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「言論の自由」と「和」の間で

今朝もitalkiでドイツ語レッスン。今日も面白くて、こちらのドイツ語コラムを読んでディスカッションしました。題名は、'Darf man Gott beleigiden?' つまり、「神への冒涜は許されるか?」

神の冒涜って、日本にいるとほぼ意識しないテーマだけど、ヨーロッパではいつでもホットなトピックです。例えばムハンマドの肖像画を誰かが描いたり風刺しては、イスラム教徒が反発してテロを起こし、それに対してヨーロッパ各地で【言論の自由】を訴えるデモが起こる、、というような構図が、数年ごとに起きています。

以前も、ドイツ人夫家族との夕食時に、このテーマが上がったことがあります。ちょうど去年の今頃、パリ近郊の中学校の歴史教師が、チェチェン出身の青年に首を切られた事件が起こったときです。殺害された教師は授業で、ムハンマドの風刺画を描いた週刊誌を見せながら、「言論の自由」について授業をしていました。この事件に対して、フランスのマクロン大統領は犠牲者であるこの教師に「言論の自由」を死守したとして勲章を授与し、国葬を挙行するなど、過激派テロへの戦いを強調。また「わが国はイスラム教を冒涜する自由がある」とも表明し、イスラム教国からの大きな反発を買いました。

個人的には、言論の自由はもちろん大切だけど、他人の価値観や感情を逆撫でしてまですべきことではないと思っています。自分の宗教については何を言っても別にいいけれど、他人の宗教についてとやかく言うべきでは無いのでは。日本人でこの感覚を持っている人は多いのではないでしょうか。

※後述:私の考えは、「法的に許されるか」と「倫理的に許されるか」を混同してしまっているかも。まだまだ考え中です。

ですがドイツ人をはじめヨーロッパ人は、言論の自由は最も大切な価値観で、何事にも代えられない、という考えを持っている人が多いです。ナチス・ドイツや戦後の東ドイツで言論の自由が統制されたことへの、強烈な反省から来ているのかもしれません。

この違いは、「他者の尊重」に対する捉え方の違いから来ているのかもしれません。例えば日本の場合、他者の気持ちを推し量って、自分の意見は抑えたり、相手のことをそっとしておくことが、「日本式・他者の尊重」かなと。日本人といると、目に見えない気遣いを感じて癒されます。そこまでしなくていいよ!と思うこともしばしば。

ヨーロッパでは、そもそも自分と他者の考えが違うことは当然のことと捉えられていて、だからこそ誰もが自分の意見を言うことが重要だとされています。子供も大人と同じく、意見を持つ存在として扱われ、小さい頃から訓練されているので、自分の頭に浮かぶことは何もかも言葉に表せる人たちが多くて、うらやましくなります。そして自分に言論の自由があるのと同じく、他者の言論の自由も尊重する。これが「ヨーロッパ式・他者の尊重」かなと、私は理解しています。だから、「私があなたの文化を風刺・批判する権利があるのと同じく、あなたも私の文化を風刺・批判してくれていいよ」、ということなのです。

どちらがいい、という訳ではないし、個人的には、真ん中くらいがいいなあと。もちろん万人に言論の自由が保障されていることは絶対的な価値があると思います。でも「神の冒涜」といったセンシティブな問題になると・・・

言論の自由が大事なのはわかるけど、ヨーロッパ人と話せば話すほど、私の根っこにはやっぱり「和」を大切にする価値観がある、と思わされるのです。今後もヨーロッパにいる以上、「言論の自由」と「和」の間で、揺れ動き、考えさせられそうです。

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