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幼い私に課せられたもの

*写真は、ハワイ語で『天国の海』と名付けられたラニカイビーチです。

私の中にある罪悪感の追求から始まって、だいぶ自分の生い立ちに向き合うワークが進んできました。
極めつきは、デンマークの心理療法家イルセ・サンが書いた『心がつながるのが怖い・愛と自己防衛』という本です。
幼い頃、親から理不尽な扱いを受けたために、子供なりに編み出した自己防衛策を、大人になっても使い続けてしまい、人間関係に支障を及ぼすということが書いてあります。

私の親の養育態度がたいへん不適切だったことは自覚できましたが、それに対して幼い自分がどのような防衛策を講じてきて、それが習い性になっていることで、現在でも人間関係が上手くいかないということまで思い当たっていませんでした。

親への不満を述べていても解決しないはずです。
親が不適切だったということはキッカケに過ぎず、それに対して子どもの私が必死に生き延びようと考え編み出した『ライフハック』が不適切で、今にも影響しているわけです。

親のことを分析するのは必須です。
親がどんな対応をしてきたのかは、あくまで私の親が私に対して行ったことであって、他人のケースと比較したり、類似点を見つけたりして気持ちを取り直そうとしても無意味だったのです。

ー親に気持ちをぶつけて親と和解しなさいー

この方法が私には当てはまらなかったのは当然です。
しかし、アダルトチルドレンが大流行して、救われたという人が多数出てきたことで、救われない私は、実はそんなに被害を受けていないのではないか?考え過ぎなのではないか?あるいは、単なるワガママな親不孝な娘なのではないか?などと、自己否定を強めてしまうことになりました。
世間に迎合したくないと思いながら、ガッツリ『毒親被害者たちの世間』に振り回されていたのです。

さて、私が取ってきたライフハックとは何か?
幼い頃は体が弱く、熱を出して寝込むことが多かった私は、思うようにならない体が恨めしかったとおもいます。
苦しいので、誰かそばにいて「大丈夫よ」と優しく声を掛けたり、スキンシップを取って欲しかった。
しかし母は滅多に私の看病をすることはありませんでした。
しかも、熱を出すと、いつも雨戸を閉め切っている暗い離れの部屋に寝かされて、祖母が看病に来るのです。
祖母のことは好きだったので、それは嬉しいことでしたが、離れの部屋にずっと祖母が付いているわけではないので、私はひとりぼっちで寝かされていることも多かったのです。
ナースコールがあるわけでもないので、苦しい時にすぐに誰かを呼ぶこともできません。

またその頃、汗をかくと熱が下がるという『常識』を母が信じていたので、蒸し暑い布団に包まれてたくさん汗をかくまで我慢させられていました。
ものすごく不快で辛いのに、あまり汗が出ていないときに祖母や母をよぶと、あからさまに嫌な顔をされました。

病気をすると孤独と苦行が待っている。
だからといって自分で病気を予防することができない。
熱を出すことが続くと、母からあからさまに嫌な顔をされ、「熱ばかり出していると友達とも遊べないのよ」と脅される。
そんなことが続けば、私はますます自分の体を恨めしく思い、くだらない(?)ことで大人を呼んではいけないんだと自戒するようになっていくのは当然でした。

何が自分の責任なのかわからないのに、「辛くても我慢しなさい」「体の弱いあなたが悪い」「普通の子どもと同じにはできないのよ」と脅され続け、自分の不快な感情を麻痺させるしかありませんでした。

自分に全ての非があるのだから、嫌だとか辛いとか言ってはいけない。
我慢を続けていればきっと楽になれる。
だから大人の言う通りに我慢していよう。

これが、幼い私が身につけたライフハックです。
そして、これが今の私にそのまま受け継がれていたのです。

辛いこと、腹立たしいこと、悲しいことに出会うたび、口を閉ざし、感情を麻痺させ、我慢をする。
しかし大人になってこれをやっていると、相手とのコミュニケーションが取れないので、解決どころか余計に事がこじれます。
時に我慢に限界が来て、全く見当違いのところに怒りが向いて爆発してしまうこともあります。
最大の爆発が、6年間もうつ病に苦しんだことだったのでしょう。
この時も、診察の際に適切に医者に状況を説明できなかったために、「あなたの症状は軽度」と言われて見限られました。
我慢強いことだけは身についていたので、表面的には大した問題ではないとされてしまったのです。

書いていて、母のやったことは、これまで断片的な記憶で不適切だと思っていた以上に『鬼畜』でした。
他人に話しても、母が私の心に与えた被害がどれほど酷いものか、想像がつかないでしょう。
誰にも聞いてもらえない、理解してもらえないということが、ますますその怒りを抑え込まなくてはいけないという『我慢』を強いていたのです。

これだけの被害を受けていた『幼い自分』を誰が救ってあげられるのか?
それは私自身しかいません。

ようやく裁判で、原告の主張が認められたのです。
ここから私が弁護士となって、可哀想な幼い私の弁護をしていくのです。

今、同時にカウンセリングも受けています。
カウンセリングでも、これらのことを一部話してみました。
カウンセラーは、私が病弱だったということに注目し、「幼い頃弱かった人が、すっかり丈夫になることは考えにくいので、今もいろいろな面で体に不調が出ていると思う。それを自覚した方が良い」とアドバイスをくださいました。

『私は丈夫である』
というのも、幼い頃、病気の苦しさを誰にも救ってもらえなかったことで編み出した『幻想』なのかもしれません。
それが、丈夫な人たちと対等に渡り合ってきたのですから、私の精神力たるや、すごいものです。

ふと、以前、前世占いをしてもらった時のことを思い出しました。

私の前世は、どこかアジアの国の王女で、体が弱く宮殿の外に出たことがなかった。
20になる頃に縁談が決まったが、結局結婚をする前に病気で亡くなった。

というものでした。
ファンタジー小説のネタになりそうだな、と、半分笑って聞いていたのですが。
もしもそれが本当だったとしたら、今の私はその王女が生きたかったその先の人生を見ているのかもしれません。
幼い頃の理不尽な生活は、前世の王女がたどったもの。
宮殿から出てみたものの、社会に慣れていない、価値観がズレていることで起きるさまざまな出来事に、その都度向き合ってきた。
いつの間にか、だいぶ長い人生を生きてきた。

宮殿の外に出たかった。
長生きしたかった。

王女の願いが叶えられたと思うと、これまでの苦労も、これからの苦労も、何か楽しい、ありがたいものに思えてきます。


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