サリィのいる世界

1.

サリィは死なない。サリィはなくならない。
崩れかかったユートピアの瓦礫から生まれて、育ての親はその正体に気付かなかったし、気付こうともしなかった。
手遅れになったその後でさえ、盲目的に信頼し、庇護下に置いた。
さっさと殺してしまえばよかったのに、とサリィ自身思わなくもないが、世の中のためにむざむざ殺されてやる気は毛頭なかった。せっかく生まれてきたのだから、己の欲するところを果たしたいと思うのは当然だった。
生きるために生きる。存在のための存在。
サリィの行動原則は単純だ。悪気も何もない。出逢った相手にはひたすら平等に、自分らしく挨拶をするだけだ。
こんにちは。
はじめまして。
おじゃまします。
これ、お借りしてもよろしいでしょうか?
さようなら。
この広い世界でせっかく出会うことができたのに、同じ相手とは、どうしても長く一緒にいることができない。そのことが少しだけ、さみしいと思った。

2.

ねずみ色の雨音に耳を傾けることで、優しい気持ちになることができる。
それはつまり、濡れた服を乾かすことのできる暖かい暖炉と雨粒を弾いてくれる外壁や屋根や窓ガラスのお蔭、だった。
あれから随分と時が経った。優しい人になって、私は人生をやり直したはずだった。
「お姉さま」
その声色は、遠い記憶の中にあるものと寸分違わぬ甘さと美しさを備えていたが、その一方で、血に飢えた獣のように獰猛だった。
「どうして、そんな浮かない顔をして黙っているの?」
唇は淡く微笑を湛えているが、らんらんと光る野生の瞳は、私を怯えさせるものでしかない。感情も理性もない、本能と機能に特化された、二つの完璧な球体。
「気まずいことが頭をよぎって焦っているの?」
実際、その通りだ。
「いいのですよ、私のことなど気になさらないで。お姉さま、いま幸せなのでしょう?」
答えられないことばかり尋ねる、美しい亡霊のような女は、末期のサリィ患者、......私の妹。

3.

すべての秩序は、無秩序に向かっている。途中途中で小さな秩序を形成しているために、それなりに体裁が整って見える時もあるが、全体を通してみれば、あらゆる存在が辿るのは失われていく過程であり、決して与えられることはない。どんなに取り繕ったところで、エントロピーは増大し続け、万物は壊れ、散らかり、再生したとしても劣化する。時間が巻き戻らない限り、割れた卵は蘇らず、変性したタンパク質が元通りになることはない。
壊れ続ける世界で、私たちはなけなしの秩序を巡って右往左往している。意味も分からず、押し付けられた世界を長持ちさせるために奔走する。
では、なにが秩序なのだろうか。秩序は、我々を幸せにするのだろうか?
その、漠然と信じられてきた概念すら、サリィウイルスは危うくさせてしまった。その凶悪な感染病は、善悪の区別も損得の判断すらなく、何が楽しいのか何が悲しいのかわからないような、世界大戦という混沌としたパレードを一瞬でストップさせた。大規模な病死は人類を整頓し、医療や生物学に対する情熱という、ある程度正しい方向性を与えた。
そういう意味で、サリィウイルスは、秩序らしいと言えた。例えそれが、秩序の姿をした悪魔であったとしても。
そして私は悪魔によって益を得た、数少ない人間のうちの一人だった。
不連続変異を繰り返す性質のためワクチンをつくることもできない中、唯一あれに対抗し得る抗ウイルス薬がある。それを開発したのは、他ならぬ私だ。
メシアと讃えられる今の状況は悪くない。この私にこそ相応しい栄光であると思う。だから、過去の忌まわしい出来事など、すっかり忘れていた。終わったことだと決めつけていた。

4.

