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フラワー・オブ・ライフ②


「奥さん! もっと気楽に考えた方がいいよ」

ブラウン管から、眉間にシワを寄せた白髪混じりの男性が、電話口の女性を叱るように説きつける。平日のお昼にやっていた、みのもんたが司会するその番組を、私は食い入るように観た。
日本全国から悩める人々(その多くが主婦だった)が思い詰めて口にする、複雑な事情や揉めごとは、まるで暴露話のように興味をそそられた。アナウンサーが書き込むホワイトボードは毎回、嫁姑や金銭、男女の情事など妬み嫉みでいっぱいだった。

私には、電話の相談者がいつも大人なことが疑問で仕方なかった。
子どもの相談は誰が聞いてくれるんだろう。
行き場のない壁を叩きたくて、何度か受話器をあげたことすらあった。


それくらい、我が家の嫁姑問題は行き詰まっていた。

ふたりの罵り合いを耳にするのが怖かった。喧嘩の後は、祖母も母も私と2人きりになると、自分の正論を聞いて欲しいのか、お互いの悪口を唾を飛ばして捲し立てた。
祖母はよく泣いたが、母は絶対に泣かなかった。

母は時々、真っ赤な口紅を引いてシャネルの5番をつけ、毛皮のコートを羽織るとコツコツと靴を鳴らして夜の街へ出掛けて行った。
小さな私を連れて行く時もあった。
よく知らない大人たちとお互いの顔が見える程度の橙色の灯りの下で、必ず「バーボンシングル水割り」を頼んだ。
L字型のソファの真ん中に座り、口を開けて大袈裟に笑い、驚いた時は横のひとを押し倒すようにしてリアクションを取り、かと思うと急に立ち上がって声を荒げる母は、まるで大きな操り人形みたいだった。

父は、ふたりの喧嘩にまったく与しなかった。
私たち兄妹は戦地から逃げ込むように父の部屋に籠った。
遊び上手でユーモアがあり、のんびりしていて音楽と映画に詳しく、争いごとを嫌う父が大好きだった。
昼間は店の営業や配達に出て家におらず、帰宅後夕飯を食べ終わると自分の部屋でレコードを聴き、映画を見、油絵を描きながら放牧するように私たちを自由にさせた。私たちはそこで深く呼吸し、無邪気に笑い、絨毯に背中を沈めて寝転んだ。
父といるとどこまでも平和だった。

高校二年生で嫁姑問題の絶頂を迎えた時、悩みに悩んで私は父に「おばあちゃんと別居してほしい」と申し出た。核心をついた話をするのは、常に娯楽を優先し共有してきた父との関係を思うとなんとなくルール違反のように思えて後ろめたかった。が、ギリギリだった。いま一歩踏み出さなければ、兄も私も潰れてしまう。

「お願いだから、もうこれ以上家を戦場にしないでほしい」

するとしばらく考えて父はこう言った。

「お前はこれから、同じ問題を抱えたひとに出会った時、そのひとの気持ちをわかるようになるで」

え? それは今後も同居を続けるってこと?

「そうなるわなぁ」

私の心は三たび傷ついたのである。
はっきり言って、失望以外の何物でもなかった。
と同時に、母と祖母がなぜ終わらない喧嘩を繰り返すのかが分かったような気がした。


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