、文化を知ってもらえば、もっと人々の関心が高まり、絵も売れるだろうと思ったのです。
 そうまでして絵を売りたかったゴーギャンですが、生前にはその野望が叶うことはありませんでした。しかし、私は、彼の人生の本当の目的は、絵を描くことよりも、むしろ旅をすることだったのではないかという気がするのです。そして、彼の生きる原動力となっていたのは、絵を描いて人々に認められたいという野心と、幼いころに得た、霊的なものと自然とが交錯するあの原風景を追い求めて旅を続けることだったのではないかと思うのです。彼は画家としては珍しい、行動力と生命力にあふれた筋金入りの渡り鳥だったのです。……そしてそれが、現代の若者たちを、彼の生き方や作品に憧れさせる要因なのではないでしょうか……」
 
 ゴーギャンについては、まだまだ語りたいことがあったが、私は話し疲れて、ここで話を終えた。その後、人々は再び私を絶賛し、同時に、この別荘における私のストーリー・テラーとしての地位が確立してしまった。
 これらの物語は、十九世紀のパリで活躍した画家たちの話へと広がり、主に篠田と犬塚夫人によってリードされた。話題は当時全盛期を迎えたキャバレー〝ムーラン・ルージュ〟を始めとするモンマルトルの享楽の日々にも及び、その時代の輝かしい光を、我々は垣間見ることができた。カフェやキャバレーに画家や写真家、作家たちがたむろし、芸術や革命について熱い論争が繰り広げられていた時代……。もう二度と戻っては来ない過去の、自分たちがその中に身を置くということなどとうてい考えられない出来事であるにもかかわらず、その場にいた私たちは、次々に語られるベル・エポックの夢にすっかり酔いしれていた。
 その日私は、夜遅くなってから祖父の別荘に戻った。篠田が途中で座を辞したあと、犬塚夫人が私を引き留めて夕食をともにするよう誘ったのだ。私は遠慮したが、彼女は承知しなかった。そして、守弥までもが是非にと誘ったので、とうとう私は断り切れずに彼らと夕食をともにしたのだった。しかし、実際彼らと過ごすのは楽しかった。何よりも、犬塚夫人の存在は大きく、彼女はその別荘における紛れもない女主人としての地位を確立していた。人あしらいが抜群に上手く、彼女の前では誰もが自宅にいるように寛ぐことができた。そしてそんな彼女は、まぶしいほどに魅力的だった。

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