お母様は仰いました。
「いいですか、リトルレディ。あなたは生まれた時から、あのお屋敷で主人となるお方にお仕えし、生涯を捧げるさだめにあるのです。私とは、今日で永遠にお別れですが、それを悲しむ必要はありません。我らが血統の誇り、その教育には、私たち先代の魂が宿っています。あなたが家名に恥じぬ働きをする限り、私たちは永遠にあなたと共にあるのです」
心優しく、誇り高いお母様のことが、私は大好きでした。だからこそ、悲しくとも耐えることができました。お母様は主人の命を守るために生き、守るために死んでいく。これほどまでに、誉あることはないのです。息を引き取る瞬間、お母様は美しく安らかに微笑んでらっしゃいました。ですから、私は悲しみでなく、むしろ感極まって涙したのでした。
私の主人となるお方は、当代きっての才媛と名高いお嬢様でした。初めてお目にかかった時は、その堂々たる風格と知性的な眼差しに、感嘆せずにはいられぬほどでした。
しかし、彼女は私を決して受け入れようとはして下さいませんでした。
「お前など、いても鬱陶しいだけだ。私が当主となった暁には、このような前時代的な慣習は廃止にしてくれる」
「私の母は実に愚かだ。表面上はなにもかも受け入れたような顔をしているが、夫が自分以外の女と為した娘が目の前をうろつくようになってから、明らかに睡眠薬の量が増えた。...... ま、あの医薬品の治験データがとれて都合はいいが」
「つくづくお前たちの一族は頭がおかしいな。全くもって理解できん。誇りなど守ったところで、死ねばそこで終わりだ。命とはそういうものだ」
「報酬も地位も求めず、あらかじめ決められた主人のために影となり命をかけるという時点で胡散臭いというのに、それが腹違いの妹だなど...... 冗談じゃない。いつ裏切り、私の地位を奪う算段だ?答えろ」
それでも、いつかは理解してくださる。いつかは、私を信頼してくださると、そう信じて、戦い続けることしか私にはできませんでした。絶えず戦火にさらされる中で、お抱えの兵を統率し、戦略を練り、できうる武力を最大限発揮して、一家を無傷で守り抜きました。それでも、一度として、お姉さまがねぎらって下さることはありませんでした。

5.

私に与えられた守り刀は、異常に美しい少女だった。
長くしなやかな手足。均整のとれて無駄のない、それでいて豊満な体躯。艶のある豊かな黒髪。白く輝く、滑らかな肌。流麗な曲線を描く輪郭。夜露に濡れたような睫毛に縁どられた、アーモンド種子の瞳。すっと伸びた柳眉。端正な造りの鼻梁。細い、形の良い頸。冬の夜空にかかった三日月のような、妖艶さと愛嬌、そのどちらをも兼ね備えた桜色の唇。
足元に跪いた彼女が面を上げた時は、正直、威厳を保って睥睨しているのが難しいほどだった。
この存在に期待も不安も興味も抱かず、勝手に頼まれてもいない使命とやらを果たしていればいい、私の研究の邪魔にならない程度に自由にやらせてやろうくらいに考えていた私は、内心ひどく動揺していた。
圧倒された。惨めだった。生まれてこの方、感じたことのない屈辱だった。
私は背ばかり高く痩せぎすで、細面で目つきが悪く、お世辞にも華がある見目はしていない。
色素の薄い猫っ毛を丁寧に結って、化粧を施し、高価なドレスを身に纏えば、それなりに見えないこともなかったが、妹には根本的に敗北していた。ましてや、守り刀として四六時中傍に張り付かれていたのでは、最早単なる引き立て役もいいところだ。
これで、彼女が出来の悪い品性が疑われるような人柄であれば、まだ違っていたのかもしれないが、至って優秀で人望厚く、礼儀正しい少女である。
それからというもの、言い寄ってくる男たちは悉く妹目当ての連中ばかりだった。私の夫となれば、妹とも子を為すことができるからだ。
私たちの一族は呪われたかのように女系で、婿養子を取っては、姉である主人と妹である側近それぞれに子を作らせ、血統をつないできた。由来も歴史もあるしきたりではあるが、前時代的だとは前々から思っていた。
何より、天才的に知力に優れ、ゆくゆくは常識を覆すような発見をして見せるであろう私が、このような目に遭うのは理不尽だと思った。女の美貌など、時と共に失われる不可逆の、一瞬の秩序でしかないというのに、何故ひとはこのように圧倒され陶酔し、この私をないがしろにするのだろうか。
それでも看過することができたのは、私には研究があると思ったからだった。
私には天賦の才がある。私は世界を変える。これさえあれば生きていける。私は愛など要らない。そんなもの、お前にくれてやる。
誰にでも愛される私の妹。それならば、姉である私くらいはお前を嫌わねば、世界の釣り合いが取れないでしょう?

 6.

