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短編私小説「手稲山」11111字 

※エンジェルナンバー踏むと良いことあるかもね♬(この一行は11111に含みません)

【やべーなぁ…… 手稲山に傘雲が広がり始めてるかぁ_______。下がってきてるしなぁ……雲。 吹雪くべなぁ~これ。さて、どうする】
 昭和61年1月末。俺たちは観光バス5台のお客様をお連れし、北海道は札幌の大通公園東向きテレビ塔の下にいた。お客様たちはそれぞれ自由行動。添乗員も定められた時間まではフリーだった。

 丁度この頃からだろう。添乗員をツアコンと呼ぶようになったのは。俺が籍を置いていた会社では、ツアディレ(ツアーディレクター)という呼び名で呼ばれていたのだが、資格としてはJATA(日本旅行業協会)が発行する、一般旅程管理(国内・海外の添乗ライセンス)か国内旅程管理(国内添乗ライセンス)が必要となりほどなくの時代だった。俺は一般旅程管理に合格していた。

 お客様たちの集合時間は18:30。俺が時計を確認すると集合時間までは1時間以上を残していた。俺を含めて5人の添乗員が200名を超えるお客様たちに付き添っていたのだが、俺は入社2年目の坊やであり、他の4人はベテランと呼ばれるクラスの添乗員だった。1号車に乗るチーフ添乗の松田は10年を超えるベテランとして周りからの信頼も厚い。5号車に乗るサブチーフは8年クラス横田だった。あとは5年クラスの添乗員2人が2号車と4号車。そして3号車の真ん中を2年生の俺が乗るという布陣だった。

 当時を思い返すと、2年生の俺が「プレ雪まつり」のツアーに乗るというのは、この頃であれば"僥倖"といっても良いほどのことだった。添乗員連中の間でも、北海道ツアーは誰もが乗りたがるツアーであり仕事だったのである。当時の2年生であれば、アサインされる仕事の中身が、バスツアー中心だったものが、GTと呼ばれる、飛行機や新幹線を使った仕事が増えだす頃だったが、それでも北海道ツアーに乗れる添乗員は限定的だった。

 東京渋谷にある事務所の壁には添乗員のアサイン表が張り出され、国内・海外の添乗員の名前が書かれ、月ごとに仕事がアサインされていた。
「なんだよ……世一"プレ"行くのかよ…… いいなぁ」同期連中や、一つ、二つ上の先輩たちですら俺を羨んだ。
「右京さぁん、僕もプレ行きたいからつけてくださいよ~」アサイメントをするディスパッチャーの右京に猫なで声を漏らしながら懐く者も珍しくは無い。

【添乗員が5人か。めんどくせぇなぁ。バス三台までなら俺一人でアジれるのに。真ん中かよ】生意気なクソガキの俺は一人頭の中でそう嘯いていた。
23歳と3カ月の俺だった。
   

「よいっちゃん、お疲れ様。フリーどこか行ったの?」サブの横田が集合場所に帰ってくると俺にそう声をかけた。
「お疲れ様ですいえラーメン食ってきただけですあとは雪像みて。横田さん達は何処に行ったんですか?」それほど聞きたくもなく、興味もない他人の行動。【お愛想】か。言葉を発する最初の区切りのフレーズまでは横田の顔を見ながらのものだったが_そこから先は目の前のテレビ塔を見上げながらの言葉となった。
横田が何かを話していた「・・・・・・・・・でね、・・・・・・でもさ」聞きたくねぇ「横田さん、先輩たちが帰ってきましたよ ! !」
2号車の有薗と4号車の菊地が戻ってきた。
【助かった】俺は小さくため息を一つ吐き出した__________。

 なんだろう。この頃の俺は兎に角「先輩」が嫌いだった。先輩という存在への嫌悪というよりは、仕事人として自分の考える信念であり価値観でありが、ヒエラルキーの最下層から抜け出せずにいることに対してのジレンマを感じるたびに社会システムを呪っていたところがあった。
 どうしたら、どうすればアサイン表の一番上に名前を載せることが出来るのか。なんか、実技試験とか、アンケート評定とかがあればいいのに~
そんなことばかりを考えていた。

