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二章 明智光秀のありふれた日常

「あのじいさん、自分が冷遇されてるのは誰かの策略のせいだって、そういう陰謀論みたいことを言い出すくらい老いさらばえたってだけなんだよ。思い通りにいかないことがあったらぜんぶオレや光秀様のせいだって、そういう老人の思いこみなんだ」

那波直治の件で安土に行った際の状況について、光秀様から詳しくきけなかったから斎藤利三にきいてみたら稲葉一鉄の悪口ばかりがこぼれ出る。

ワタシがききたいのはそういう話じゃないんだけどなと思いながら適当にあいづちをうっていると
「那波直治の方から利三に『光秀様のところに移りたい』って相談が来たんだから、それはただ一鉄老人に人望がないってだけでこっちが引き抜いたわけではないからな」と藤田行政が同調し始めた。

光秀様は広間に利三と明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝の四人を呼び集めるといきなり
「信長様を殺すことにした」と告げ、
狼狽する四人に
「詳しいことは秀満と相談してくれ」とだけ言ってさっさと立ち去ってしまった。

四人はまだ、どうやって光秀様を思いとどまらせるかワタシと相談しているつもりでいるのかもしれない。
光秀様がワタシ以外の誰も同意させようとしなかったのは、ワタシに四人を説得しろということなのだろう。
そのためにも、とりあえず先日の安土での話し合いの詳細を確認したいのだけれど、今のところ悪口しかきけていない。

客観的な事実を把握するだけで相当な時間がかかりそうで、そこからさらに四人を説得して納得させるとなるとこれはどえらい重労働になりそうだ。
ため息をつきたくなるのをグッとこらえてもう一度質問してみた。
「話し合いの顔ぶれは、光秀様と利三と信長と一鉄の四人だったのか? 蘭丸もいたのかな?」

「どうだったかな……丹羽長秀がいたのは覚えてるんだが蘭丸は分からん。いたかもしれんがこっちも小姓なんかいちいち気にしてないからな」

話がやっと少しだけ前進するが、利三の記憶に残っていないのは蘭丸が発言しなかったからなのか利三の敵意が稲葉一鉄だけに向いていたからなのか、そのあたりは分からない。

「丹羽長秀は那波直治の件になんにも関係ないだろうに」
溝尾茂朝が不思議そうにつぶやいた言葉に、利三が興奮した様子で説明し始めた。

「信長様がオレに切腹を申しつけたのよ。で、すぐに横から丹羽長秀がとりなして。最初っからそういう猿芝居をするつもりで丹羽長秀を同席させたんだろうな。そうすりゃ一鉄も気が済むだろうって。あのじいさん本当にその通りの単純なやつだからさ、あんな茶番で嬉しそうにニンマリ笑ってやがんの。信長様から切腹っていわれてオレがうろたえてるのがそんなに嬉しいもんかね。オレはいちおうあいつの娘婿だぞ。娘婿が死んだらウソでも悲しそうな顔するもんだろ。あいつは年を寄ってそういう常識すら失ったんだ。信長様もあんなボケかけの老人にそんな演出までして見せなきゃいかんもんかね」

「まぁ、年寄だけど戦場ではけっこう役に立つし、美濃の国衆にはそれなりに影響力もあるから、あんまり軽く扱うわけにもいかんのだろうな」

明智光忠が何気なくつぶやいた言葉に利三が強く反応した。

「それだよ。あのじいさんは光秀様より自分の方が信長様から大事に扱われなきゃ気が済まんのだ。ほんとは那波直治の去就なんてどうでもいいくせに大げさに引き抜きされたって訴え出たりして、信長様からしてもいい迷惑だろ、まったく」
どうしても稲葉一鉄への愚痴になってしまうようなので強引に話をかえてみる。

「利三は一鉄を殺したいようだが、光秀様は信長の方を殺したいそうだ」
四人は互いに顔を見合わせて様子を伺いあうばかりで何も言わない。

少し待ってみると利三がおずおずとつぶやいた。
「信長様って殺したら死ぬのかな?」

四十過ぎの大男がおばけを怖がる幼児みたいなこと言いやがってと思いながら
「あたりまえだろ」と返すが
利三も他の三人も不安げな顔でモジモジしている。

「荒木村重の一族は女子供も老人も皆殺しにされたもんな。ああいう執念深いうえに限度を知らない人を敵に回すのは避けた方がいいと思いんだけど」

溝尾茂朝が小声で絞り出した意見にワタシは冷静に反論した。

「荒木村重は反旗を翻して城に籠ったからああなったんだ。先に殺せばいいんだよ。いくら信長が執念深くても死んだらただの死体なんだから」

「そうは言うが、信長様はこれまで何度も窮地に追い込まれてるんだ。普通ならとっくに死んでるはずなのに絶体絶命の危機を何回でも切り抜ける謎の強運がある。ああいう悪魔と契約でもしたような人間を果たして殺せるものかな。信長様を暗殺しようとして失敗した杉谷善住坊は首をノコギリで引いて殺されたんだぞ。おれたちもどんな報復をされるか分かったもんじゃない。異常者に責め殺されるなんて最悪の死に方だろ」