「まさか、ここに私がいるだなんて思いませんでしたか?そうでしょうね。私があなたの研究資金のために売り飛ばされた先は、成金とはいえ、資産家でしたから」
その部屋は四方をコンクリートに囲われ、窓には鉄格子がかかった、まるで独房のように冷たい灰色の部屋だった。ここが、治療の見込みがないサリィ患者の隔離施設である。
「あなたにはまるで想像もつかないような目に遭ってきました。見てください、私の手足を。この病に特徴的な、末梢の潰瘍と壊死に冒される以前から、使い物にならなくされてしまいました。逃げ出さないようにね」
寝台の上に力なく投げ出されている彼女の四肢は、包帯で幾重にも巻かれていた。ピクリとも動きそうになかった。
「あなたは、私があの男の愛妾にでも収まったと思っていたのでしょうが、それは大きな誤算でしたね。このままでは生きながら殺されてしまう。そう思って、這いずるようにして、あそこから逃げました」
妹は妙に落ち着いており、それが逆に恐ろしかった。私は絶句し、呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。
「しかし、あなたに捨てられた私に帰る場所などありませんし、不自由な体ではそう遠くに逃げることもできません。裏社会に身を沈めるほかに、私に術はありませんでした」
いつの間にか、雨は止んでいた。なにも、音が聞こえない。淡々と語る妹の声と、夥しい末期患者のうめき声がまるで幻のように揺れている。
「そこに暮らす多くの女は白痴めいていて、私の容貌に対する嫉妬を直接的に、品のない言葉でぶつけられることもしばしばでした。大変迂闊なことでしたが、そこで私はようやく気付きました。お姉さま、あなたもそうだったのかもしれないと」
もう、何を考えたらいいのかわからなかった。ただ、絡み付くような悪意と、憎悪に足を取られて動けない。
「当時、私は気付きたくなかったのかもしれません。あなたがそのような俗な理由で私を嫌悪しているとしたら、私は主人として、とてもあなたを愛せそうにないから」
「そんなこと、頼んだ覚えはない」
「そうですね」
かろうじて、それだけ口にした。声はかすれていたが、本当なら怒鳴りつけてやりたいくらいだった。しかし、妹は憂うように悲しげに笑っていた。今日初めて見せた、昔の妹らしい表情だった。
「自分をごまかしてまで、私はあなたに忠実でいることを欲した。あなたは決して理解なさらないでしょうし、実際そうでしたが、私の血がそうさせずにはいられなかったのです。それが、私の全てだったのです」
ふふ、と心底おかしそうな、まるで鈴を転がしたかのような可愛らしい笑い声を私は聞いたような気がしたが、こちらを凝視している瞳がぞっとするくらいアンバランスに見開かれていて、思わず後ずさる。狭い部屋だ。後ろ手に、ひんやりとした壁が触れた。
「私の全てを、あなたが奪った」
ふふ。
「ねえ、お姉さま。好きなひとでもいらっしゃったの?そんなに私のことお嫌いでしたか?美しければ女はそれだけで幸せだとでも思いましたか?これほどまでに、女である身を憎んだことなどないというのに」
ふふ、ふ、
「楽しかったですか?私のいない世界は」
ガチャ、
...... ドアが開かない。
「なんで、」
「逃げられませんよ。施設の仲間たちに頼んでおいたの。あなたがここに来たらドアに細工してくれるように。私たち、国や社会や家族に見捨てられた者同士、とても仲がいいの。お姉さまは高名な学者で、時々この施設の患者に慈善的に治療を施してくれるそうだけど、私がお願いしたら、みんな協力してくれたわ」
「いや、出して」
「酷いわ、お姉さま。せっかくこうして会えたんだから、もう少しお話しましょうよ」
「...... お前たちは狂っている」
「そうではありません。狂っているのではなく、病んでいるのです」
「こんなところで死ねない。私にはまだ、やらなければいけないことがある。あのウイルスを根絶しないといけないのに」
「ご立派な使命感ですね、お姉さま。でも、私たちにはどうでもいいことです。私のいない世界で、如何にあなたが多くのひとを救う聖人になったとしても、そんなこと、なんの意味もないのです」
私は正気もなく鉄扉をたたいていた、手に血が滲むが、厚い扉は鈍いささやかな音を立てるだけで、どうにもならない。
妹が、そんな私に、最終宣告のように告げた。
凍えるような、それでいてドロリとした熱気を孕んだ声色だった。
「ここは、あなたがやり直すための世界ではない。私が、あなたに罰を与えるための世界だ」

7.

その姉妹が生きている国家で、サリィは兵器として生まれた。何と何の遺伝子を掛け合わせたかなんて最早どうでもよくなるくらいに、サリィは優れたミュータントだった
守備よく敵国にばら撒いたところまではよかったが、それがあちら側で猛威を振るった結果、何らかの感染経路を辿って結局世界中に蔓延したというそれだけの、ひどくバカバカしい話ではある。
多くのウイルスがそうであるように、サリィも十二面体や二十面体を組み合わせたような、幾何学的な姿をとっていた。極めて人工的な、未知の抗原であるが故に免疫システムを突破し、HIVウイルスを凌ぐスピードで宿主の細胞を乗っ取って増殖し続ける。
個人から集団へ。国家から世界へ。長きに渡った戦争において、最も効率的に世界征服を果たしたのはサリィかもしれなかった。
しかし、サリィを生んだその国は、同時にサリィの天敵を育んだ地でもあった。
医薬品の開発には、「生体活性物質の発見」「非臨床試験」「臨床試験」の大きく分けて三つのプロセスがあり、開発には少なくとも十年かかると言われている。だが、女は天才だったので、思い立って一日足らずでサリィに有効な作用をもった生体活性物質を発見し、選りすぐりの精鋭を集め的確な指揮で非臨床試験をスピーディーにクリアし、戦争のどさくさに紛れて倫理観無視の合理性重視の最短コースで臨床試験を颯爽とこなしてみせた。
貴族がバタバタ没落していく世の中で、彼女の家が未だ潤沢な資金を持っていたことも大きかった。それが、実の妹と引き換えに得たものだと知る者はほとんど居はしなかったのだが。

8.

