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故郷は近くに在りて

  ひょいと玄関を飛び出し庭へ出て、北の方角に目をやれば、星の美しさで有名な山がそびえ立つ。
くるりと向きを変え南の方角を振り向けば、幻想的な灯で名の知れる、壮麗な大海が飛び込んでくる。

  四方を自然に囲まれた、そんなところで私は育った。

  一番近いバス停まで足をのばし、古くなった時刻表を一目見れば、多くの人が我が目を疑い、指でなぞって確かめるであろう。滅多にあることではないのだが、ひとたび大雪が降れば全ての車が制御不能となり、国道は徒歩で出勤を余儀なくされた勇者達が歯を噛み締め歩いている。良くも悪くもそれが紛れもない故郷であり、それは生涯変わらない事実であろう。

  高校進学で一度離れていたが、三十歳を少し過ぎた頃、私は娘をおんぶし、息子を抱いてこの地に帰って来た。母親を亡くした子供達は、まだ自分達の状況は分かっておらず、自然の中で無邪気に遊び、覚え、泣き、笑いと共に成長していった。人間はある年齢に達すると、後は老い、朽ちて行く存在であると、半分諦めにも似た厭世的な考えを私は抱いていたが、すくすく育つ子の姿を実感する事で、自分自身も新しい命を少しずつ吹き込まれていくような気がした。

 家のそばには川が流れており、親子三代以上に渡っての母なる遊び場でもあった。子供達がまだ幼い頃、週末の休みの時はよく川に出かけたものだ。川を下ると海へつながっているので、満潮時に上がって来たハゼ、ボラの子、シラウオなどを網を使って捕獲するのがとても楽しかった。私が小学生の頃には、今では珍しいうなぎを釣る事も出来た。
  上流の水の澄んだ場所からさらに進むと池もあり、そこではタガメ、フナなどもいて、子供の貴重な学習の場でもあった。
  子供が保育園から小学校にあがる頃、私が休みの日の週末になると、朝から息子の友達が何人も遊びにやって来る。私は引率の先生のようにみんなを引き連れ川へ行って遊んだものだ。魚釣りをしたり、水の流れの中に入り、泥を盛って小さなダムを作ってみたり、下って行って海付近で小エビを捕まえたりした。そしていっぱい遊んでお昼の時間になれば、みんな私の家にやって来て楽しいご飯の時間だ。手を洗い、行儀よくテーブルに座った子供達に、私はインスタントラーメンを作ってあげるのだ。塩ラーメン、味噌ラーメン、出前一丁、うまかっちゃん、その中から選んでもらうのだが、一番人気はうまかっちゃんであった。温泉たまごを落とし、別のフライパンで炒めた玉ねぎやもやしを乗せ、仕上げにゴマと紅しょうがをトッピングするのが大好評であった。それでも足らない食べ盛りのやんちゃ坊主には、梅おかか入りのおにぎりをこさえ、たくあんもつけてあげた。特製のラーメンセットである。

  食事の後で少し休憩をして、今度は川で舟のレースだ。これは海辺で拾って来た発砲スチロールをそれぞれが壁で擦って自分の好みに削り、小さな舟を作るのだ。水に浮きやすいように形を工夫し、水や風の抵抗を考慮して丁寧に磨く。枝を拾って後部に刺し、重りの石を埋め、バランスの良い舟に仕上げるのが匠の技だ。もちろん子供達はそこまで上手くは作れないので、細部の調整は施してあげるのだが、基本的には皆自分で工作し、上流のスタート地点には大小様々舟がずらりと並ぶ。一斉に手を離せば緊迫のレースが始まるのだ。

それ行け!
やれ行け!
ぶつかるな!
岩をかわせ!!

子供達は皆熱心に我が船を応援する。木の根や岩にひっかかったらたら手を使ってフェアウェイに戻す事もルールでは認められているが、舟を遠くに投げて距離を稼ぐのはご法度だ。流れの急な狭い水路が一番の見せ場であり、まさに手に汗握る白熱の時間なのだ。自分達の分身を追って皆岸を駆け、応援と歓声で近所のおばさんたちも見学にやってくる。下流付近に差し掛かる頃には流れは穏やかとなり、川幅も大きくなってくる。深さも増し、子供達は水の中には入れないので、進行の滞る自分の舟を進めるには、小石を投げ、その水圧を利用して力を与えなければならない。しかしこれが簡単なようで意外と難しく、石が小さ過ぎても威力が弱く、逆に大きすぎると舟はあえなくひっくり返り、場合によっては石が当たって破損しリタイアの涙を飲まねばならなくなる。場合によっては投げた石がライバルの進行の手助けをしてしまい、自ら敵に塩を送る大惨事にもなり得るのだ。

  歓喜のガッツポーズではしゃぐ者、がっくり肩を落とす者、三者三様、だが子供の遊びとはいえそこは真剣勝負、私は公正にジャッジをし、入賞の商品をそれぞれに授与するのだ。娘は一番歳下だったので、皆の計らいでスタート地点でかなりのハンデとアドバンテージをいつももらっているのにも関わらず、毎回どんケツでいつも泣いていたのも今となっては笑い話である。

  その後はみんなを連れて海岸へ行き、紙コップに入ったコーラを飲んで、秋の季節は夕日を眺める。田舎ならではのほのぼのした、贅沢な時間を子供達と一緒に私は過ごしてきた。春は大勢を連れて山に登り、夏は海水浴の監視員、秋は舟遊びに焼き芋大会、冬はサッカーや鬼ごっこ、凧揚げをして走り回った。私のインスタントラーメンの腕前は、子供達のおかげで格段に上がり、カツオ節で出汁を取ったりオム焼きそばにアレンジしたりと、週末はちょっとした定食屋さんのようであった。

  私は自分の人生の分岐点において、一度は死んだ人間だと思っている。生きる目標と意味を見失い、涙すら流れず、胸に大きな穴の空いた木偶の坊だったと言っても過言ではない。川を流れる一枚の葉のように、ただ無気力に流され続け、水に飲まれ、くるくる回り、浮かんでは消え、顔を覗かせてはまた沈む、色褪せた落ち葉のようだった。
  今でも時に迷い、悩み、しかめっ面をしながらもがいている事に変わりはない。つまずき、転び、擦り傷を負ってもまだ転覆などせず、下流に待つゴールを目指して悪戦苦闘の連続である。あっちへふらふら、こっちでおっとっと。
二歩進んでは三歩後退、艱難辛苦を舐める日々ではあるが、まだまだ勝負を諦めたりは出来ないのだ。そしてゴールの時は、私も誇らしげにガッツポーズを決め、笑っていたい。

  玄関を飛び出せば、北に山あり南に海原。

椎の実を拾い、野苺見つけ、木に上ってはザクロやアケビを採り、蜜を塗ってはクワガタ虫やカブト虫。山の麓に隠れ家作り、松ぼっくりでやれ合戦。

イカダを組み立て海渡り、撒き餌を散らしてアジを釣る。太刀魚、真鯛にイワシにコノシロなんでもござれ。

  タートルニットにダウンジャケットを羽織り、砂浜に座って夜空を見上げてみる。
昔と変わらず冬の星座がそこにある。

  私が生まれ、妻と出会い、子供が誕生し、その妻が輝く星となってから、一体いくつの星が生まれ、一体どれほどの星が流れ星となって消えていったのだろう?

  今、そこで光る夜空の星よ。

  そこから何が見えるのか?なぜそんなに輝くのか?

  ふるさとよ。ああ、故郷よ。

  

 

 

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