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無理するのはよくない

長期間の頭痛とゴールデンウィークが重なってしまって、前回の投稿からほぼ2週間が経とうとしている。密かに掲げていた当初の目標は、2−3日に1つ、どんな形であれ書くというものだったので、この2週間、ずっと後ろめたい気持ちがあった。自分で掲げた目標を達成できないというのは、自分で自分に「ダメなやつ」の烙印を押すようで、なかなかに辛いものがある。だが、今回はその焼け付いた印を深く深く皮膚に食い込ませることはしなくてもいいのかもしれないとも思っている。というのも、ずっと頭の片隅に書きたいなという気持ちがあったからだ。お風呂に入っている間、ご飯の支度している間、育児の合間を見つけては、どんなことを書こうかなと考えていた。形には残っていないが動いてはいる。それでいいのではないか。今までのように、できないからと言って逃げてしまうより、できなくても止めない自分を褒めてもいいのではないか、と先の熱された鉄の棒を持つ手を緩めたい。そして、このような考えがよぎったこと、それ自体が、少し大人になったような気がして嬉しい。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回はリハビリがてら、日記を書いてみようと思う。特に心に深く残ったことだけ、さっくりと書いていきたい。

無理するのはよくない

私は偏頭痛持ちで月に1度は頭痛を起こしてしまうのだが、今回は5日間と長かった。おそらく、季節の変わり目で自律神経がついていけなかったこと、ダメになるクッションでダメになりすぎて肩こりに拍車をかけてしまったこと(ずっと同じ体勢で横になってしまうので首から肩、背中から腰にかけてバキバキになる)、生理終わりでセロトニンが少なくなってしまったこと(ちなみに生理前後の頭痛には、マグネシウムが効くかもしれない。次の生理で試してみたいと思う。)が大きな原因だと思っているが、無理をしたのも原因だったと思っている。
その日、なんとなく頭が痛いなとは思っていたのだが、それを押して律儀に掃除機をかけたり、暖かくなった春の陽気を娘に存分に味わってほしいと外に出て、春にしては強すぎる日差しを浴びすぎてしまった。もちろん、慣れているので、頭がもんやり痛くなった時から痛み止めを飲む。年々効かなくなってきているが、祈りのように飲む。だが、今回もその祈りは届かなかったようで、その日の夜には吐き気をもよおすほどの痛みとなった。
ここまでくると娘が非常にかわいそうになる。いつものように楽しく話しかけたり、変な顔して笑ったり、お母さんといっしょを見ながら踊ったりできない。お構いなしに無邪気に遊ぶ娘は、いつものように部屋の滑り台に登り、降りるのを手伝ってくれとせがむのだが、これにも寝ながらゆっくり手をのばすのが精一杯で、上手く応えることができない。
最終的に、離乳食を作って食べてもらっている時に気持ちの限界がきて、耐えかねてしまい、夫に早く帰ってきてほしいと連絡をした。夫は、最善を尽くしたが遅い時間になると夫のお母さんに応援をお願いしてくれた。義母も大きな仕事を抱えているところだったので、非常に心苦しかったのだが、こんな状態で娘を上手く見られず怪我させてしまうなどあってはならぬと、おとなしく甘えて、夫が帰ってくるまでの間、遊んでもらった。
そして、薄暗い部屋で、2人に感謝しつつ、ぼんやり天を仰いでいると、自分が伏せるとこんなにも周りに影響してしまうのだな、と普段担っている役割の大きさに気づいた。
思い返してみれば、1年間の育児中、コロナに罹った期間を除き、動けなくなるほどの状態になったことがなかった。育児でヘトヘトになりきることを避けてきたからだ。
食事は大体お米が炊けるまでの間にできるもの、切って炒めるだけであったり、クックドゥなどのあわせ調味料にも頼りきり、外食もかなり増えた。2日に1回はかけていた掃除機は気が向いたらになった。夫にもかなり協力を仰ぐようになり、休日は家事もかなり助けてもらっている。専業主婦なのに最低限の家事しかしなくなった。眠ることに関しても、昼夜問わず眠くなったら寝るが基本になってしまい、見事に昼夜逆転してしまった。会社員だった頃に、毎朝8時前には起きていた自分が嘘のようだ。また、お昼寝も全く出来ない質だったのだが、今は娘のお昼寝に合わせて寝ることもしばしばで、こんな睡眠状況では社会人として復帰した時にやっていけないと思っている。毎日1時間ほどはポルトガル語や英語、国語の勉強をしようと思っているのに、それも続いていない。
そして、何より主婦としても社会人としても趣味人としても落第だと自覚しているのに、改善しないところが、生来の怠け者であるしっかりとした証左で、怠け者はこの資本主義の中では生きていけないと恐怖で頭がいっぱい、書いていて再び自己嫌悪の渦に巻き込まれて出てこられ無さそうだが、果たして私は間違っていたのか?
いや、間違っていない。これが私の母親としての闘い方なのだ。平日の日中、娘を守る人間が私1人である以上、休めない。休みがないから回復できる時間がない、だったらしっかり休まないで済むように怠けるしかないのだ。こんな生活をしていたから体を壊さず、ここまでやってこれたのではないか。そんなに卑下しなくてもいい。他の人はもっとやってるってもう1人の自分の声が聞こえるが、背の高い低いがあるように個々人、体力が違うのだから、比べたって意味がない。
そしてこのことは、母親にだけ適用されるものではないと思う。自覚があるかないかはさておき、みんな誰かの支えになっているのだから、だれ一人として無理して体を壊していい人なんていないのだ。「まだ頑張れるけど、ここらへんにしとくか。」きっとこれがベストなのではないだろうか。無理は押さない。自分も周りも笑えてたらOK。笑えてなかったら調整しよう。ギスギスせずとも、それでいいと思う。それがいいと思う。
人生いろいろあるから、無理したい時もあるだけろうけどね。許されるならガムシャラに走るのもいいかもしれないですね。


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さて、ここまで書いて夜が更けてきました。
続きを書いてると朝になってしまいそうなので、
今回書いた通り、無理はせず、後の2つは明日以降、書いていこうと思います。

↓次回の見出しと内容予告

死ぬのは怖くない

友人のお母さんが死ぬのは今更怖くないとおっしゃってたのですが、
その目がすごく真っ直ぐだったので、そのことについて書きたいと思います。

短い時間で伝えられなかった

お祭りの屋台で、タイ人のハーフの子にあるアドバイスをしたのですが、
その子が聞きながら、遠くを見つめる姿に感じるものがあったので、
それについて書きたいと思います。

幸せはスポットライトに照らされるみたい

長く見てたドラマ「アンブレイカブル・キミー・シュミット」のエンディングで思ったことを書いてみたいと思います。


また気が向いたら読んでください。

おしまい。




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