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明るく賑やかな「死」

10/4-10/7の4日間、神戸へ帰省した。昨年末インターンとしてお世話になったwebメディア「soar」が神戸で行う活動説明会をお手伝いする為だ。

会場である「はっぴーの家ろっけん」はちょっと不思議な高齢者施設。ちなみに僕にとっては"実家"。帰省するとここで寝泊まりさせてもらってる。

夕方過ぎに到着すると、認知症のヨネ爺はフロアをウロウロし、星ばあちゃんは朝から晩まで同じ席で新聞紙を折ってゴミ箱を作ってる。どこかでおばあちゃんが騒がしい子どもたちにブチギレている声がする。

「神戸に帰ってきたなー。」
そんな風景を見るとなんだか僕はほっこりする。

どうやら僕の"アタリマエ"は麻痺しているようだ。

そんな自分の"アタリマエ"の人生観をさらに更新させられる出来事の話を書こうと思う。

とにかく明るく賑やかで「はっぴーな死の話」


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確かこの話の主人公は河本さんという人。

"確か"というのには訳がある。縁もゆかりもない"知らないおじいちゃん"だからだ。(みんな「ジージ」と読んでいたから以下はジージと呼ぶ)

生前のジージは"クソジジイ"だったらしい。お酒が好き、ギャンブルが好き、そして近所のスーパーでは万引きを繰り返す…あげればキリがないとか。

そしてこのはっぴーの家ろっけんに入居している方の旦那さまであり、娘さんとそのご家族も近くに住んでいることもあって転居されてきた。

そして"終末期"であった。

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Facebookのメッセンジャーグループがあった。


「葬儀担当は○○さんに、ウェルカムボードは子ども達でよろしくー!」
「みんなー!ジージの写真あったらこのスレッドに貼っといてー!」
「仕事そっちのけで祭壇のこと今準備してるー!」
「10/5日にすき焼きパーティーやるからみんな来てなー!」


そこでは"ジージの最期"に向けた情報交換と、ジージの日々の暮らしを共有していた。そのグループには、家族・スタッフだけではなく、関わりの深い地域の人も含まれていた。




自然に穏やかに最期を迎えるためには難しい医療行為は必要ありません。

日常を共に過ごす。

ただ、それだけです。これから先の時間を皆さんと共有出来ることを嬉しく思います。

ヨロピク


そして10/4日の夜、静かに息を引き取った。

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では今からワークショップを行います
男どもは棺桶を組み立てて、女性のみなさんは祭壇のセッティングをお願いします。


亡くなってから2時間後、そんな号令がかかった。
そう、ここは"はっぴーの家"だ。明るく賑やかに送り出すのだ。

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まず登場したのは棺桶。
事前にアマゾンでポチっていたそうだ(...アマゾンすごい。。)

それを男たちが2階へ運び組み立てがスタート。

気づくと入居者さんもその輪に混じっていた。


完成すると子ども達が棺桶に入って遊びはじめる。

負けじと大人達も遊びはじめる。




そうしている間に祭壇の準備も進む。
写真は事前に子どもたちがチョイスしたものをコピー。


めっちゃ笑顔。楽しそう!


そして翌日にはこの通り。
とてもカラフルな世界に一つだけの祭壇が完成。

そうこうしている間に入口にはウェルカムボードもできていた。

看取りからお見送りまで2階でやるのだ。




その2階では子どもたちがウェルカムボードを作りはじめた


お葬式にはたくさんの人が来ていた。

気がつくと、ジージに会ったことがない町の区長さんがなぜか万歳三唱を行っていた(しかもみんな笑顔)



ちなみに同時刻、1つ下のフロアではsoarのイベント中。
(参加してくださったみなさんは2階でお葬式をしていることは知らない)


夜は予定通りみんなですき焼きパーティー。
みんな笑顔、飲んで騒いで楽しんだ。そしてふとした時にジージの思い出話に花が咲く。

組み立てた棺桶には随時メッセージが刻まれていく

メッセージが、

メッセージが、、


もはや棺桶ではなく寄せ書き。こんなの見たことない。。


出棺の日は月曜日。
僕はリモートで勤務しながら休憩時間を合わせて参列しました。


そして入居者さん全員で花を入れ、最後は拍手で送り出した。




こうして「看取りから火葬までを"仲良しな他人"だけでやりきった」
そんな4日間が過ぎていった。
そしてまた日常に戻ったのである。

理想の最期ってなんだろう

僕も身内の死を経験してきた。おじいちゃん、おばあちゃん、おかん。おとんは生まれてから一度も会えていないから実質全員を亡くしている。

でも親の最期は見ていない。
「死」=「恐怖」だったからだ。
向き合う勇気がなかった。今も思い出すたびに辛く悲しくなる。
何よりも後悔だし、向き合えない弱さを感じる。

でも今回の機会を通して、「死」=「恐怖」ではないことを感じた。

新しい出会いがあり、久しぶりの再会もあり、疎遠だった人が仲良くなったり、偶然が重なったり、「コントか!」と言うようなことも起きた。

「死」=「生きること」だ。
寿命としての死を迎えても、この経験を通じて存在はこれからも生き続ける。それは誰かの死生観や生き方すら変えてしまうかもしれない。

ならば自分も時間をとって、避けてきた「家族の死」と向き合わなければならないような気がしています。

「死」と向き合うことで「生きること」についてより考える。
誰かの死が誰かの生命を輝かせる。
そうやって循環していくことが人生にとって、そして自然な営みであるような気がします。

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このnoteを書くためにFBのメッセンジャーグループを見返すと、「お別れ」とは思えないような笑顔や素敵な写真がたくさんありました。


今日は生前好きだったお酒を買って帰ろうと思います。

11/16日が四十九日。

1日過ぎちゃったけど、ジージに改めて。


ありがとうございました。
いってらっしゃい。

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