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【エッセイ】残留思念の町

お元気ですか?
風邪なんかひいてませんか?
遊んでますか?
勉強してますか?
大型連休………楽しんでますか?

これじゃあまるで知る人ぞ知る中森明菜様のアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉』に収録された語りだけのトラック「明菜から……。」じゃないか。と、早速わけがわからない出だしになってるが、要するに5月の大型連休如何お過ごしでしょうか?と、お尋ねしたかったのだ(まわりくどい)。
ちなみにこちら↓が「明菜から…」である。

https://youtu.be/2UzTL2VBURQ?feature=shared

こちらはというと地味に、というより何も普段と変わらない日常を送っており、ただ世間が騒がしいというだけでそれに反比例するかのように私の心情は耽っていくのだった。

そこに輪を掛けての能登を震源とする震度6強の地震。
おまけに雨まで降ってきやがる始末である。
低気圧が連れてきたのは頭重感とどんよりした憂鬱感。
あぁ、今年もまたこうしてお祭り騒ぎが過ぎ去ってゆくのね…と、ちょっぴりおセンチになっていた。

別に遠くへ遊びに行きたいわけでもない。
自ら人混みに飛び込んで観光価格の行列へ並びたいわけでもない。それこそ中島みゆきの「あたいの夏休み」である。

こういう世間が賑やかに浮足立っている期間は自分と向き合うに限る。むしろそんな体質になってしまっている。

私はまたナンシー関さんについて考えていた。
こつこつ集めてきたナンシーさんの著書を山積みにして再読していた。

ナンシーさんが亡くなったのが39歳。今の自分と同じ歳だ。
40歳の誕生日まで一ヶ月をきっていたナンシーさんと自分を重ねてしまっていた。
私も4ヶ月をきった誕生日にこれで生涯の幕が前触れなしに降りてしまわないとも限らないんだなと、突然過ぎたナンシーさんの死はもちろんご本人も予想していなかっただろうと思いを馳せたらなんだかこの今という時間を握りしめて逃したくないと焦ってしまったのだ。

終活じゃないのだけれどふと過去を振り返ってしまうこと自体になんらかの意味があるのではないかと根拠もないこじつけをしてしまうあまりよくない私の癖が発動した。
嘘でもお道化て気分を明るくする為なのか頭の中ではきゃりーぱみゅぱみゅの「ニンジャリバンバン」が「断捨離バンバン」で変換され流れている。(かなり重症)


私は黒いこうもり傘をさして小学校高学年まで住んでいた町を歩いていた。
これが今年の大型連休の私の唯一の小旅行である。
20数年ぶりに訪れたかつて住んでいた町は相変わらず寂れていて静かだった。見覚えのある看板の文字が薄れた食堂と見覚えのないマッサージ屋の異世界感が相まって静寂より時が止まっている感覚に近かった。

人とすれ違わない。
車も通らない。
そして視界に飛び込む町そのものが小さくなっていた。

わかっていた。小さくなるわけがないことは。
単に私が大きくなっただけなのだ。

まず小学生の頃住んでいたマンションを訪れた。
外観は思った以上にきれいに保たれていた。
もともとが濃い茶色の外壁だったのが功を奏しているのかもしれない。
二階の角部屋がかつての住居だった。
マンションの前の通りで傘をさしながら角部屋を見上げていた(不審者丸出し)。

あの角部屋の窓が子供部屋だったっけ…。

埋もれていた記憶が前線の生ぬるい南風に吹かれて顔を出した。
あの部屋にはリビングで使わなくなった古いブラウン管テレビがあって風呂上がりに濡れた髪をバスタオルで拭きながら「ダイの大冒険」を観ていた記憶の断片が集結し映像となって蘇ってきた。

棒のバニラアイスを食べながら観ていた。
包んであった銀紙を剥がすが、くっついてなかなかきれいに剥がれなかった。
当時は色んな製品がまだ改良の余地有りだった時代で、コンビニのおにぎりも今なんかよりずっと取り出すのに苦労して海苔は破れぼろぼろと落としていたものだ。
そんなことまで芋づる式に記憶が蘇ってくる。

その時は夏だったこと。
「となりのトトロ」を観ている途中にもう寝なさいと言われたこと。
「火垂るの墓」をしんどくなりながらも泣いて観ていたこと。
窓側に設置した縦型のクーラーからけたたましい音を鳴らしカビ臭い冷風を吹き出していたこと。


次に私は当時住んでいたマンションから一番近くに住んでいた友達の家へ向かった。
急な坂の上のもっと上だった記憶はあっけなく上塗りされた。
とても平坦な道を少し歩いて左に曲がると一番近所だった友人の家に到着した。

こんなに近かったっけ?

