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小説 | ならわし (②)


「受け入れてくれてありがとう。今すごく、心があたたかいよ」
夫から懇願されて、ついに根負けした私は、夫が希望する出産方法を受け入れることにした。
夫は私の手をとると、大きな両の手で包み込むようにして握った。
私たちは、夫の家族が代々世話になっている産婦人科へ向かっているところだった。

思い返せば、私の妊娠が確定した日の夜、プロポーズをするときも、夫はこのように私の手を握っていた。
「歩きづらいからやめて」
私は夫に、迷惑なことをはっきりと伝えるようにしている。
それは夫としばらく同棲を続けてみた結果、曖昧な言葉はこの人に伝わることがないとわかったからだ。つまり、はっきり言わないことには、言っていないのと同じことなのだ。
自分のお腹が大きくなるにつれ、体の負担が増えてきていて、それに伴い精神的にも普段のように穏やかにいかないことがある。自分の中でバランスを上手くとることすら難しいのに、まるで神経の通っていないような言動をする男に割く時間は、できるだけ少ない方がいい。

夫に連れられてやってきた産婦人科は、外観が恐ろしいまでに古びていた。ここが産婦人科クリニックだと知っている人はどのくらいいるのだろう。そのくらい信用ならない雰囲気を、建物全体から発している。
こんなところで、まともなお産などできるのだろうか。そもそも夫から提案された出産方法こそ、まともではないが。

・・・

「アステカ式?なにそれ」
夫が笑みを浮かべて私に説明をしたのは、いわゆる「安定期」と呼ばれる妊娠5ヶ月目に入った頃のことだ。
夫が希望する出産方法というのは、子どもを生む苦労を夫婦で分かち合うためのお産方法だという。
「アステカでしょ?あのアステカ文明。拷問、生贄が大好きなアステカでしょ?」
私に知識はほとんどないが、なんとなく印象に残っている野蛮な部分を抜き出して、この出産法を否定したかった。
「直接は関係ないよ。メキシコ先住民ウイチョル族の出産法の模倣だから。ただ、夫婦で痛みを分かち合うという、なんとも素敵な部分を受け継いでいるだけなんだよ」
勝手に異国の習わしを模倣し、受け継いでいるという。しかも調べてみたところ、実際に行われていたかどうかも怪しいではないか。
「そんなに必要なこと?痛みを味わうことが。出産の痛みを神聖なものと捉えている日本がクレイジーだと思われている昨今。まして直接関係のない夫が痛みを欲するだなんて狂ってるじゃない」
「だから!」
夫は突然、握った拳でテーブルを叩いた。
衝撃が伝わり、テーブルの上のグラスの水が零れそうになる。
しんと鎮まった部屋で、私は目を見開いて夫を見た。
「もし、逆らったら?あなたに逆らうとどうなるの?」
夫は首をふって項垂れた。
「どうもならない。信じてくれ、ごめん」
まさか。今怒鳴り声を上げた夫が涙を零しているではないか。激昂して、突然萎れて、項垂れる。
これが夫の本性なのだろうか。やっと見つけたまともな男だと思ったのに。急な展開に感情が追いつかず、悔しくて私は泣いた。どうして私の人生に、いつでも暴力を振るう人間がつきまとい、私を傷つけようと機会をうかがっているのだろう。
拳を握って振り上げたときの理性を失った夫の顔。一瞬で私の脳裏に焼き付いたその顔は、この結婚の絶望を予感させた。

「わかった。応じます。ただし、今後あなたが私に暴力的な面を少しでも見せようものなら。私はこの子と命を絶ちます」
私は宣言した。本当は我が子の命を手放す気も、危険にさらす気もさらさらない。
私は夫に宣言するよりも前に、この子に誓ったのだ。
どんなことがあっても守る。あなたをこの世に誕生させて、幸せにすると。誓ったのだ。



つづく


#短編小説
全九話


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