 
_____________すっかりと陽の落ちた大通り公園に街灯が灯っていた。吐き出したため息はキラキラと輝きながら宙を舞い、そして雪道に、流れるように堕ちてゆく。
大通りを往く車のスパイクタイヤが道路を梳る音が煩っせかった。
路線バスはチェーンを掻き鳴らしながら走ってゆく________チャイチャイチュリチュリ~チャイチュリと。

いつの間にか5人の添乗員が揃っていた。
チーフ添乗の松田が声を上げた。
「はい。皆お疲れ様です。では、あと30分でPAXの集合時間ですから、ここで最終の打ち合わせをしちゃいましょうか」10年のベテランらしい淀みのないブリーフィング姿勢だった。育ちが良いのだろう。選ぶ言葉にも無駄がない。確か法政大学出だったか。【チィ__ッ】俺は無駄だらけだった。

「リターンのエアーはJALの524便20:40DP、例によって羽田行最終便です。チェックインは団券を僕が持っていますから、それでチェックインします。皆はチェックインカウンターの前方、公衆電話の前あたりにPAXを誘導し、号車ごとに集合させてください。トイレはチケットを配るまで我慢してほしいところですね。座席のアサイメントは添乗員各自ですること。シートの並びの都合上、お客様が前後に割れる場合がありますが、調整可能なら機内で調整しましょう。でも、席はだいぶ飛ぶんだよね。纏めての席じゃなくてさ」他の添乗員たちは誰も口を挟まない。
 松田は手稲山を背負っていた。手稲山は既に真っ黒だった。

【やばいなぁ… ハイランドのゲレンデのナイトライトが見えねぇ… これは既に吹雪いているか。吹雪がこっちに堕ちてくるのも時間の問題だな。エアーは最終便。ヘタすると千歳、天候調査入るだろう】
俺の頭は既にエマージェンシーへの対応に切り替わっていた。

「千歳のJALに電話を入れ確認したところ、運航状況には問題ないそうです。さて、間も無くPAXが集合する時間ですから、各自トイレに行ったり一服したり、準備しながら各自のバス前で待機してください」
松田がそう言葉を締め括ると添乗員たちは各自のバスに散った。

【やばい……逃した。うん? 何何 2年生の俺が先輩たちに何を云うのよ。山が吹雪いているから飛行機飛びませんよって言うのかよ。誰が聞くんだよそんな与太話。取り敢えず、あご・足・まくらだけ皆の分を……いやいや無理だ。200名越えてるし、一発でそんなものを抑えるとまともに飛んだ時に問題になる。それに……俺はチーフじゃない。全体を考えるのがチーフの仕事だ。取り敢えず俺は自分のバスのお客様のことだけを考えよう】

 俺は2号車の添乗員の有薗に「トイレに行ってきます」というとテレビ塔の下に走り、公衆電話ボックスに駆け込んだ。
「札グラ……札グラ…っと…… あっもしもし、わたし〇〇〇の渋谷支店〇〇メディア事業部の飛鳥世一と申しますが、お世話になってます。急で申し訳ないのですが、予約に電話まわりますか? え~。はい本日分です・・・アッお世話になってます。急で申し訳ありません、今晩の空き状況はどうですか ? はい。有り難うございます。では、仮押さえで申し訳ないのですが、21twbbとワンシングルbb 合計43Hの仮押さえをお願いします。20:30までにはコンファームします。それと、何か晩ごはんをグループに用意できますか。はい43Hです。カレーライスとサラダ とスープ ? それで大丈夫です ! ! 有り難うございます。クーポン? 支払いですか? いえ、ALLでJAL払いです。はい。では、コンファームのときに。失礼ですがお名前は ? 」

この頃の航空会社と一部の大手旅行会社の間では「握り」という非正規の規定が存在していたことを知るのは業界関係者だけだろう。当然今の時代の添乗員さんたちはその事実を知らない。たとえばこのケースのように天候不順による欠航の場合、旅行会社の団体分は航空会社持ちという縛りや握りが機能していた。今では、ほとんどがお客様持ちだろう。