こうしている間にもサリィは変異して、私の開発した薬も効かなくなってしまうかもしれない。そう思うと、気が気でなかった。
ここに閉じ込められて、もう数日経過した。いつまでもこんなところにいたら、私まで感染してしまう。
連絡手段を絶たれているとはいえ、私を捕えていたらその内捜索の手が伸びるだろう。日数的に、そろそろ限界なはずだ。
妹は、どういうつもりなのだろうか。
再会した当日の鋭利さが嘘のように、彼女は急激に容体が悪化しており、延々と高熱にうなされ続けていた。初めは気付かなかったが、もう視力もあまりないようだ。サリィウイルスに特有ないくつかの症状を鑑みるに、詳しい検査をせずとも大体のことはわかる。
華奢な頸には不自然な腫脹があり、リンパ種が認められた。新生血管の増殖が引き起こされているかどうかはまだ確定できないが、胃や腸にも腫瘍があるかもしれない。それよりも、腫瘍壊死因子が亢進されると同時に炎症が悪化する方が問題かもしれない。手足を中心に、表皮の至る所に拡がった潰瘍は、じくじくと深くなるばかりで壊死は避けられそうにない。実際、彼女の手首から先はもう切断済みだった。
その体はもう衰弱しきって、ウイルス増殖の城と化しており、所有権が妹からウイルスへと移っているかのようだった。こうして完全に乗っ取られた時、――彼女には死が訪れるということなのか。
私は迷ったが、何本か持参していた抗ウイルス薬を彼女に投与していた。私の薬は発症してから中期頃までは有効なことがわかっているが、ここまで症状が進行していると効き目があるかどうかは微妙だった。
「いたい」
常に全身を激痛にさらされている状態の妹は、譫言のように時折そう訴えた。
戦士だった頃、傷を受けても顔色一つ変えずに勝利してきた彼女が。
ウイルスに餌・拠点扱いされている妹は、まるで壊れかけのビスクドールのようだった。その美しさこそが、私の心をえぐる。

9.

「おねえさま、どこにいらっしゃるの?」
遠くから、雷鳴がする。風が強く、冷たい雨が建物を打ち付けている。寒い、...... 熱い?
「すまない」
硬質な声が震えている。私は耳を疑った。
「すまない、私はこんなつもりで、こんなつもりじゃ、なくて」
そんなこと、知っていた。
あなたは、幼いころから少しもお変わりない。才能だけを武器にして生きてきたあなたは、人間的な未熟さを改善する機会のないまま、大人になってしまった。傲慢で、嫉妬深く、自分の世界でしか物事を考えられない。規則正しく、栄光に満ちた、どう頑張っても狂えない人間であるところの、...... あなたの世界でしか。
「今更、もう遅い」
おそいのです、可哀相なおねえさま。
「もっと早く、あなたがそれを口にしてくださっていれば、私はいま、このような想いをせずともよかったものを」
確かに、あなたの言うとおり、私はあなたを愛してなどいなかった。血筋と誇りをまもろうとしただけだった。だが、愛したいと思っていた。誰よりも、何よりも、深く愛させてほしかった。ほんの少しでも、わかってくだされば、わかろうとしてくだされば、それでよかった。それですべて、報われた。
「なにもかも、おそい」
私はあなたが憎い。あなたを憎まねばならぬのが辛い。あなたを忘れられぬのが辛い。復讐など、したくてしているわけではない。
「おねえさま」
願わくば、あなたを許したかった。そうして、あなたのために戦っていたかった。
「ここは多分、わたしがお前に償うための世界だ」
...... おねえさま?
「罰を受けることと、罪を償うことは違う。わたしは、お前を救いたい」
微かに脳を痺れさせる音が雨音なのかすすり泣きなのか、私には定かではない。
「でも、おねえさま。わたし、死んでしまいます」
口にすると悲しくて、思わずシクシク泣いてしまった。泣いて泣いて泣いて泣いて、泣きながら死んでしまいたいと思ったけれど、いくら泣いても私の息の根が止まることはなかった。

こんなになっても、私の体は、まだ生きたがっていた。

                         (了)

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