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どうして共感覚者なのか?

本日、京都大学の共感覚研究の方と研究協力としてお話をした。色々な共感覚についてのアンケートに答え実際にある共感覚について話せる範囲で話した。

現在の共感覚者である規定として、あるテストを受けそれをパスした人が共感覚者である認識という話を聞き、「ここまで発信して実は共感覚者じゃなかったらどうしよう」と不安がよぎるが、そのテストは以前にもしており、それ相応の反応を示していたので問題なさそうだった。再度そのテストは行う。

色々と連絡を取ってはいたが住んでいる場所から近いということもあり、京都大学の研究の方に今後は可能な限り力を入れる予定でいる。

関西方面で共感覚者の、募集も随時行っているということだったのでもし協力をしてくださる方は一度ご連絡いただければと思う。

アンケートには色々と共感覚についての実体験や見えている様子などを聴かれたがひとつ、不思議な質問があった。

「どうして自分が共感覚者なのだと思いますか?」

私はこれを読んだ時、声に出して答えた。

「私が聞きたい。」

そして回答欄には「わからない」と記述。これは他の共感覚者の方もほとんどがそういった回答だという。

先日clubhouseで共感覚を題材に話した際にも、よく似た話が出た。

「人間は生きるために色々な機能が備えられている。そのため、共感覚者のそれも何か生存するために必要なものとされたのではないか。」

私はそこに着眼点を置いたことがなかったので、驚いた。

そして今回のアンケートでもそのような質問があり、共感覚者ではあまりにも普通で気にしていないが、当事者以外から見ると「それ」の存在意義が気になるのだろうか。

言われてみれば確かに、なぜ共感覚というものがあるのだろう

一体なんのために感覚と感覚同士が繋がろうとしているのだろう?私の脳はそれを何のために備え付けたのだろう、と疑問が湧く。

この疑問は解決する日はくるのだろうか。なんだか気になるが、当然のごとく調べても出てこない。調べて出てくるのであれば、きっと今日その答えを知れていたはずだ。

研究をされている方と話し、以前よりさらに深く共感覚を知ることができた。共感覚かどうか、というテストが存在するということ。そこでは何を見ているのかということ。色字共感覚の研究が多いのは、共感覚の中で最も多くみられているからだということ。

不思議に思っていたことに根拠立てて教えていただき、自分の「伝えていく」活動の糧にもなった。

これからもっと、共感覚を知りながら研究されている方の力になれば幸いだ。

山口葵

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