 電話を切ると外は横殴りの雪が降り始めていた。
【止まる。これは確実に天候調査が入る。入れば欠航だ ! ! 】
俺は昂っていた。
【あとは足の確保だけか。今のバスが送りあとに残ってくれれば良いのだが、中番のバスだから、チーフに確認するとか云われるとヤヤコシイなぁ。さてどうするか】
 俺が自分のバスに戻るとお客様が戻り始めていた。
「ガイドさん、ゴミ袋ありますか ?」俺はバスガイドにゴミ袋を貰うと、車内の客席を回った。
「ゴミありますか? 大丈夫ですよ、何でも入れてください」俺はそう云いながら車内を回った。
「まぁ~添乗員さん、ゴミ集めもするの ? そんな人見たことないわぁ」
何処から出ているか分からない声を上げてくれるおばちゃんはこういう時に有難い。他のお客様や、ガイドさんやドライバーさんにも聞こえる。
やっているフリではない。実際にやるから効くのだ。実際に汗を流すからツアーを支配できる。俺の哲学だった。
 ごみを集めながら、人数確認をする。最後のお客様が帰ってくると、ゴミの口を締め「お揃いです。お願いします」とドライバーさんに告げた。
バスガイドさんがステップ立ちでOKをチーフガイドに合図する。

 外は既に吹雪き始めていた。
「タイミングよかったですね。だいぶ降ってきましたから」ドライバーがそう俺に声をかける。"ファン"バスのクラクションを一つ鳴らすとバスは大通り東向きを北へと頭を振った。
「ええ、本当に助かりました。良いタイミングでした」俺はそれ以上を言葉にすることは無かった。
【千歳だ。正念場は千歳なんだ。さぁ……どう出る】俺の心臓は高鳴っていた。まともに考えれば飛行機が飛んだ方が良いに決まっている。ただ俺の頭の中では【吹雪け、もっと。もっと吹雪け】という声が響いていた。
 俺はトラブルを喜んだ。旅先で起こるチョットしたトラブルは俺にとってもお客様にとっても刺激的だった。ただ、着地ありきなのだ。安全な着地を前提としたトラブルは思い出に残るのだ。

冬の真っ暗闇の中にあってすら、手稲山はゲレンデを照らすオレンジ色の高覧式照明のおかげで滑走面が闇夜に浮かび上がっているのが当たり前だった。吹雪くときは雪雲がすっぽりと傘をかけたように山を包み込むことを俺は知っていた。
【いいんだよ。お前は2年生だ。中番だ。これを考えるのはチーフの仕事なんだ。もしも空港で、天候調査の末の欠航が決まったとき、チーフは"各自手配の上、安全にPAXを誘導すること"と言うだろう。であれば、おまえは間違っていない。普通に飛行機が飛べば、おまえは札グラにCXLの連絡を入れれば良いだけなんだ。お前は自分に出来ることをし、お客様の安全をお前なりに考えただけなんだ】俺は補助席に体を埋めるとそう考えを巡らせた。

「酷く吹雪いてきましたねぇ…… 前が見えなくなってきたべさ」
バスのドライバーさんが誰に言うとは無く言葉にする。俺はそれには答えなかった。応えるととんでもない高い声が出そうだったから。客席に座るお客様の"おばちゃん"が上げたような素っ頓狂な高い声で応えてしまいそうだった。
「ヤバいっすね_________」これだけを押し出した。声が高かった。
「ガイドさん、お願いがあるのですが、最後のご挨拶、先にガイドさんがしてください。そして、空港到着15分前に私にマイクを頂けますか」
 ガイドは「はい」とだけ返事をしてみせた。
 【腹を括らねばならない時間が近づいてきた。今回のツアーで最大の見せ場だ。最高の山場を作ってヤル】俺は心なしか小さく震えていた。喉は乾き、手のひらには汗をかき、小さく震えていた。
 23歳3カ月の小僧が、人生経験豊富な自分の親世代のお客様を前に一世一代の大勝負に挑むのだ。それは震える。それは汗もかく。喉も渇くだろう。

