ヒトとコンピューター1(エクリから)

自分のデザイン本のコレクションの中にDigital Design Theory: Readings From the Fieldというヘレン・アームストロング氏編集の本がある。これは、カール・ガーストナー、ムリエル・クーパー、アラン・ケイ、ジョン・マエダなど近代のデザイン氏の中で有名なデザイナー達のエッセイを抜粋して、丁寧にデザインとテクノロジーの関係を時系列に沿ってまとめた本である。

前々回の記事で紹介したDubberly Design Officeのパートナーであるヒューの文章も記載されていて購入した時には知らなかったので正直に驚いた。

さらに驚いたのが、カバーとタイトルが違いすぎて内容を読んでみるまで全く関係性がつかむことができなかったこの「未来を築くデザイン思想」という本が、Digital Design Theoryの日本語訳版だったということだった。

今回この2つの本の関連性を気づくきっかけになったのは、EKRITS<エクリ>というエクスペリエンスデザインオフィスであるOVERKASTによって運営されているオンラインメディアの連載記事に目を通していたからだった。

2017年3月ごろから5回に渡って「インターフェースを読む」という題でを水野勝仁氏が連載をされていた。文章を読みながら驚いたのが、その参考文献の多さだった。英語ではいくつかBill Moggridgeがまとめた、Designing Interactionsだったり、上に述べたDigital Design Theoryを通してインターフェースデザインの歴史について学んだことはあったものの、様々な文献を元に日本語でここまで体系的かつ哲学的に書かれた文章に出会ったことがなかったので感動して5回とも読み切ってしまった。今回はその5回の間に書いたスケッチを書き直して、少しずつ公開して行こうと思う。

最小化するヒトの行為とあらたな手

連載第1回目の内容は、コンピューター以前の世界からコンピューターと登場によってヒトの行為がどのように最小化され、後々の連載の内容とどのようにつながりを持っていくのかをまとめる内容であった。


機械の時代と電気の時代


文章の冒頭部分でマーシャル・マクルーハンの「メディア論」を用いて機械の線条性と電気の同時性についての記述があった。

機械の時代には、ヒトは機械を手に取り、起動させ、操作し、結果を生み出すという行為の全てを担っており、これが一直線上になるこの関係が機械の線条性の本質であるという風に解釈してこのモデルを書き出してみた。

機械の時代の後に電気の時代が訪れた。この電気の力を複数の機械とつなぎ合わせ、全体をコントロールするのスイッチを切り替えることで同時にそれぞれの機械が生み出す結果を実現できる。この状態がおそらく電気の同時性の性質を捉えた説明であると個人的には文章を読みながら理解していた。

この段階で割と興味深かったことは、電気の時代の時点でヒトは、操作と起動という二つの作業を切り分けていることだった。水野氏はこの変化を「奇妙な融通性」という風に表現し、この操作と起動の二つの作業の切り離しは、ヒトから個人のもつ「スキル」の必要性を剥奪したと説明する。

コンピューターの時代

コンピューターが登場した。機械の線条性と電気の同時性はコンピューターによって擬似的に引き起こされる。そして、それらの結果はデータとして蓄積され、画面を通して不特定多数のヒトとコミュニュケーションが可能になった。

ここにきて結果を操作する行為はコンピューターが担うようになっている。それではヒトはどのようにコンピューターを操作するのか。

最小化されるヒトの行為

コンピューターに対するヒトの行為は、まるで電気の時代にスイッチが担っていたオン・オフの役割のように「ボタンを押す」というイエスかノーのという二択の最小な行為へと変化した。コンピューターが可能にするオートメーションの最初の起点としてボタンを押すことでヒトはその枠組みの中に組み込まれて行った。GUIの開発の起源はここにあるのだろうと思った。

素材としての数字

デザインをする時に扱うメディアのことを考える。コンピューター以前のメディアは、そこに伴う形式を初めから定めてしまうという性質があった。しかしながら、コンピューターにはその概念が当てはまらない。コンピューター内に保存されるデータまたは数字には、ヒトが考えるように数字に単位を関連づけることも可能だが、逆にその必要性はコンピュータにはない。数字は単に素材として単位抜きで保存することが可能であって、後から画像や文字としてアウトプットをすることが可能である。水野氏はこれを「形式化からの独立性」と呼んでいた。

コンピュータのもつ二つの手

水野氏はコンピューターは二つの手を持っていると述べている。

一つは、コンピューターのオートメーションを開始する最小化されたヒトの行為である。ヒトはこの行為を通して、様々なインプットをこのシステムに手渡していく。二つ目の手は、コンピューターのオートメーションを実行するアルゴリズムである。このアルゴリズムの本質は、ヒトがコンピューター以前に担っていた複雑な計算や思考のプロセスである。文中では、この現象を端的にヒトがコンピューターに行為を「移譲する」とあった。非常に言い得て妙だと思った。

まとめ

このようにモデルにしてみて、初めてはっきりとした理解をアルゴリズムについてできたような気がする。自分の中でアルゴリズムは、ヒトの行為・思考パターンをコンピューターが処理可能なプロセスに翻訳して、多くの状況・条件で汎用できるように書き直したものというふうになった。

そしてボタンはまさにユーザーインターフェースである。このモデルから言えば、インターフェースはGUIでなくてもいい。ボイスベースでも十分成り立つし、コンピューターがヒトの思考を読み取れれば、それでも成り立つと考えられる。

さらに考えを飛躍させると、オートメーションが限りなく進めば人工知能を生み出すことができる。そして、ヒトによるインプットとしての手は限りなく小さくなる。最後には、多くのヒトにとってのオートメーションは完全にブラックボックスになる。この辺は、また別の記事で書くことにしよう。

こういった内容にばかり魅力を感じ、時間を費やしてばかりいる自分は実践よりも学術的なことに興味があるのかななんて思いつつまた次回もモデルを作ってこの連載への理解を深めていきたいと思う。

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Thanks for reading:)
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akiramotomura

ヒトとコンピューター(エクリより)

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