わっはっは花
「あ、パパ!寝てた!?ごめん!あのさ、友達とまた沖縄行くんだけど、パパってハブ酒とか飲める?お土産買って帰ろうと思うんだけど!」
時計を見ると、朝六時である。
「あ、おはよ。えっと沖縄?去年も行ったんじゃない?パパ、ハブ酒は飲めないかも。ビールとかがいいな。」
「あ、りょうかーい!!シーサーのお人形もまた買うね!」
娘の電話は八割が早朝で、残り一割五分が深夜、そして残りの五分がそのどちらにも属さないであろう(微妙に重なる?)午前三時半頃である。
沖縄かぁ、いいなぁ、このパニック障害が一日も早く治って飛行機とか船に乗れるようになったら行きたいなぁ、そんな夢を巡らせながらうとうとしていると、おや!今度は息子から珍しい時間の電話である。
子供たちから連続で電話があるなんてひさしぶりやなぁ。
「もしもし?どした?なんかあった?」
「あ、パパ寝てた?ごめん。あのさ、友達と沖縄旅行行くんだけど、お土産何がいーい?」
「え!?沖縄?しゅんも行くん?さっきわかなからも連絡あって同じこと言いよったばい。お土産?あんまり無理せんでいいけんね。時間あったらなんか記念になるものお願い!」
「オッケ!ならビールとシーサーの置物買って帰るけん!あ、パパさ、ハブ酒って飲めないよね!?」
パパはハブ酒はあんまり飲めません。
なんともまぁ偶然が重なる朝だなぁこりゃと、しみじみ思った。
私には二人の子供がいます。
息子は二十一歳で、娘が二十歳です。
大学、専門学校で二人とも医療を学んでいます。
アルバイトをあれこれやりながら、一人暮らしをしています。
息子はどちらかと言えば思慮深いタイプ、娘は天真爛漫で思い立ったらすぐに行動する性格です。
二人は、“とにかく前向きで明るく”、いつもニコニコしています。
そんな朗らかな性格は、亡くなった妻、天国のママにそっくりです。
妻が息子を妊娠している時、今のように残暑厳しい九月、汗をかきながら二人で産婦人科に通っていました。
私はとても汗っかきで、繋いでいた手もごたぶんにもれずベタベタでした。
それがとてもコンプレックで、付き合った当初から、いつもハンカチを何枚も持参し、こまめに拭いたりしていました。
「なんかごめんね。こんなに暑いのにさらにおれ汗だらけで。手繋ぐのやめようか?」
「え!?汗くらい平気だよ。私も汗っかきだしどっちの汗かわからないじゃん?汗はたくさんかいた方がいいらしいよ。ほら見て!おなかもだいぶ大っきくなったし、手を繋いでもらった方が安心だもん!」
そういつも励ましてくれました。
「赤ちゃん、すくすく育ってほしいなぁ。元気で健康で大きくなってくれるんだったらさ、おれ、自分の命とか健康とか、全部引き換えにしてもいいくらいだよ!」
と言うと、
「ダメだよそんなの。パパも子供もみんなで健康で幸せにならなきゃ!赤ちゃんのためにいろんなこと我慢したり頑張ったり、笑ったり泣いたりしてきたでしょ?汗もたくさんかいたよ。だから健康とか、少しくらい欲張ってお願いしても、神様は許してくれると思うよ。」
誇らし気に笑ってくれました。
そんな、私にとって、そして子供たちにとってもかけがえのない、向日葵のようなママは、娘を産んだ十ヶ月後、病気で他界しました。
「ありがとう」
と、笑顔と、微かな甘い香りを残して、天国へ旅立ちました。
私たち、小さな家族の新しい人生がこの時始まりました。
微風にも飛ばされ、僅かな溝にですらつまずきそうな、頼りない、先の見えない航海でした。
お葬式が終わり、しばらくして私は就職活動を始めました。
二十四時間営業のレストランで正社員として働き始めたものの、過労で倒れ入院したことをきっかけに、転職をしました。
「仕事はもちろん大切やけど、まずはこの子たちとの時間を優先する方がいいと思うよ。生活は心配せんでいいけん、体調整えて、ゆっくり考えればいいけんな。」
父と母が、そう言ってくれました。
「しゅん、わかな、パパごめんね。またお仕事変わってしまって、お給料とか半分くらいに減ってしまうかもしれないよ。」
「でもさ、お休みとかもたくさんあるんでしょ?日曜日におれ、魚釣りに行きたいけん、パパがお休みで嬉しいな!」
「あたしはパパと探検に行きたいけん、日曜日にパパいたら嬉しいな!」
そう喜んでくれました。
熊本地震の被害で、大切な子供たちとの写真がほとんど無くなってしまい落ち込んでいると、
「パパさ、写真、これからまたたくさん撮ればいいじゃん!長生きする目標出来てよかったって思わないと!!」