 バスガイドが自分のお別れの挨拶を終えると俺にマイクを渡した。
俺はガイドの立つ位置に体を預けると客席に向けて深々と一礼した。
「この度は〇〇〇〇ツーリスト〇〇支店、札幌プレ雪まつりの旅にご参加いただき誠にありがとうございました。さて、みなさんのご旅行も本日で終わりでございますが……いかがでございましょうか。名残惜しいですねぇ。冬の北海道。そして札幌、定山渓温泉……できればもう少し滞在して観光したかったぐらいでしょう」
 時にはバスガイドが話す時間より長くマイクを持つのが俺のスタイルだった。俺が前に立つだけでお客様は笑った。俺はそれが大好きだった。お客様に笑われることが大好きだった。
「間も無く、千歳空港に到着します。くれぐれもお手回り品やトランクにお忘れ物がございませんよう、バスが停車しましたら、ゆっくり確認して頂き、暖かくしてからバスを降りてください。バスを降りましたら私が旗を出しますので、旗の前は? そう。あ・る・か・な・い・でございますねぇ♬ さて空港が見えて来ました。最後になりますが、3日間、皆さんの安全に心を尽くしてくれたドライバーさんの〇〇さん、そして楽しいお話を聞かせてくれたガイドの〇〇さんに温かい拍手でお礼を申し上げましょう」

 俺は考えていた伏線を張ることをやめた。外は猛吹雪ではあったものの欠航は判断はつかなかった。ただ確実に天候調査は入るだろだろう。それだけは確信が持てた。

 バスが駐車場に入り込むとバスだまりにその12mの巨体を横たえた。1号車のお客様は既にバスを降り歩きはじめている。2号車のお客様はバスを降り始めたところか。
 バスを誘導するためにガイドが笛を吹きながら時おりオーライと声を張り上げていた。バスが停まる。ガイドがバスに戻る。
「ドライバーさん……この後どうするのですか?」俺は満を持してドライバーに訊ねた。
「ここで少し掃除して…… でも添乗員さんがゴミを集めてくれたから。随分たすかりました。まぁ、内窓拭いて、エチケット袋セットしてから車庫に帰りますわ」
「ドライバーさん。申し訳ない。私のお願いなのですが、30分だけ待っててもらえますか。この天気、多分、最終便は欠航します。状況が分かり次第すぐに私が戻ってきますから。もしもダブルになる時は車庫に私が電話をして報告するので、30分だけ時間下さい」俺がそう告げるとドライバーは「わかりました。じゃぁ、窓ふきでもしてますわ」と応じた。

【これで、あご・あし・まくら総て揃ったか。仕上げは御覧じろだ。よし腹括れ俺】俺は顔を両手でパシパシと叩くと、コートを着込みバスを降りた。
42名のお客様がバスを降り、俺の旗の後ろを歩く。
吹雪で前が見えない。一寸先が見えない。地吹雪だ。既に道路には吹き溜まりが出来ていた。4号車のお客様もバスを降りはじめた。5号車は駐車場に滑り込んだところだ。

空港ターミナルに入ると、1、2号車のお客様は既に並んで待機しておられた。俺は意識的に自分のお客様を遠くへ誘導した。他のお客様と並べることはしなかった。
 JALのカウンターにはチーフと2号車の有薗が居た。
「JAL524便20:40発羽田行き・只今天候調査中」の看板が出ていた。
「みなさんにご案内がございます。トイレは我慢してほしいのですが、もしもいかれる場合は、必ず一人は残ってください。ご夫婦が多いようですから、必ずお一人は残ってください。私は今からチェックインに行ってきます」

「お疲れ様です」
「お疲れ様。見ての通りの天候調査だよ。フライトのCXL分かるまであと15分ぐらいかかるらしい」チーフは俺にそう告げた。俺は押し黙ったままだった。「じゃぁ、お客さんにその旨だけ伝えましょうか。今ならまだ公衆電話も空いてますし。その時間までに待機場所に戻るように伝えましょう」有薗がそうチーフに告げた。
3人の添乗員が自分たちのお客様の元に戻ると、状況説明をお客様に告げる。4号車5号車の添乗員がチーフの元に駆け寄り、手短な報告を受けるとお客様の元に散った。

