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液体 (短編小説)

私はいつからここに横たわっているのだろう。もう瞼を開ける力はない。もとより体は動かない。
耳だけは残してと、切に願った思いだけはどこかに届き、こんな私に静かすぎる部屋のかすかな空気の揺れを伝えている。
手足に感覚がないから、自分の体がどの程度残っているものなのかはっきりとしない。
鳩尾みぞおちのあたりに僅かに重さを感じることから、辛うじて呼吸をしている気がする。
一体、この状況が何を意味するものなのか。頭の中に次々と浮かんでくる疑問に答えを見つけようとしている私は、脳と耳だけになった不気味な存在のようだ。

私は今ベッドに寝ている。現実では、最後に暮らしていた部屋の中にベッドはなかった。しかしどうしてもベッドに寝ているイメージは消えない。
このベッドは、初めて彼と同棲したときに購入したものだ。二人だけの狭い部屋に、私たちは大きすぎるベッドを選んだ。
安い、大量生産されたものではなく、地元の家具屋の2階にひっそりと置いてあった大きなベッドに、二人して試しに寝転んだ。
家具屋の天井はコンクリートで、配管をわざと見せる洒落た造りだった。
これから二人で、このベッドで目覚める朝を想像して、思わず顔を見合わせて笑いあった。幸せな瞬間だった。

いつまでも浸っていたい思い出の中にいながら、一方で私の体は段々と液体になっていくような感覚があった。
じわじわと人型のままベッドに染み込んでいく。ろ過されるようにマットレスの間を沈んでいく私は、下へ下へと落ちて行った。そこには苦しさも悲しさもない。
やがて私は階下の天井に染み出て、他人の住まいの空間に入った。私が液体なのか気体になったのか、もはやわからないが、まるで見えない木の葉のように上から下へ揺れながら、ゆっくりと時間をかけて落ちていく。

泣き声が聞こえる。ぐずぐずと泣く声は生後間もない子供か、もうすぐ眠りに落ちる頃なのかもしれない。
低い声でゆったりと鼻歌を歌うのは女性で、子供を寝かしつけているのだろう。体の空洞を使って響かせるような声の出し方は、聞いていてなんとも心地が良い。開いてもいない瞼を閉じて、私はその声に聞き入った。しばらくして子供の泣き声が少しずつ小さくなり途絶えたのち、私はまたゆっくりと階下へと落ちていった。落ちながらふと、私に子供はいたのだろうかと考える。いたような気もするが、思い出すことは出来なかった。

さらに下の階に落ちていった私は、その部屋の湿った空気を感じ取った。聞こえてくる、かすかに漏れる男女の吐息。二人から吐き出される息は、絡み合うように重なり、動く。声にならない声は甘く、私の脳を痺れさせた。
かつて私には愛した人がいた。何度も肌を重ねては鼓動を伝え合い、生きている喜びに涙を流した人。あの人は誰だったか。顔の見えないその人は、私と生涯をともにしなかったのだろうか。

私は最後に、テレビの音のする部屋に落ちていった。話し声や笑い声はするものの、テレビの音量は小さくて、詳細に聞き取ることは出来ない。
ひんやりした部屋だった。
音がやけに響くことから、あまり物の無い部屋のように感じた。
しばらくして、ゆっくりと椅子を引き、誰かが立ち上がる音がした。椅子を引くことで、フローリングの床に嫌な音を立てているが、その人物は引きずることをやめない。
何度かため息と、力を込めたときに漏れる短い息遣いを聞いた。
おそらく老婆なのだろう。歩く音は不規則で、やっとのことで蛇口を捻って水を出す様子があった。やかんを火にかけるのだろうか。金属が合わさる音と、ガスをつける音がする。
直後、大きな音を立ててなにかが倒れた。それと同時に次々と物が落下する音が続く。
老婆の呻く声がする。
「だれか」という、か細い声。
その声は、紛れもなく私だった。

何日そこに倒れていたのだろう。
転倒して起き上がる力もなく、助けてくれる人もなかったのだ。火にかけたままのやかんは焦げたが、ガスコンロの機能が働いて、火事になることは免れた。
「通り道に物を置くなよ」と言ってくれたのは息子だった。一緒に住もうと言ってくれていたのに、私は親切を拒んだのだった。
息子のことは思い出したが、私の愛する人はどんな顔で、なんという人だったのだろう。
開かない瞼から涙がこぼれた気がした。最後にせめて声だけでも聞きたい。
切なる願いは再び届き、どこからか心地よい鼻歌が聞こえてきた。
先程の女性だ。今度は私のために歌ってくれている。いや、そうでは無い。歌っているのは私自身なのだ。
腕に抱くわが子は、ようやく目を閉じて寝息を立てている。
ちょうどその時、静かに背後のドアが開いた。
漏れてくる光の中に、男がいる。
「ただいま」とその人は言った。
「あぁ、おかえりなさい」

そう、私の愛した人はこの人だった。



[完]


#短編小説



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