死が多すぎる

ここ数日間、第2波というような地震落ち込みに襲われている。
発災から1週間、2週間と過ぎれば過ぎるほど、遅すぎた集中捜索みたいな映像での虚しさを感じていたたまれなくなっていた。
亡くなった人はもう帰らないという当たり前の事実が、あれから1か月ということで増えた現地レポートで突きつけられる。

それが、私がこれまで味わってきた喪失感と哀しみに共鳴する。
私の周囲で発生した死は、どれも地震のせいではないのに、あたかもそうであるように喪失の追体験が起こる。
私の大切な人たちが、まるで昨日死んでしまったような錯覚。

テレビも面白くない。
本も読む気がしない。
家族が死んだときと同じように、淡々と処理を進める会社の仕事だけが落ち着きを取り戻す手段だ。
兄のときも母のときも、私は翌日から仕事に行ったんだった。
まあ、火葬場待ちだったせいもあるけれど、感情の込めようのない事務仕事に救われた思い。
娯楽や勉学に集中するためには、ある程度の心の余裕が必要なんだと思う。
揺れても壊れない遊びみたいな余白。

心の凍結、トリプル介護になってからめっきり本を読まなくなった。
読む時間がないのではなくて、心の余裕がなかったから。
どんなに巧みに書かれたものにも「ふん!」としか思えなかった。

介護が終わったら存分に読もう、きっと昔みたいに楽しめると思っていたけれど、今度は「喪失うつ」みたいなのが続いて、やっぱり無理。

文章は、読むものではなくて書くものになってしまった。
書くのは私には排泄だから、生理的行為。
でも読むのはそうじゃない。
「排泄文」はすっきり感を共有できるので読みやすいが、正論、ハウツーもの、カウンセリングものは、あいかわらず「ふん!」だ。

面白くないと言いながらテレビを見るのも、一種の排泄かもしれない。
次々と流れていってけしてとどまらないもの。
心にひっかからないから見ているのかもしれない。

今回の能登の地震で放出しきれなかったエネルギーがまだあるらしい。
あんなに大きかったのに。
半壊し危険と診断された家屋にいまだとどまる(そうせざるを得ない)かたがたもいる。
そんなニュースが心を震え上がらせる。
サッカー勝ったとか大谷さんがどうとか、違う銀河系の話みたいに聞こえる。

漫画家の自殺も、思ったより堪えている。

でも、有名人が自殺したときにいちいち「いのちの電話」みたいなのが追記されるのが嫌い。

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