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「どうせ」をやめる

夕食の後、カモミールティーを入れた。
すこし甘さが欲しくなって、スプーン一杯のはちみつを足す。

知らない人が家に入ってくるという夢をたまに見る。
強盗などではないのだが、その人が誰なのか、どうやって鍵がかかっている家に入れたのかまったくわからない。
一番怖いのは、意図が不明なことだ。
どちらかといえば「悪夢」の部類に入る。
「人間不信」の現れだろうか。

今朝も見た。
そしてどんよりした気分で起きた。
コロナの後遺症なのか、夏以来頭痛の頻度も増えた。
こういう日は、仕事もイマイチはかどらない。

小学生のころ、私は不登校だったから、昼間も家にいて、よく「国会中継」を見ていた。
生まれたときからずっと貧乏で、それは父がたびたび会社を辞めてしまったり、起こした事業が失敗したせいもあるのだが、父やいじめっこを怨むだけでは私の腹は収まらない。
そもそも、私へのいじめは、根底に貧困や地方による格差や、それらによる差別があるからという意識があった。
社会や政治は、そんな私を助けてくれるのだろうか。

自営のときは、昼間、両親も家で仕事をしており、私も拙いながら働き手の一人だった。
そういうとき、ラジオかテレビでよく国会中継が流れていた。
昔は、いまよりずっと頻繁に中継があった気がする。
まあ、いまはネットがあるから、オンタイムでなくても内容を知ることはできる。

我が家は、テレビを見て「あーだ、こーだ」といちゃもんをつけるのを楽しみとしていた。
その意味で国会中継は、いちゃもんの宝庫であった。
これはいまも変わらないどころか、つっこみどころが倍増していると思う。
だから、うちは貧乏で田舎者で、上品さや優雅さや賢さなど微塵も感じられない粗野な一家であったけれど、政治への参加意識は高かった。
というか、日常生活に政治の情報ががっちり入り込んでいた。
国会中継はBGMでもあった。

すこし前は「意識高い系」などと揶揄とみまごう扱いもあったが、私は意識が低いことを非難されるのはともかく、高いことを嘲笑されるのは間尺に合わないと感じている。

それから何十年も、可能な限り国会や各委員会の中継を見ている。
結果だけではなくて、どんな法律がどんな議論を経て成立したのかしなかったのか、それは誰得なのかというのを知っておきたいという気持ち。
だからニュースで「〇〇法案が成立しました」だけでは物足らない。
途中の議論、特に少数ゆえに切り捨てられてしまった意見も知りたい。

そして、私は執念深いので、答弁で当時の大臣がどういう態度であったか、失礼であればあるほど覚えている。
時が流れて、しらっと別のポジションで内閣に復帰しても、こいつあのときあんな失礼なことを言ったやつだと思い出して、いまどんなにいい発言をしても、騙されまいぞと疑ってかかる。

野党の議員などは、若いころから見ているので、ああこの人、追及のしかたがうまくなったな(上から目線)などと感心したりしている。
最近は、自分のことを棚に上げて、この人、老けたなと思うことが多い。

好きな高校野球や高校サッカーの選手がプロに入ってから、あのときの少年がこんなに立派になって、と感慨にふけるのと大差ない。

これまで投票を棄権したのは、病に臥せっていた一度だけ。
選挙は、政治への自分の意思を示せる数少ないチャンスなので逃すのはもったいないと思っている。
ここ10年くらいは、当日何があるかわからないので、いつも期日前投票をしている。
空いていてラクだし。

今日は、内閣不信任案が否決された。
その前に国立大学法人法の「改悪」が可決。
十分な議論が尽くされたとは言い難い。
これで、国立大学の教育に関して、政治が監視し口を出すことも可能となり、戦前に戻ったような恐怖感がある。
当の大学生や教員の方々は、これをどう感じておられるのだろうか。

どんな法案も、そもそも与党の数が多いのだから、可否は意のままである。
内閣不信任案にしても「どうせ否決されるのだから」という意見も多いし、中継のカメラに映し出される議員の中にはいかにも「関心なし」という態度の人も見受けられた。

「どうせ」という感覚はいやだな、と思う。
その意識が、それまでの経緯やすべての問題を投げ出してしまうようで。

民主主義は多数決とは違う。
多数決は結果で、民主主義は過程だと思う。
政府がすべてを数の力に頼って、手段を択ばずに票集めと金集めに執着することは非難されて当然だと思うけれども、国民のほうでも「どうせ」という結果のみを予想して、過程に関心を持たないことで、双方で民主主義を壊しているのではないか。

強行採決と不信任案否決の瞬間は、わかっていても心がえぐられる気がする。
与党の中に「私は不正に関して100%潔白だ」として賛成票を投じる議員がひとりもいなかったのは、本当に残念。
これでは、不正を容認しているか、自分も加担していると言っているようなものではないか。

解散総選挙がない限り、次の衆議院選挙は2025年。
そんなに待てない。

そんなこんなで、カモミールティー。

読んでいただきありがとうございますm(__)m