【チーフ……飛ばんよ。今日の最終便】俺はその言葉を繰り返した。
「皆さん。現在こういう状況で、皆さんの飛行機が天候調査に入っています。あと10分ほどでフライトかフライトキャンセルかがわかります。どうかトイレだけは順番にいっておいてください。ただし、19:30までにはここに戻ってください。ご不安もおありかと思いますが、公衆電話は混みます。電話は慌てなくても大丈夫です。先ずはおトイレが我慢できるか出来ないかに集中してください」笑いが起こる。他のバスのお客様たちは皆緊張した顔を見せていた。
 
 俺は一人で外へ出るとバスの駐車場へ向けて走った。雪で足を取られそうになりながら、駐車場へ走った。
「ドライバーさん、多分、欠航になります。19:40分にはお客様をお連れして戻ってきますから、待機お願いします!! 車庫には取り急ぎ私から電話を入れます」
「わかったけど……どこさ運ぶってさ」
「札グラにお願いします。札幌グランドホテル。テレビ塔で仮押さえしてます ! !」
「わかったよぉ(^^♪」とドライバーは嬉しそうな顔を見せた。バスのドライバーも添乗員と同じだった。中番を走るドライバーは年功の浅い者が中心だ
これはバスガイドもである。俺にはドライバーの嬉しそうな顔の理由がなんとなく分かった。

19:30少し前。ターミナルのインフォメーションがアナウンスされた。
「JAL524便20:40発羽田行きは、千歳空港吹雪による悪天候のためフライトがキャンセルになりました」お客様たちから落胆の声が上がる。添乗員の説明を求めあっちこっちで添乗員を呼ぶ声が広がった。俺のお客様は静かだった。誰も俺を呼ぶお客様は居なかった。

「添乗員集合 ! !」チーフがターミナルに響く声で添乗員を集めた。
「フライトキャンセルが決定しました。つきましては、明日の朝9時までに各自お客様とここに集合。各自は今からホテルの手配、移動手段の手配をした後お客様を誘導のこと。言うまでもなく、安全第一、吹雪いているからくれぐれも気を付けて」そういうとそれぞれの添乗員はお客様の元に散った。

 俺は、一般客で混み始めた公衆電話に向かうと、バス会社の車庫に電話をかけ、夜勤の担当者に事情説明。運行許可を取り付けると、札幌グランドホテルの予約担当に電話を入れ、実泊する旨と食事の手配を頼むと自分のお客様の元に戻った。

お客様たちの顔は曇ってはいなかった。多分、信じていただいていたのだと思った。
「皆さん。詳しいことは後ほどお話しします。先ずはお荷物を持っていただき、バスに参りましょう。添乗員の旗の前は? はい。あ・る・か・な・い・良くできました~」というと他のバスの添乗員が説明をしている後ろを抜けて歩いた。先輩添乗員たちは皆一様に驚きの顔を見せていた。
 有薗だけが俺に寄ってきた。「よいっちゃん、何処へ行くの? 足は? 」
「バスに残ってもらってたんです。宿泊は札グラです」
「えーーーーーッ、何それ ! ! そんなん聞いてないし ! ! 」有薗は俺にそう云って固まった。

 俺のお客様たちはニコニコしていた。有薗に頭を下げるお客様もいらっしゃった。もう何を云っても笑える状況だった。
バスに乗り込み、ガイドさんからマイクを受け取りお辞儀をすると、誰とはなしに拍手が沸き上がり、その拍手は暫く止まなかった。俺はマイクを通して「ドライバーさん。では、今夜のお宿、札幌グランドホテルにお願いします」というと歓声と割れんばかりの拍手に包まれた。

