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今更、死ぬのは怖くない

「今更、死ぬのは怖くないからね」
10数年ぶりにお会いした友人のお母様から放たれた、思いがけない言葉に瞳孔が開くのを感じた。
ご家族の介護を経た後、ご自身の体調を崩されたとお聞きしている間の一言だった。
私は息をのんでしまい、その黒く澄んだ瞳から目を離すことが出来なかった。
さらに覗き込んでしまおうものなら引き摺り込まれそうなほど透きとおっていた。
30余年生きてきたが、虚勢でもハッタリでもない、これほどまでに真っ直ぐで、芯のある目を見たことはなかった。
本当のことはいつも私たちを圧倒する。
そして、一瞬にしてお母様の人生を想像させた。
体を張って作り上げた命を立派な成人へ育てあげた後、迫る終わりに向かって歩むご家族に尽くされた時間の中で、一体、どれほどの真理を見てこられたのだろうか。多くを感じつつ、静かに誠実に、野花のように強く乗り越えてこられたのではないか、と胸が詰まったところで、ふと我に返り、凝視の無礼に気付いた。
視線を落とすと、使い込まれた指、家事が染み込んだ、全てをかけて家族を守ってこられた手をされていた。

死というものを考え始めたのは、小学校4年生くらいだったように思う。
ある日の夜、眠ろうとしたら突然に、死ぬと何も考えられないし、何も感じられないのだという考えが頭をよぎって眠れなくなってしまった。きっかけがあったわけではないのだが、そんな思いが胸を満たして、息をするのもやっとであったと記憶している。
それから定期的に思い出しては死の恐怖に怯えていた私であったが、本物の死に初めて直面したのは、19歳の時だった。
成人式は歳をとっただけだから行かない、と、思春期にありがちな独善的な論理を振りかざして実家に帰らなかった1月の終わりに母が亡くなった。
母の死に対しては、並々ならぬ後悔がある。
今でも思い出すと苦しいので、これ以上は書きたくないのだが、
ただ、この時、どんなに後悔をしたところで、死は取り返しがつかないものだと実感した。どんなに謝りたくても、2度と会えない苦しみ。愛している人の死から何年経とうが、その苦しみに身も心も八つ裂きにされてしまう。
2度目の死の経験は、祖母が亡くなった時であった。30代から病気がちであった祖母は、晩年、心臓の病で苦しんでいた。長い入院生活を乗り越え、自宅へ帰れたのも束の間、敷居につまずいて転び、大腿骨を骨折してしまった。その時に使った薬が合わず、蜘蛛膜下出血を起こしてしまい、2ヶ月耐えた後に亡くなってしまった。最後に会えたのは、蜘蛛膜下出血後だったのだが、あまりの病状の悪さに絶句してしまった。もう開放してあげてほしいとさえ思った。亡くなったと聞いた時は、よく頑張ったね、もうこれで痛くないね、と、悲しみだけではない、少し安心したような心地がした。
それから数年、どこか遠くに置いていた自らの死を、すぐそこにあると感じたのは、出産の時であった。
人生で感じたことのない痛みが、毎秒、さらなる強い痛みに更新されていくにも関わらず、なす術はなく、訳のわからないまま、自分の意思とは全く関係ないところで行われる生を体験して、きっと自分が死ぬときにはこのように死へ引き摺り込まれていくのだと、そう思った。
そして、生まれたばかりの娘にもこんな経験をさせてしまうのか、私は命を与えたが、共に死も与えてしまった、なんと愚かなことをしてしまったのか、という気持ちが生まれた。また、娘とお別れしたくない、永遠に守り続けたいといくら願っても、それが叶わない現実に途方にくれた。同様に、私のことを娘のように思ってくれている、私の大好きな大好きな人たちにお別れをしないといけない事実に立ちすくまずにはいられなかった。

最近は、大学時代によく見ていたジャン=リュック・ゴダールも亡くなった。
尊厳死であった。その速報を見た瞬間、なんとも彼らしいと思った。
そして、私もそのような状況だったのなら、同じように身の回りを整えて、自分にも周りの人にも最適な幕引きをしたいと思った。
とはいえ、死はいまだに怖いものだった。
今でもその思いに変わりはないが、少しだけ薄れているのも事実だ。死を誤魔化して、感じないようにして生きなければ、人は正気を失ってしまう。同時に簡単に忘れさせてくれないのも、また死である。

そんなところへの友人のお母様のお言葉であった。
これが、死への恐怖を弱めてくれる薬となった。
怖くないと言えるように生きればいいのか、何度もお母様のお言葉を反芻するうちに、自然とそう思った。
ただ、のみこまれるしかない生死。悔いのないように全てのことを感じきって、ただ在るこの存在を丁寧に使い切って、穏やかにその時を迎えたい、とそんなふうに考えた。
上手に生きて、上手に死んで、これから生きて死ぬ人たちに、私たちはただ一瞬に存在するだけ、だけど心配しなくて大丈夫、と言いたい。

おしまい。





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