見出し画像

「教育は芸術でなければならない。」シュタイナー教育理解について。『教育のための一般人間学』より

「教育は単なる学問であってはならず、芸術でなければなりません。
感情内で絶えざる営み抜きに学びうる芸術など、どこにあるでしょうか。
しかし、人が生き生きと持つべきこの感情、教育という偉大な命の芸術を実践するために持つべき感情、教育のために持たなければならない感情、
これは、大宇宙や、大宇宙と人間との関連を考察することによってのみ、初めて点火されるのです。」

『教育の基礎としての一般人間学』ルドルフ・シュタイナー著、森章吾 訳

勇気の要ることですが、少しずつシュタイナー教育理解のためにとても大切な『一般人間学』の私の理解や、シュタイナーの言っていることを、わかりやすいようにまとめていけたら…と思ってます。教育をフィールドに活躍されている方にだけでなく、人間として生まれ、さあこの世界に何を残そう?と自分を見つめ直すきっかけとなる、生きる上で感動する考えの一つだと思うので、何か伝わるものがあると嬉しいです。

現在は私たち「人間」を「心」「体」の2つに分けて考えることが多いのではないでしょうか。これなら納得、という人も多いのかな。

シュタイナー教育の世界では、人間は「霊・魂・体」の3つに分かれます。
私はこの日本語訳がしっくり来ず(特に、日本語の「霊」は幽霊のようなネガティブイメージが強い言葉ですね)、Spirit、Soul、Physical bodyの3つと捉えると納得しやすくなります。

画像1

球体は、完全な形。宇宙というとんでもなく大きな球に囲まれた私たち。頭部は人間の体の中で唯一の球体です。肉体は円形ではありませんが、見えない部分(魂、霊)の部分を可視化すると「球」になります。私たちの手足は、肉体という円(球)から出て行く円の直径のようなもの。円の中に、いくらでも引くことができます。手足の動きの可能性。私たちの持つ自由。内なる考えを「行動」に変えることのできる素晴らしいもの。

霊(Spirit)は、眠っている種のようなもの。高次の自我で、真・善・美のように永遠に変わらない不変なもの。目には見えない。

魂(Soul)は個人の好き嫌い、得意不得意、感情。目には見えない。

体(P.body)は目に見える私たちの肉体。

人間は、より良いもの、新しいものを生み出すために手足が付いています。
手足を使うことでしか、アイディアや考え、物事を実際に生み出し、作り上げることはできません。
感情や、頭での思考を、手足を通して行為にする。
この行為を含んだ自分の強い感情を「意志(Will)」と言います。

それは、特定のマニュアルではなく、1人ひとり違います。教育も同じ。


だからこそ、小さな頃から色彩体験や手足を動かし、呼吸を整えることが大切になってきます。
教師は、何もかもを指示して与える存在ではなく、
子どもたちの「火を付ける」ような、夢中になれる場所、環境、時間を保証する存在です。

今の教育はどちらかというと科学寄りと言えるでしょうか。
物質主義、点数・偏差値至上主義、効率を考えたカリキュラム。

日本の教育を受け、日本の公立小学校で働いていた私は、日本の教育は「いかに静かに話を聞き、それ通りにこなすか」
「正しい答えに行き着くか」「みんなと同じ」
であることが美であり、点数をつけられる教育システムにどこか息苦しさを感じていました。
クリエイティブな意見やアイディアは年齢が上がるにつれて生まれにくく、(それを考える暇があったら受験科目を勉強した方がいい)
強い同調意識の中、効率的で受け身な授業が続いていく。
「与えられる」ことに心地よさを感じてしまうでしょう。

一人ひとりの持つ宇宙を豊かにするために、いかに「意志」を育んでいくか。子どもたちの「感情」を授業の中でどう大切にするか。

だからこそ、「教育は芸術」

誰かの話や考えを聞くこと、書くことだけではなく。
目で見て、感じて、イメージして、それを実際に表現する。
色やお話。リズムに合わせた歌やダンス、そして手先を使った遊び。そして、イメージする時間、共有する時間、一人で集中してまとめる時間…吸ったり吐いたり、安定した呼吸のようなバランスを大切に授業を組み立てることも、「芸術」として教師がつとめることの一つです。

どんな教科でも分野でも、受け身な学びや「暗記」「記憶」だけだと、いつまでもどこか他人事として残ります。
言葉では知っていても、本当はそれが何なのかよくわかっていなかったり。
テストは解けるけれど、それを発展させることはできない。

なぜだろう?知りたい!と 自分の中でイメージして「体験」し、刻むことで、本当の意味で本質を理解できるのです。
その場合、学んだ言葉は忘れてしまっても、
体験した記憶やイメージは残るでしょう。

そう行った「体験」を大切にする、という意味で、シュタイナーは「教育は芸術」と言っています。
算数であれ母語の授業であれ、全てに感覚を使う要素を入れています。
だから、シュタイナー学校では1年生の頃から、教科書や参考書は使いません。


私は、誰にでも門が開かれた公立学校にこそ鍵があると思っています。
子どもたちの発達段階に応じて念密に考えられた日本のカリキュラムも素晴らしさがあります。

0〜7歳は「体」の教育。体育的、音楽的活動をたくさん取り入れて、手先足先を使うこと
7〜14歳は「感情」の教育。芸術を通して物事を理解すること。 が大切だと言われています。

発達段階に合わせて、今の現場や環境、時代で、どんなことができるでしょう。

人は、自分が受けた教育、習ったやり方、知っていることを「当たり前」として次の世代にも同じことを繰り返しがちです。
ただ、このより世界に開かれた時代、日本でも公立学校の中で、教師が麻痺せず、一人ひとりの子どもたちの「感情」に向き合うこと、大切にしたいことを考えていきたいものです。

Ai .


サポートをありがとうございます。夢のSlow×Art×Educationのための糧に、大切に使わせていただきます。