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大人

気がつけば後1ヶ月くらいで22歳になるわけで、中学生や高校生の僕が見ればそれはもう立派な“大人”である。
でも高校生の時、21歳や22歳をうっすら想像して感じていたような“大人感”はなくて、驚くほどに中身は変わっていなかったりする。
大学生になって「変わったね」と言われることも、「全然変わってないね」と言われることもあった。後者の方が回数は多いけれど、変化したかどうかは人の見方によって変わるからなんとも言えない。
ただ、人は変わりゆくものだから、誰かのそれを止められるわけでもない。

運転免許を持っていたり、バイトをしていたり、12月1日に曲を出す予定だったり、資産運用をしていたり、就職先が決まっていたり、やったこともできることも増えたけれど、高校生の時に聴いていた曲を今でも聴く。
いつまでもどこか掴めないまま時間は進んでいって、“大人”かどうかなんて考える隙はないまま歳を取っていって、シャッフル再生で聴こえてきた曲に懐かしくなったりする。
きっとみんなそんな感じ。そんな感じで、この先も歳をとっていくのだろう。
僕が40代や50代を見て感じる“大人感”は、その歳になってもどこにもないのだと思う。

将来はどこで過ごして、何をしているのだろう。
どんな生活をしているのだろう。
海外旅行とかも沢山したい。
そんなことを漠然と思いながら、未来を明るく感じてみたりする。
“楽観者”と言われればそうなのかもしれないし、「ここにいるのは自分以外の何者でもない」という折り合いを踏まえた上だと言われればそれもそうだと思う。

やっぱり未来は明るく見ていたいし、そう感じるのは今僕がディズニー音楽を聴いているからかもしれない。急なディズニー。
悲しいバラードを聴いていたら、不安を押し出した文章になっていたかもしれない。
ん、んん、、ディズニーを今聴いているという情報はいらなかった。それだけは分かる。だって文章が変な方向に行っている。
良い感じにこのエッセイを締めようと思ったのにな。ちょっとだけ消して、続きを書けばいいだけの話なんだけどな。まあいいや。

僕が小学1年生の時、小学6年生がとてもとても大きく見えていた。少し怖かった。
僕が中学1年生の時、高校生はしっかりした人たちに見えていた。
高校生の時、大学生は大人に見えていた。
いつもそれぞれの歳になって思うのは、「そんなに大層なものじゃないな」であった。
だから、僕が想定していた“大人”は世界中どこを探してもいないのだと思う。
小学生の僕は大人のことを、とても堂々としていて、悩みなんて殆どなくて、ひとりでもへっちゃらで、大体のことはできちゃうのだと思っていた。
そんな人は世界中どこにもいない。
そして、上記の定義に当てはめるのなら、小学生の僕が1番“大人”だった。
堂々していたかは分からないが、悩みなんて殆どなくて、ひとりでゲームを何時間でも集中できて、本気を出せば苦手なことなんてないと思っていた。そんな“大人”は気がつけばいなくなって、頭の中がずっとうるさくて、苦手な物事があることを理解している。
その一方で、“大切”について考えたり、守りたいと思う何かがあったり、知識や経験も積もった。そしてそれは、この先も続く。

人は変わり続ける。大人だからとか、子供だからとかそんなことは関係ない。
“変わる”という事実に少し寂しくなったりして、「あの時のあなたはいない」と感じたりするのかもしれない。ただ、変わることを止めれるわけでもなければ、逆に人を変えられるわけでもない。
でも思うのは、“人の核の部分はそんなに変わらない”。
真ん中に図太くある考えや思いは、なかなか変わらないんじゃないかな。
だから、誰かのことを変わったと感じる時、それは自分が変わっただけなのかもしれない。そんなことを思ったりもする。

大人の定義なんてホントはどうでもいい。
世の中には、変わりたいと思っている人が沢山いる。
“変わること”をモチベーションに自分のスキルを磨いたり、挑戦をする人もいる。正しく“変わる”を運用できたらいいのだけれど、息苦しくなる時もある。
それを狙ったビジネスも数え切れないほどあったりする。
変わることを目的にするが故に、他人と比べて劣等感を感じたり、自分が何なのか何をしたいのか分からなくなったりすることもあると思う。
だから僕は「面白いことをしよう」という表現が好きだ。
きっと人それぞれに大事にしている思いや、考えは既にある。無理に変えようとする必要はない。大人かどうかより大事だと思う。
だから、そのままでいい。 

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