歩幅も当時と違うのだから当たり前なのだが、記憶が益々小さくなっていく。懐かしさがどんどんチープなミニチュアの町になっていく。私たちはレゴの世界で生きていたのだろうか…。

その友人はサッカーが得意で雰囲気は「クレヨンしんちゃん」の風間くんに似ていて上昇志向の高いハイスペックな子だった。
今思い出してみると俳優の須賀健太さんに似ていたので以下須賀くんと呼ぶ。

須賀くんの家には一番近所だったこともあって頻繁に遊びに行った。そういえばうちには来たことがなかったかもしれない。いつも須賀くんの家でファミコンをして遊んだ。というよりファミコンしかしていない。
きっと私がインドアでサッカーも得意じゃなかったから外では遊ばなかったのだろう。
須賀くんは一見スマートでエリートだがそういった思いやりの出来る子だった。
テストの成績も良い方だったのに全然偉ぶらず自慢もしない子だった。
(こうして文字化してみるとめちゃくちゃ爽やかだな、須賀くん)

ある日約束なしで家に遊びに行った時、須賀くんの母親が出てきて塾に行ってるからごめんねと謝られたことがある。
そうだ。須賀くんは塾に行っていたのだ。
当時の地方の小学生で習い事はそろばんやプールなんかは珍しくなかったが「学習塾」はあまりいなかったと思う(自分の周りだけかもしれないが)
須賀くんはとても都会的で忙しい小学生だった。
サッカーも上手かったからクラブにも所属していたはずだし、それなのによくあんなに私とファミコンで遊んでくれたなぁと今さらながら申し訳なくなってきた。

当時はバーコードバトラーというおもちゃが流行っていた。
バーコードをスキャンさせて出てきた数字がそのバーコードのステータスとなり互いにバトルさせるゲームだった。
私たちはどんな商品のバーコードでもハサミで切って厚紙に貼り付けオリジナルのカードを作っては強いバーコード戦士を探していた。

QRコードのなかった時代。

バーコードバトラーだけでなくバーコードを読み取る機能で遊ぶゲームは他にもあった。
ファミコンに機械をはめてバーコードをスキャンさせて遊ぶ「ドラゴンボールZ」のゲームもあった。
須賀くんとはよくそのドラゴンボールZのゲームで遊んだ。
須賀くんはゲームも強かった。
どこで見つけたのかめちゃくちゃ強いベジータのバーコードを持っていた。

私はそんな須賀くんの家の前に20数年ぶりに立っていた。
黒いこうもり傘をさしながら表札を確かめていた(震えるくらい不審者)。
木の表札に「須賀」とあった。
あぁ、まだ須賀くんの家なんだ…。
私は泣こうと思えば泣けそうなくらい懐かしさに沈んでいた。

須賀くんの、当時豪邸に見えていた輝くほどの真っ白い外壁とメルヘンの世界の城の扉のような玄関のドアが経年変化で外壁は黒ずみ、ドアは薄っぺらく木目が剥げてしまっていた。

思い出は美しいのだ。

当時豪邸の戸建てに見えていた記憶もあてにならない。
どっちにしても須賀くんの家は小さく見えた。

でもそこにはまだ人が住んでいる。
「須賀」の誰かが住んでいる。

でも私は須賀くんが今どこで何をしているのか何一つもわからない。


通学路の途中のパン屋はもう跡形もなかった。

通学路の直線を眺めたら信じられないくらい細く狭かった。
あんなに長く感じていた道は思い出の中だけに存在している。
笑っちゃうくらいの方向音痴で頭の中で地図を描けない私が脳内で小学校まで歩いていた。

途中の平屋にチョコという名前の大型犬がいたこと。毎朝「チョコー」と挨拶していたこと。
でも、チョコはそんなにチョコレート色でもなかったし白い毛も多かった。なぜチョコだったのだろう。

小さな町をゆっくり歩いていた。
私にマンガを描く楽しみを教えてくれた絵の上手なEくんの家の前を通った。
トタン板でつぎはぎされたハウルの動く城のような家は当時のままだった。

Eくんは中学で急にぐれ出した。
こっそりタバコを吸うEくんを見てしまいすごく悲しくなった。Eくんはニヤニヤしながら私に一本差し出してすすめてきた。私はいらないと断った。
Eくんは同じくニヤニヤヘラヘラした同級生と肩を組んでどこかへ行ってしまった。
もうEくんはマンガを描かなくなっていた。
それでも私は描くことが楽しくてマンガを描き続けた。

そのきっかけを作ってくれたEくんには今でも感謝しているのだよ、Eくん。

そして私は今も時々落書き程度の絵と文章を書いているのだよ。
詩を書いているのだよ、Eくん。


混雑とも無縁の私の大型連休の小旅行は忘れていたあの頃を思い出させてくれた。
黒いこうもり傘が何度も強風にもっていかれそうになってもすれ違う人も車も動物もいない世界で旅をした。



「山羊ぃ、根拠もないオカルティックなこじつけなんかすんなよ。お前はお前だろ。堂々と誕生日迎えなよ。ほんとにもう…トホホな奴だね〜」

ナンシーさんからそう言われてる気がした。








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