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好きなことを仕事にすることの脆さについて

こんにちは。さとうみくるです。とある地域で、元ホームレスの方や出所者の方が暮らす施設で彼らの生活のサポートをする仕事をしています。

いまの仕事は好きだけど、「好きなことを仕事にしているか?」と問われるとちょっとニュアンスが違う気がする。というのも、私の生業は人と向き合うことだから。それも、想像を絶する悩みや課題を抱えた人達と。

彼らと向き合っている中で楽しいことや嬉しいことも多いが、悲しいことや苦しいことも多い。裏切られることもあるし、いわれのない文句をつけられることもあるし、死別もある。世間にはもっと善意と優しさとハッピーだけでできている(ようにみえる)世界もあるのに、「なんでこんなことしてるんだろう」と思う日もなくもない。

でも、その答えは自分でもわかっている。

必要だと思うからだ。

私は高校生のときにアルゼンチンの田舎街に留学した。南米は家族や友達との時間を何よりも大切にする彼らの人生の豊かさに私は心を打たれた。ホストファミリーはいつでもどこでも、私のことを「日本の娘です」といって嬉しそうに紹介してくれた。街で出会う人たちは「アミーゴ!」といって私に友好を示してくれた。その田舎街は日本と比べたら何もないけれども、私は家族や友達とマテ茶を飲んで踊って笑って泣いているだけで十分過ぎるくらいに幸せだった。

しかし、日本に帰国したときに私に目に入ってきたのは「孤独死」のニュースだった。そのころ、日本では「孤独死」「無縁社会」といった言葉が毎晩毎夜のように取り上げられていた。そして、それは決して他人事のように感じられなくなっていた。

その後、いくつかの出会いや仕事を経て、私はいまの仕事についている。ホームレスというのは家だけではなく、社会や家族との関係性も失った人達のことである。そんな人たちに寄り添えることを幸せに思うし、それが孤独死ひいては無縁社会をなくすことに繋がると信じている。

とはいえ、前述したように心労の多い現場だ。ホームレスのおいちゃんたちのことが好き楽しいというだけでは、きっと続かなかっただろう。でも、これは「必要なことだ」「誰かがやらねば」という思いが、キツいときも苦しいときも私を踏みとどまらせている。

あるひとは言った。「主体性だけの動機は脆い。そこに客体性が備わってはじめてホンモノになる」。最近、ようやくその意味がわかりかけている。

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