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棚に上げる

Wordのオートフォーマットはオフにしている。
オートコレクトで、不要なところに段落番号が出るのはイラつく。
便利な機能も場合によっては「余計なお世話」になる。

20代後半、病によって会社を辞めた私は、友人の編プロから依頼を受けて、とある月刊誌にルポやエッセイを連載することになった。
実働時間(取材に1日、執筆にもう1日)にしてはかなり割のいい仕事だったが、ひと月に2本くらいの原稿では、就職していた頃に比べると大きな減収は免れない。
マンションのローンは、正社員で共働きを前提にしたものだった。

数年後、症状が落ち着いてきたところを見計らって、フルタイムの契約社員(就職していたときやっていたのと似たような事務職)に復帰したので、「書く仕事」はそれきりになった。

連載を受けたときに付けた条件(相手が友人だったからわがまま言い放題)は、写真も自前、キャプションもレイアウトも全部私がやっての「完成納品」なのでいじらないでほしいということだった。
取材と同時進行で文章が浮かんでおり、写真を撮った時点でどの位置にどういうキャプションを付けて置くかレイアウトもできている。
限られたページ数で、取材した事実の中に「私の思い」をどう潜ませるか。
それは、もうそのレイアウトでしか実現できないことのように思われた。
掲載誌も処分してしまったので、何をどう書いたかも忘れてしまっているが、きっといま読むと顔から火が出るに違いなかろう。

ほぼ、私の出した条件通りにことは進んだが、先方としては、編集の手間がかからないからいいや、ということだったのかもしれない。
いい加減な編集者だなぁといまは思うけれども、立場によって見方は異なるものである。

それから時が流れて、校閲の会社の経理職として就職したが、いつのまにか校閲職になっていた。
しかし、昇進とともにマネジメント業務が主体になってきたのでどんどん面白味は減り、かつ労働時間は増すばかり。
経営方針にも納得できなかったので、兄の死を契機に退職して、校閲業務だけを副業として請け負うことにした。

自分が書いていたときは、絶対にいじられたくなかったくせに、いまは他人の文章を容赦なくカットする。
そこは、クライアントによって「どれくらいの仕上がりを求めているか」みたいな匙加減がある。

仕事では「字下げ」や「段落」や「句読点」「小見出し」が非常に気になる。
読点の位置ひとつで、印象が変わってしまうこともあるので、クライアントの言いたいことがきちんと伝わるのはどれかとしばし考え込む。
直したいけれど「その修正は必要か?」という気持ちがせめぎ合う。
まだ馴染みの薄い相手だと「こんなに直して不快にならないだろうか」などと不安になることもある。
明らかな誤字脱字や固有名詞の校正なら文句はつけられないだろうが、そうではない部分をどうするかが難しい。

本業の職場でも、他のスタッフが送ったメールやレジュメの文章が気になる。
「私だったらこうする症候群」だ。
すでに送ってしまったメールはもうどうすることもできないし、レジュメも「これでいいか見て」と言われたもの以外は、手の出しようがない。
直したい気持ちをグッと堪えている。

今日、英訳を発注している業者さんと打ち合わせをして「この日本語がおかしくないですか?」と問われ、見たらおかしかった。
丸投げしてごめんなさいという話だが、そもそもの和文を直す権限はいまの私にはない。
かなり上のほうの人の文章なので、途中でチェックをした人もスルーしたらしい。
ストレスを抱えたまま帰宅した。
英文にすればかえってわかりやすくなるので、業者さんにとっては問題ない。

ここで自分で書く文章は、ほとんど校閲しない。
ときどき、「スキ」やコメントをもらったときに読み返して「あっ!」と誤字脱字に気づくこともある。
「まあお金をもらってるわけじゃないからいいか」というのが、言い訳だ。

もう書くことを仕事にはしないだろう。
やっぱり自分の文章に赤を入れられるのは嫌なんだよな。
ということで、読んでくださる方々にも、多少おかしなところがあってもスルーしてほしいと思う。

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