▼追加原稿▼

 バスは吹雪の中を何事もなくホテルの玄関前にその腹を横付けした。札幌グランドホテル。札幌の名門、札幌の迎賓館としての顔。昭和の札幌にグランドありといわれたホテルだ。
 突然自宅に帰れなくなったお客様たちだったが、誰一人として不平や文句を口にするお客様はいらっしゃらなかった。バスを降りるお客様の顔はどれも皆、期待に膨らんでいる様に映った。何人ものお客様がバスの降り際に俺の肩口をはたき、ご苦労さんと労いの声を掛けた。握手を求める者もいた。
「夕飯も出ます。朝食もついています」車中ではもう何を喋っても感嘆の声しか聞こえなかった。
「夕飯は、札幌グランドホテルのフルコースです__________カレーライスですけどね」

 あご・あし・まくら、あごとは食事を指す。あしとは移動手段を指す。そしてまくらとは宿泊を指す。旅行の3要素だ。ツアー中トラブルに遭遇した際、命の次に優先すべきものだ。中でも"あご"は重要なのだ。食べ物で"口をふさぐ"ことがどれほど重要か俺は知っていた。

 ドライバーさんとガイドさんにお礼を云うとホテルのチェックインを済ませ、夕食と朝食のクーポン、ルームキーをお客様に配るとホテルの当日予約係を呼び出してもらう。
「お疲れ様でした」姿を見せたのは10年選手を想わせる札グラに相応しい慇懃な30代半ばの職員だった。
俺は「有り難うございます。助かりました。インボイスは凡てJAL宛でお願いします。これが団券のコピーと参加者名簿ですから、コピーをお願いできますか」俺は余計なことは話さなかった。言葉数が増えれば増えるほどお里が知れると思っていた。

 夕食会場入り口でお客様の来場を待つ。俺はまだ部屋にも入っていなかった。次々にお客様が夕食に姿をあらわす。流石にどの顔も疲れた様子が滲んでいた。それでもわざわざ着替えをし、この旅行一番のドレスアップやネクタイ姿で来場するご夫婦連れもいた。楽しみ方を知っておられる。そういうお客様の姿を見ることが好きだった。
 俺のお客様は原則俺を探す必要はないのである。ホテルに入り、食事が終わるまで俺は俺の体をお客様の前に晒していた。ツアー中の俺の体は俺のものではない。23歳なりの哲学だった。お客様たちが食事をはじめ、食べ終わると順次部屋へと帰る。最後の三分の一ほどが残った状況で初めて自席で食事をとる。その場に添乗員が居ないとお客様は"あらぬこと"を考える。「添乗員の夕食はお客よりいいものを喰っている」そんな妄言が巷に漂っていたことを俺は知っていた。三分の一まで減ったお客様は俺にとっての保険だった。

 夕食が終わり、部屋に入ると既に22時近くになっていた。【疲れた。どうでも良いが疲れた。モーニングコールは頼んである。このまま寝るか】うつぶせに横たえた躰から力が抜け、いつの間にかジャケットを着たまま寝落ちしていた。
 室内電話がくぐもった音を立て俺を眠りから引き戻す。
「もしもし、飛鳥ですが」
「よいっちゃん? 有薗だけど……寝てた? 」
「お疲れ様です。はい、いえ大丈夫です」俺は答えながら時計を見た。時計は23:00を回っていた。
「みんな集まってるんだけど、よいっちゃんもおいでよ」有薗の声におかしなものを感じ取ることはなかった。ただ俺は【来たか。やっぱり来るよな】と覚めきらない頭の中で自問していた。