娘が笑ってくれます。
パニック障害を患い、飛行機や船はもちろん、長距離のバスや電車にも乗れない状況になり、毎月病院に通っている私の車の助手席で、
「どれだけ元気で健康でもさ、無茶したら身体壊してしまうし、車もスピード出して事故に遭う可能性もあるやん?だけん、無理せず労わるようにって、パニック障害になったんじゃない?」
息子が笑います。
「あんたはさ、確かに奥さんを亡くして大変な思いをたくさんして来たかもしれんけど、もし夫婦二人だったら、仕事仕事で毎日家をあけてただろうしね、子育ては奥さん任せだったかもだし、この二十年間やってきたみたいに保育園とか学校の行事に参加するのだって少なかったかもしれん。しゅんが高校の途中で不登校になった時でも、アルバイト社員になってでも毎日一緒に過ごして来たやん。ちょっとね、言葉は乱暴やけども、仕事を全部犠牲にして子供と過ごしたりなんて絶対してなかったと思うんよ。一度の人生をどう使うかは人それぞれやけどね、あんたにしか、そしてあんたたち親子三人にしか出来ない時間を一緒に作って来たんやから、それは胸を張っていいんじゃないかね?あの年齢になってもさ、パパ、パパって、そう簡単には呼んでくれんと私は思うよ」
と、娘の成人式の日に母が笑って言いました。
私が今、こうして生きていられるのは、亡くなった妻、元気な子供たち、厳しくて怖くて、温かい実家の両親が支えてくれたからだと思います。
そして親戚、近所の人、職場の仲間、子供の学校の先生方、数え切れない多くの人の言葉があったからです。
だからこれから、少しずつでも、どんな形でもいいから、自分に出来る精一杯のやり方で恩返しがしたいなぁと考えています。
世の中には素晴らしい言葉がたくさんあります。
その全てを書けばキリがないのですが、私にはいつも胸の内にある、絶対に忘れられない妻の残してくれた言葉があります。
結婚する前、私は肺気胸の手術の為、東京のある病院で入院生活を送っていました。
ちょうど桜の花が開く、暖かい春の時期でした。
術後、なかなか体が動かず、院内では車椅子の生活でした。
お見舞いに来ていた妻に押され、廊下から花見をしました。
妻は当時まだ、実家のある新潟で仕事をしており、しばらく休職して私の身の回りの世話をしてくれました。
退院した後も、週に一度は傷の消毒で通院していたのですが、傷の痛みや落ちた体力のせいもあってか、毎日めまいと吐き気に苦しんでいました。
山手線に乗っても各駅で降り、ベンチに座って妻が買って来てくれた水を飲んではうなだれる、片道何時間もかかる日々でした。
全身汗びっしょりになり、服は濡れて髪はくしゃくしゃ。
情けないやら悔しいやらカッコ悪いやら恥ずかしいやら妻に申し訳ないやらで、汗と涙が一緒に流れ落ちるような変な顔をハンカチで何度も拭いながら、妻に、こう言いました。
「なんか、ごめんね、迷惑ばっかりかけて。仕事にもお互い行けないしまともにも歩けないし、いい歳して完全におれは負け組だよ。」
「え!?なんで?別にいいじゃんそんなの。毎日一緒にいられてさ、都会の生活が出来てるし、非日常って感じでなんだか楽しいよ。それにさ、勝ち組とか負け組って誰が決めてるの?お金持ちでも孤独かも知れないし、ひとりぼっちでもたくさんの人が慕ってくれてるかも知れないし、見た目とかじゃ判断なんて出来ないじゃん。わたしは好きな人と一緒に入れたら幸せ。だって楽しいもん。今日さ、元気が出るように、鍋にしない?将来子供が生まれて家族が増えたら、わたし毎日鍋がいいな。だって賑やかじゃん。食べ終わったって思っても、シメ料理があるからみんな最後まで食卓に残るでしょ?何かあってもさ、晩御飯は笑って元気に食べたいじゃん。それが私の夢なんだよね!」
そう言って笑いながら、私の額の汗を拭ってくれました。
遠い、懐かしくもほろ苦い、大切な想い出です。
さてさて、子供たち、無事に沖縄には着いたんだろうか?
ハイビスカスや太陽のように、笑っているだろうか?
妻も天国で、向日葵のように笑っているかな?
私の周りには、たくさんの花が咲いている。
そんな大切な花をしっかり守れる大きな木に私はになりたい。
子供たちが帰って来たら、二人が大好きなキムチ鍋をいっぱい作って、お土産のビールを一緒に飲もうと思う。
シーサーもきっと、笑うんだろう。
うれシーサ!
たのシーサ!
まぶシーサー!
私の記事に立ち止まって下さり、ありがとうございます。素晴らしいご縁に感謝です。