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『毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術』が“とても面白かった”ということ

言葉に関しても興味があって、辞書や校正に関する本はついつい読みたくなる。今回はこちらの本である。



とても寒い

「とても寒い」という文章を読んだとき、柳田國男氏は飛び上がるほど驚いたそうだ。

以前に、そういう話を聞いたことがある。見坊豪紀氏の書籍だったろうか。それを読んだとき、今度は私の方が飛び上がるほど驚いた。

なんで「とても寒い」に驚くんだ?

「とてもきれい」「とても美味しい」など、いつでもどこでもありそうな表現だ。どういうことなんだろう。

実は「とても」という言葉は、もともとは否定の文章でのみ使うものなのだそうだ。「とても真似できない」とか、「とても耐えられない」などのように。そう聞くと「ああ、なるほど」とは思うのだが、肯定の意味で使われるようになって久しい今日では「とても寒い」に違和感を覚えるという人の方が少ないのかもしれない。かくいう私も「とても寒い」のどこが間違っているのかなど、不勉強にして全く知らなかったわけである。

柳田國男氏は子どもの頃に学校で正されたのだそうだ。「とても寒い」を「たいへん寒い」に。昨今の小学校中学校、あるいは高校などで、どれだけ正されることがあるのだろうか。漢字の間違いを指摘されたことはあったような気がする。だが、言葉の使い方を訂正されたことがあっただろうか。ほとんど記憶にない。


校正するということ

新聞や書籍などでは、書いた文章を校正校閲する専門の方々がおられる。記者や作家が書いた文章はこれらの方により校正され、その後に出版される。私たち読者が読むのはもっぱら校正された文章ということになる。校正された文章を読むことで、あるいは日本語の間違いはある程度は正されてきたかもしれない。

だが。

これだけネットが普及した現在、校正されない文章を読むことの方が圧倒的に多くなった。

言葉は生き物であり時代を追って変化する。そのことに憂える人というのもいつの時代にもいる。「いつの時代にもいる」ということは言葉がいつも変わってきたことの証左でもある。おそらくは、どんな人でも変わる言葉に加担しただろうと思われる。ものを書く度に辞書をひくでもしない限りあやふやな言葉の一つや二つはあるだろう。いや、あやふやな言葉だらけかもしれない。それを発信するというのは言葉の変化に加担していることの何ものでもない。かくいう私もその一人である。

そして、ネットが普及し多くの人が文字で発信し、皆がそれぞれに独自の言葉を作り出している現在、言葉の変化はより一層加速するのだろう。もしかしたら、国語辞典の改版ペースも上がるのかもしれない。百年後、いや、五十年後に国語辞典がどうなっているのか、興味深くもある。


「通り」は「とおり」

「通り」の読みは「とうり」ではなく「とおり」だ。この「う」か「お」かについては、小学校一年生のときに国語の授業で教えてもらったことを未だに覚えている。次の言葉は全て「お」で表記するものだ。

遠くの大きな氷の上を多くの狼が十ずつ通った

ひらがなで書くとこうなる。

くのおきなこりのうえをおくのおかみがとずつとった

語呂がいい。リズムがいい。「通る」を書くときにはいつもこのおまじないを思い出す。五十を過ぎてもなお覚えているというのは、「通る」を書く度に呪文を唱えたからなのか、それとも余程に印象深かったのか。おそらくは後者ではなかったろうか。細かい理屈をこねられるのではなく、「これが『お』だ!」と断言されたことに「おお!」と感嘆したような気がする。柳田國男氏の「とても寒い」も、もしかしたらそんなことだったのかもしれない。


「約26人程」にある三つの問題点

さて。この「約26人程」という短い言葉の中に、なんと、三つも問題点があるという。

一つはわかりやすいかもしれないが、「約」と「程」は意味が重複している。どちらかでいい。
「約26人」か、もしくは
「26人程」

二つ目は、「26人」という具体値に「約」や「程」はおかしい。「約20人」であればまだしも、「26人」に「約」や「程」を付けてぼかす必要はない。

三つ目は、これは全く知らなかったのだが、「程」は「ほど」と読むが、数字に連なる場合は平仮名が原則なのだそうだ。なんとなれば「程」は元が名詞だからだという。広辞苑をひけば「程」は一に名詞、ニに助詞(名詞「程」から)などとある。そうか。「程」って名詞だったのか。であるからして、「26人程」と書くのであれば「26人ほど」が正しいという。「10人くらい」の「くらい」も同じであって、「10人位」とは書かないのだそうだ。そうだったのか。

さて。ここからがさらに面白い。

では、この「約26人程」というのは「26人」と言い切るように修正するのが正しいのか。というと、必ずしもそうとは限らない。もしかしたら「約26人」の書き間違いかもしれないからである。なるほど。そうであれば「約」を付けたことにも頷けるというものだ。うーむ。校正とは深い。


的を得る

昔、新井素子氏のエッセイで「的を得る」が間違いであるという話を読んで、これも未だ記憶に残ることである。とにかく、わかりやすかったのだ。

「的は射るもの、得るのは当」

「当を得る」
「的を射る」

これが正しい。
この時以来、「的を射る」を間違うことはなくなった。
同じような誤用に「腹をくくる」というものがある。それについてはこう仰っていた。

「くくるのは高、腹はすえる」

「高をくくる」
「腹をすえる」
が正しい。

と思ってたんだが改めて辞書をひくとこうある。

腹を括る:(一説に、「腹を据える」と「高を括る」の混同からできた語という)いかなる結果にもたじろがないよう心を決める。覚悟する。腹を据える。

広辞苑 第七版

新井素子氏はこの「一説」を仰っていたのか、はたまた私の記憶違いか。新明解(第七版)にいたっては「腹を据える」の方が「腹を括る」よりも扱いが小さい。こと程に記憶とは怪しいものである。

※「こと程に」も辞書でひけば「事程左様に」が正しいようである。

というようなことを思い出しながら読んでいたら、本書にもこの新井素子氏のエッセイを話題にされていて驚いた。「的は射るもの、得るのは当」に感嘆したのは私だけではなかったようである。


すべからく

タイトル画像に次の言葉を入れた。

「すべからく新たな挑戦であります」

これは実は安倍晋三元首相が発した言葉だそうである。そもそも、この言葉のどこが間違っているのか。「すべからく」は「ぜひとも」という意味であり「すべて」という意味はないのである。従って「すべからく~べきである」のように「べき」や「べし」を続けるのが正しい。先の言葉は次のようになる。

「すべからく新たな挑戦をすべきであります」

特にこの「すべからく」という言葉を取り上げたのには訳があって、実はつい最近に私も同じ間違いをした。フォローさせていただいている方のコメントでこう書いたのだ。

人間の考えることはすべからく科学であり、SFである。

本書の「すべからく」の解説を読んだときには「ああ、やっちまった」と思ったものであった。近いうちに訂正にうかがおうか考えている次第である。


タイトル画像の言葉たち

タイトル画像に表記した言葉は、本書では誤用とされていた言葉たちである。全て正せるだろうか。


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