チーフのホテルにみんなが集まっているようだった。ホテルDAI〇〇。ビジネスホテルである。
【さて、何を云われるやら。でも俺は間違ったことはしていない】そう自分に語り掛けながらチーフの部屋をノックした。
「よいっちゃん、お疲れさん。お客様は大丈夫だね。食事もとれたのかな」流石ベテランチーフだ。気にすることはお客様のことが最初だ。
「入って座って ! ビールでいいかな ? 」
「俺、飲めないんで。コーラがいいです」
チーフ以外の3人は、お疲れ様と云ったきりまだ誰も口を開かない。疲れているのだろう。空気が重かった。中でも菊地という5年生を取り巻く空気が粘着いて感じられた。
 最初に口を開いたの有薗だった。
「しかし、凄かったなぁ。なんであんなことできたの?」その言葉からは他意や悪意は感じられなかった。
俺は「たまたま……ですよ」と告げた。
「たまたまであの判断は出来ないよ。現に他の誰も出来ていなかったし」そう言葉を続けたのはサブの横田だった。
「あの状況下で、よいっちゃんのお客さんの顔は笑っていたからなぁ皆」
「そうだねぇ」
有薗が口にするとチーフが相槌をうつ。
菊地が重い口を開いた。
「でもさ、分っていたら共有できたし、事前に手配もできたじゃない。よいっちゃんはどうして皆に教えてくれなかったの ?」
【来たか。来るだろうなぁ……それも予想は出来た。多分、この4人の中でそれを口にするのはあんただろうと思っていたよ】俺はそう感じていた。

チーフの松田が菊地を止めた。
「菊地の云うことはわかる。ただね、よいっちゃんを責めることは僕たち誰も出来ないでしょう。すごいなぁ~とは云えても、責めることはできない」
俺は【流石だなぁ】と思った。俺にこれが云えるだろうか。そう思った。
【このチーフなら、俺の言葉に耳を貸してくれたかもしれない。俺は別に自分のことだけを考えるつもりは無かった。ただ、凡てが俺の考えるリスクのヘッジの通りに進んだ。"各自手配の上"という言葉一つとってもだった。菊地さん、あんた甘いよ。何年やってんだよ。俺なら云えねぇよ。2年生に向かってどうして教えてくれなかったのなんて…… いや待て云えないか?俺。本当に云えないと言い切れるか? ケッタ糞は抱えるよなやっぱり】

 この一件以来、菊地が俺と挨拶以外で言葉を交わすことは無かった。ただこの出来事は瞬く間に社内に広がったようだ。
俺は何かオカシナ空気を感じていた。指名の仕事が増えた。営業からまわる仕事が増えた。まぁそんなものなのだろうなぁと小僧の俺は感じていた。
 あの日から三カ月ほどたってからだろうか。事務所で有薗が俺に声を掛けてきた。
「よいっちゃん、俺、この仕事辞めることにしたヨ」
「なんでですか、辞めてどうするんすか」俺は有薗が好きだった。温かい人間だなぁと思っていた。
「お前のせいだよ(笑) お前のせいでやめるんだよ。あの時、よいっちゃんのお客さんの顔見たあとに自分のお客さんの顔見れなかった。あんなお客さんの顔を俺はこの仕事で見たことがない。だから辞めるんだ。辞めて実家に帰るんだよ」有薗はそういうと俺の肩をポンとひとつはたくと背中を見せた。
「まだいるんでしょ? 辞めるとき教えてくださいね ! !」俺は有薗の背中にそう告げた。それから程なくして、有薗とサブの横田が会社を去った。

あの日から37年が経っている。
未だに昨日のことのようにあの手稲山が思い出される。
もしも今、あの日に戻れたとしたら俺はどんな判断をしたのだろう。
そして俺が菊地だったとしたら、どんな感情を抱いただろう。いや、寧ろ俺は菊地に寄り添えていた。あの時の菊地の言葉に違和感を感じることはなかった。寧ろその言葉が出てくるのはあんただろうと想像に難くなかった。チーフや有薗に対してはスゲーなぁやっぱと感じていた。
しかし、自分がその姿勢をマネできるかどうかは別問題だ。
俺はお客様が笑っている顔、笑ってくれる顔に安心するだけなのである。お客様が憮然とした顔や不安げな顔を見たくない、見られないだけだったのかもしれない。ただ、今、この歳になって云えることは、答えを一つに導く必要もないのだろうということであり、必ずしも社会性と個人の資質のどちらに重きを置くべきかというものではないのだろうということだ。実際にはもっと細かなところにそれぞれの人間にとっての大切なものがあるのかもしれない。それでいいのではないか。個人が集まって社会が成り立つのだ。自分にとって大切なものがみつからないことの方がキツイかもしれぬなぁ。
俺にとってはいまだにお客様の笑顔と命なのだが。
















 

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