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アメリカの大学で教えてみないか(2):影響を受けた3人の先生について

今日は、一体全体どうしてアメリカの大学で教えてみようと思うようになったか、指針をくれた3人の「先生」について書いてみます。

僕の両親はともに高卒で、父方には僕より先に大学を出た親戚は多分いないし、母方には何歳か上のいとこが大卒でしたが、多分僕の世代が最初だったと思います。なので、まさか大学で教えるなんて発想は出なかったし、ましてや外国で、なんてもっての他です。大学もなんとなく入って、なんとなく就職する予定でしたが、3人の「先生」に会ったことで、コースが大きく変わりました。

日本の大学には「非常勤講師」という制度があります。東大には入ったものの、国際関係学科に入るには平均点が足りずに、なんとなく入った社会学科に津田塾大学から非常勤で来てたのが、馬場伸也先生。僕が影響を受けた先生の1人目です。

カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取り、カナダのカールトン大学で教えてたのですが、本人曰く「高橋さん(僕の指導教官だった高橋徹先生)に呼び戻されて、断れずにいやいや戻ってきた」そうな。

それまで海外の大学で教えたのみならず、大学院に留学したなんて人もほとんど見たことがなかったので、一緒に社会学科に進学した2人のテニス仲間と「心酔」しちゃいました。馬場先生はもともと国際社会学が専門で、「これからは海外だ」って焚きつけられて、3人で「国連職員になる講座」みたいなのに行った記憶があります。

また「アイデンティティの社会学」なんて言う著書もあったので、アイデンティティを模索する20歳前後の若造はすっかり舞い上がっちゃいますよね。

どうやら国連の職員は難しそうだ、と同時にちょっとやってることが真面目すぎてあんまり合わないかもとは思ったものの、漠然とした「海外」という考えが捨てきれず、1年間の私費留学をすることにしました。完全に親のすねかじりです。当時はアメリカの大学の学費もまだ安く、自分の貯金を全額はたいても残りを全額出してくれたのはありがたかったです。

留学先をどこにするか、は簡単に決まりました。当時付き合っていたガールフレンド(今の奥さんです)がカナダの従姉のところに1年間行くことになり、僕も同じ時期に行くので、第1希望はカナダの大学でした。ところが、カナダの大学に入るにはTOEFL(Test of English as a Foreign Language)という留学生向けのテストの最低点が550点(今の79点)だったんですが、僕の点数が520点(今の68点)。なのにアメリカの大学なら500点(今の61点)で入れたんです。なので、「カナダ国境に一番近いアメリカの大学」ということで、ワシントン州の大都市、シアトルから80マイル北にある西ワシントン大学(Western Washington University、WWU)にしました。

かの馬場先生が教えていた津田塾大学の学生が毎年留学していたので、それもこの大学を選んだ理由だったかもしれません。というわけで、大学の4年生の1年間、大学の籍を抜き、7月4日のアメリカ独立記念日に初めてアメリカの土を踏みます。

このWWUっていう大学がとにかく美しい。アメリカの美しい大学トップ10に選ばれたこともあり、丘の上にあるキャンパスから見下ろすと湾が見え、裏山の杉林の向こうには日本で見たこともないほど真っ青な空。時差ボケと興奮もあって、最初の3日間で5時間しか睡眠を取らず、その3日間でもう「この国気に入った」って感じてました。

留学本来の目的とは無関係な、「ガールフレンドのそばの大学」という理由で選んだWWUですが、ここでその後の進路を決めるのに決定的な影響をもたらした2人の先生に会うことになります。

その1人目は、最初の学期に「家族社会学」の授業を取ったDr. John Richardson(ジョン・リチャードソン)。口の周りの筋肉を丁寧に動かしてくれるので、とにかく英語がわかりやすいユダヤ人の先生でした。英語ってのはもともと日本語よりもはるかに口の周りの筋肉を使うのですが、僕も授業ではこの先生の発音を真似することがあります。

この先生の授業は4年生向けなので、学期の最後に論文を書きます。こっちはTOEFL520点の英語力しかないので、辞書を睨んで必死です。何を書いたか覚えてないんですが、どうやらリチャードソン先生のお眼鏡にかなったようで、研究室に呼ばれて、出し抜けに「お前は大学院に行け」と言う。

青天の霹靂ってのはまさにこのことで、こっちはそんなこと全然考えてない。社会学科の同級生の多くが志望してるNHKか朝日新聞を受けようと漠然と思ってただけで、将来のことなんてお先真っ暗。大学院なんて考えたこともないし、ましてや海外のなんて...。

そんなことにはおかまいなしに、先生はその場で紙に大学院の進学先として勧める大学の名前を書いてくれました。ワシントン大、ウィスコンシン大、カリフォルニア大学バークレー校、ノースキャロライナ大...2年後に入学願書を出した4つはこの紙切れに書かれていた10校くらいから選びました。インターネットなんてない時代だから、こっちには全く情報がない。

「お前は大学院に行け」って言われてもまだ半信半疑だったところへ、「あ、それも悪くないかも」と思わせてくれたのが3人目の先生、モーリス(モーリー)・シュワルツさん。正式に留学する前に入った「夏季短期英語留学」のプログラムは夏の間だけの短期プログラムでしたが、15人だかいた参加者の一人一人に「ホストファミリー」をつけてくれたんです。たまたま僕のホストになってくれたのがモーリー。

大学の裏口から道を隔ててすぐの家に住むモーリーはWWUの海洋学部の教授でした。夏季の短期プログラムが終わった後も、シュワルツ家にはよく遊びに行ったものです。翌年の1月にはカナダのガールフレンドがビザ切れになったので3ヶ月お世話にもなりました。

で、このモーリーの生活パターンを見てそれまで僕が持っていた「常識」は完全にひっくり返されました。

まず、朝はゆっくり、9時くらいに大学に「出勤」します。通勤時間は片道20秒。夕方は4時半には帰ってきます。ベリンハムはアラスカを除けばアメリカ西海岸で最北の街で、さらにアメリカは夏時間があるので、夏の夜の10時までテニスができるくらい明るい。なので、モーリーは平日でも春から夏の間は仕事を終えてから自宅でのんびりできる時間が何時間もある。裏庭で採れる梨や買ってきたいちご、バナナなどを材料にして自宅でワインを作ることもある。それも平日の夕方に!

こんな生活を見ていて一気に脱力しちゃったんですね。というのはうまくマスコミに就職できたとしても報道ならば夜討ち朝駆け、制作でも勤務時間は無茶苦茶。その頃はまだQuality of Life(生活の質)という言葉は一般的ではなかったけれど、どちらが「豊かな生活」かくらい、22歳の大学生でも簡単にわかる。シュワルツ家は決して裕福ではないけれど、日本の常識ではありえないほど、「時間という点で豊か」でした。

これ、いいじゃん。ラクそうだし、楽しそうだし。これ、やってみようかな。

留学以前は全く考えていなかった「海外の大学院への進学」と「アメリカの大学で教える」というビジョンが見え出したのがこの頃でした。もちろん、この後も紆余曲折があるんですが、それはおいおい。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。良かったらコメントもよろしくね。

おまけ:見出しの写真の芝生にテントみたいなのがいっぱい出てますが、これはフットボールの試合のある日のパーティ、「Tailgate」の様子です。キャンパス中で朝からパーティになります。機会があったら後で書くことにします。

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人とは違う視点からの景色を提供できたら、って思ってます。