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ものすごく良かったちゅーの話をしよう。夫には聞いたことがないけれど。


ものすごく良かったちゅーの話をしよう。

しかし、ものすごく良かったちゅーの話をするには、良くなかったちゅーの話を最初にしなくてはいけない。

私は元彼と10年、夫は元カノと7年、それぞれ付き合っていた。

知らず知らずのうちにパートナーとの長い時間で癖付けされた色々なタイミングが身体にはしっかりと残っていて、夫と初めてキスをしたときに(息継ぎのタイミングが…合わない…!?)とびっくりしたものである。夫もそう思っていたに違いない。

今は忘れてしまったけど、当時きっとそういう小さい違和感みたいなものは多かったはずだ。だけどお互いの過去、7年でも10年でも、拍子抜けするほどあっという間に塗り替えられていくものなのだと今、この文を書きながらハッとしている。

そういえば、知らない間に私は夫仕様にアップデートされているし、夫も私仕様にアップデートされている。

だから元カノや元彼に嫉妬してしまうことに悩んでいる人がいたら安心してほしい。人間の脳は私達が思うよりずっと物覚えが悪く優秀で、過去をどんどん2人の新しい記憶に塗り替えていくから。


夫との初めてのキスは夫が家まで送ってくれる途中の車の中だったけれど、前述の通り、ぼんやりと息継ぎや顔の角度なんかを変えるタイミングが合わないなぁ、うーんもどかしいなぁ、という気持ちと、(うわー!!本当に大好きな先輩とちゅーしている、なんてことだ、最高、この世は最高!)というおめでたい幸福感とで頭の中はごちゃ混ぜになっていた。

さて、ようやく、ものすごく良かったちゅーの話。

何度めかのデートで、都内のパン屋巡りをしたことがあった。3回目のデートだったかな。暑い日だった。私は買ったばかりのワンピースを着て、買ったばかりのかごバッグを持って、ヒールのサンダルを履いた。歩きやすいサンダルだったけれど、たくさん歩いてストラップの金具の部分で少し靴ずれした。

夜、家に近い駅まで電車で帰ってから、居酒屋に入った。個室の居酒屋で、最初は対面に座ってお酒を飲みながら話していた。

(そういえばあの時夫が「あ、今の顔超かわいい、うわー、なんか俺かわいいとか言って、おじさんみたいだね」と言ってくれた。写真も撮ってくれてすごくうれしかったなぁ。今はそういうかわいいを貰ってないなぁと思ったけど、冷静に考えるとかわいくないのだからどうしようもない。)

Heinekenの瓶ビールで乾杯した。私はバドワイザーだったかもしれない。そのあとはずっと、私は杏露酒の水割りを飲んだ。

飲みながら、話の流れで旅行に行こう、と約束をした。私は彼氏という存在と旅行に行ったことがなかったから、そんな計画を立てるだなんて自分がえらく大人になったような気分だった。そして2人で、どこにいこうかと検索して、ここはどう?あそこは?と話していた。

私は途中でトイレに立って戻ってきて、旅行先を探す夫のスマホを覗き込めるように隣に座った。

もちろんスマホを覗き込むためというのは建前で、私は夫の隣にただ行きたかった。1日中ずっと触りたくてくっつきたくて胸が痛いくらい切なかった。だから、今しかねぇ!って感じで焦りながら、でも顔には焦った感じなんて出せないからおすまし顔をして、夫の隣に座ったのである。


そうして、隣りに座って、どちらからともなくキスをした。何度も、何度も。幸せすぎて気持ちよすぎて溶けそうで、っていうか多分ほとんど溶けていたと思う。背骨はぐにゃぐにゃになり脳みそも溶けて、でも爪の先まで神経は敏感だった。

一言、二言しゃべってはキスをして、息ができないくらい胸がいっぱいで苦しくて、恥ずかしくて開けられないからギュッと目を閉じたまま手探りで夫の腕を掴んで、夫は大きな手で私の空いた手を見つけて指の間をギュッと握って。また一言、二言会話をして、キスを、何度も、何度もした。

人生で一番長い時間キスを繰り返していたと思うけど、あんなに何度もしてもキスが足りないと思ったのも不思議なことに初めてだった。

あの時のキスを超えるキスを私は知らない。

でも最初で最後なんて言わない。これから先、あの時のキスを超えるかもしれないという希望は残しておきたいから。ただ、今までの過去では、間違いなく一番だった。

日付が変わる前に入った居酒屋なのに、出たのは3時過ぎだった。ながい、ながい時間だった。

この日の話を改めて夫としたことはない。私の中で一番であることが、夫の中で一番かは知らないから、それを知るのが少し怖いのだ。乙女な所もあるのである。

夫はもしかしたら覚えてすらいないかもしれない。あの時やたらとおしゃれに見えたHeinekenの瓶の緑色も、旅行の話も、隣に座った私の下心も、私の背伸びした靴ずれも、買ったばかりのワンピースも、かわいいと言ってくれたことも、もう夫の中では認知されていないか消えてしまっていて、もしかしたら私の中にしか存在しないかもしれなくて、それが怖いから、聞けない。

でも、一度くらい聞いてみようか、夫にとって、ものすごく良かったちゅーの話を。(さすがに私以外の話を引っ張り出すほどトンチンカンではないだろう)。

ちなみに3時過ぎにお店を出てホテルに行こうと誘われたのだけれど、次の日夫は用事が有り早く出てしまうのがわかっていたのでそれは断った。

今考えるとそこまでしといてなぜ解散の時間にだけは現実的になって断ったのかちょっとウケてしまうのだけど、私は地面から5センチくらいふわりふわりと浮き足立ったまま、タクシーに乗って自分の家に帰ったのだった。

ものすごくよかった、ちゅーのおはなし。

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