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57. 読書日記 くまとわたしの恋のゆくえ 『神様』川上弘美


神様

 川上弘美といえば、『神様』が真っ先に頭に浮かぶ。
 次に『蛇を踏む』『センセイの鞄』に続くわけだが、処女作というのは、作家が初めて世に問う小説の原稿ということ、そういう意味でもこの上なく貴重であるし、作家の不可思議さといい非凡性といい、凝縮されたものとして結晶みたいな光を放つ、原形に近いものである。作家の本質(故郷)を知りたければ、絶対に読まねばならないのが処女作であると思う。

 まず、「縁(えにし)」という言葉が、ぽんと残った。

 冒頭は、くまに誘われて散歩にでる。現実をはみだして形而上へ飛び出したのだ。この話は、わたしにとってどう考えても恋物語である。そう考えて読むと実に自然であり、せつなくも思えてくるのである。

「神様」はくまとわたしの出会いの物語だ。短編のラスト『草上の昼食』は、別れの物語である。

 ある日、くまが、わたしの元へ訪ねてくる。表札の名前を見て「もしや某町のご出身では」とわたしに訊ねる。

 くまが世話になった某君の叔父という人が、町の役場助役であり、その助役とやらは、わたしの父とまたいとこ。名前から推測されたというのだ。

 あきらか「縁」だ。気づく、気づかないの個々の問題であり、くまはそこへ気づいてしまった側である。縁を感じたくまは、引っ越しの挨拶からは一歩、二歩も前へ歩み出て、両手をひろげて、わたしにアピールをしているのである。

 くまの律儀さがあり、折り目正しい礼儀がある。少し無理をしながらも努力して、人間世界へとけ込もうとしている。わたしは、安心して、素直に接することができるのである。

 言わずもがな、語り手の自然描写は、奇をてらわず、実に自然である。

 登場人物も素朴。けれど、バックグラウンドに流れるあたりの風景の、のんびりとした素朴さが、読み手として、いちばん好きなのかも知れない。


——川原までの道は水田に沿っている。舗装された道で、時おり車が通る。どの車もわたしたちの手前でスピードを落とし、徐行しながら大きくよけていく。すれ違う人影はない。たいへん暑い。田で働く人も見えない。くまの足がアスファルトを踏む、かすかなしゃりしゃりという音だけが規則正しく響く。——

神様

 短い言葉のなかに、夏休みのような村の空気を描き、気温、田園、川、草の上、陽差し、風が溶けて見えるようだ。特に水の音が高く、たくさんの人が泳いだり釣りをしたりする川原は実に魅力的である。人間世界とくまの世界をつなぐ、境界線のような場所としても描かれている。

 そういう川原で、くまと、わたしはデートをするのである。

 くまは、「魚のひれが陽を受けてきらきら光る」美しいものをわたしに得意げに見せて、今日の記念に干物までつくってプレゼントする。

 並んで味わったというお弁当もいい。くまはフランスパンのところどころに切れ目をいれてパテとラディッシュをはさんだもの、わたしは梅干し入りのおむすび。食後オレンジを分けて食べてあっている。完璧なランチだ! 幸福なピクニックである。

 くまにとっても、わたしにとっても、初めての体験。

 どんな人(くま)であっても、生まれて初めては、深く心に沁みわたる。

 哺乳類同士ではあるが、人とくま、異種の交流(深い心の交わり)があったわけである。とても自然で、互いに愉しかったのだ。

くまの抱擁はあくまで紳士的、蝶ネクタイを占めているかのように、わたしの脳裏にうつる、昔気質のくまの考え方や言葉も品があり「親しい人と別れるときの故郷の風習なのです。もしお嫌ならもちろんいいですが」と言う。これなら、わたしは不快になろうはずはない。なかなかツボを押さえた、くまなのである。


次に『草上の昼食』。


くまは成長し、だんだん吐く息も荒くなり、胴回りや胸まわりの毛が密になる。

 車には乗るし、素敵な草原も知っている。しゃれた料理も、赤ワインなども供することができるようになっている。わたしは安心して、寄りかかれたりするのであるが、「しおどき」などという少し大人びた粋な言葉を持ち出し、わたしに郷里に帰ることを告げる。

 成長したくまは、くまの野生を抑えられないから。

 草の上での食事が終わるや、雨が降り始めて雷がやってくるのである。わたしは、くまに抱擁される。雷がくまに下る。

 くまはわたしから離れて獣の声で、おおおおおお、と吠えた。

 くまは雷という強い自然界の衝撃を受けとめ、雷と闘ってしまったのだ。野生の本能が目を覚ましたのである。もはや、紳士くまではいられなかったのだ。くまは、くまの神様と交信していたのである。

 くまの神様に逆らえず、戻らねばならないことを悟り、雄叫びをあげる。人間界から離れなければいけない。つまり、かぐや姫が月に帰るように、わたしとの別れがやってきた、その暗黙の事実を、とてもじゃない辛い気持ちで受け容れて泣いているシーンではないかと思った。

 これ以上一緒にいたら、互いを愛せなくなり、無理が生まれて自分が自分のままでいられなくなるからだ。成長したくまとわたしは、プラトニックではいられないのである。

 ピクニックは終わった。そして、くまから手紙がくる。わたしはくまに返事を書く。二度ともとの関係には戻れない、せつなさ。残されたわたしの悲しみ、孤独へとつながってゆく。

 おそらく子供のように純粋なままではいられないこと。大人になってあのきらめく光のような時間を忘れてしまうことの計り知れない寂しさがここには書かれている。

 眠りに就くところで終わっているのは、希望のエンディングではないだろうか。夢の中では常識も、価値観も、制限もない、全ては軽々と乗り越えられてしまうものだから。友達は友達のまま、愛は愛のまま。

 川上弘美の想像力は、とても自由だし、自然である。年月も、男女の性別も、それがくまであろうと、ノミであろいと、心を交わすことができるそういう明るい夜半を描く。

 そして、表題の「神様」である。なぜ、川上弘美はこの表題を付けたのであろうか。

一瞬、くまは、くまという毛皮をきた神様ではないかとも思ってみたりした。が、やはりくまはくまだ。若い清廉なくまなのだ。

 ああ、神様のやさしい眼差しが濯いでいる、という神秘的な世界を置いているのではないだろうか。

 いまいるあなたの世界も、共通している世界観。神様に見まもられています、というメッセージがこの、『神様』という作品の奥には流れている。

 わたしも、自分に制限をかけたりせず、羽根のような想像力で作品世界を飛びたいものだ。



                                     葉月乃蓉果(はつきの・ようか)
                                                                         2024.02.01


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