藤田行政の言葉に三人が深くうなずいた。
ワタシはすぐに反論する。

「だからこそ、あんな異常者に天下なんか取らせちゃいかんだろ。それに光秀様は今川義元や一向門徒みたいなツメの甘いことはしない。光秀様が殺すといえば殺すんだよ。光秀様が出来ないことを言ったことが今まで一度でもあったか?」

四人は無言で考えている。きっと光秀様への信頼と信長への恐怖を天秤にかけているのだろう。

「いやしかし、そういうリスクを冒す理由がないだろ」
溝尾茂朝がさっきよりは自信ありげな口調で意見を述べる。
「光秀様は順調に出世してるし、我々の実入りもよくなってきてるじゃないか。今度の出兵だって秀吉の援軍っていうと秀吉の下につくみたいだけど、戦う前から出雲と石見は明智に与えるって信長様が約束してくれてるんだぞ。毛利家の財政を支えてる石見の銀山を、長く毛利家と戦ってきた秀吉ではなく最後の一押しの援軍に行くだけの明智家に与えようってのは破格の厚遇じゃないか」

「でも近江と丹波の領地は取り上げられるんだ。思い入れのある土地を取り上げられて、縁もゆかりもない行ったことも見たこともない土地を与えると言われてもピンとこないのはたしかだ」

明智光忠が不同意を示したからワタシものっかってみる。

「そうだ。それに信長は石見を与えるとは言ったが石見の銀山を与えるとは言ってない。信長は銭金に執着するところがあるから、すんなり銀山が貰えるとは思えん。秀吉とのバランスを考えても、こっちに二国と銀山を与えるなら秀吉には五国くらい与えないといかんことになるだろ。いくらなんでも信長がそんなに気前いいわけない。秀吉に二国か三国、明智家に銀山を除いた石見と出雲ってくらいが現実的だろう」

「それでも今より石高は多いさ。出雲と石見の二国なら大大名の仲間入りじゃないか」
半農半士というか七農三士くらいの家で育った藤田行政は石高が増えるのが何より嬉しいのだろうが、他の者はそうは考えない。

斎藤利三が不満をこぼす。
「明智家に山陰の西端、秀吉に山陽の西端を与えてそのまま九州に攻め込ませようってことだろうな。使えるだけ使うというか、ずいぶん雑に使ってくれるよなぁとは思うんだ」

利三が信長殺しにこんなに早く賛成してくれるとは意外だなと思っていると、どうやら話に続きがあるらしく一人でまくしたてるように続けた。
「稲葉一鉄とか肥田忠政とかはたいして役にも立たんから、美濃でゆっくり領地を経営してやがる。無能なやつは楽でいいじゃねえか。忙しい思いをしてるオレたちがなんであいつらに陰口たたかれにゃならんのだ。働いたものが対価を得る。働かないものは何も得ないし、能力の低いものには働く機会も与えられない。それだけのことだろうに」

信長殺しに賛成したわけではなくてただ一鉄の悪口をいいたかっただけのようだ。

「まったくだ」
溝尾茂朝が同意を示して話を引き継いだ。
「ああいう手堅く昨日の続きを生きるような生き方しかできないやつらは、自分の意思と才覚で羽ばたいてる人間を見るとイラつくんだろうな。ああいうタイプのやつらは嫉妬が深すぎて、ぜんぜん成功してない相手にさえ嫉妬するんだぞ。自分で勝手に手堅い生き方を選んでるだけで我々のせいで手堅い生き方を強いられてるわけではないのに、勝手に嫉妬して憎まれたんじゃたまったもんじゃない。自分で自分の人生に枷をかけてるだけなのに、誰かに枷をかけられたみたいに不機嫌なんだから不思議な被害者意識だよな」

悪口というのは大半を想像で語るだけのものだが、こっちが言ってる悪口もこっちが言われている悪口も大きく間違えてはいないというかお互いに不思議と核心を突いているものなのだろう。

そんなことを考えていたら、藤田行政も一緒になっていいはじめる。
「織田家の家中で我々が悪く言われるのも、元をたどれば肥田忠政なんだ。あいつはたいして役にも立たないから美濃の領地を安堵してもらってるだけでもありがたいはずなのに、出自がはっきりしてるってこと以外に誇れることがないからだろうな、明智家の連中は全員どこから出てきたのか分からないようなやつらだってバカにしてやがるんだ。そりゃおれは半農の家の出だけど美濃では代々明智家に仕えてきた家だってのにバカにしやがって」

「まったくだ。織田家は実力主義だってのに、出自を誇って何になるっていうんだ」
溝尾茂朝も同調する。

こうなってはなかなか話を戻せそうにない。
なにしろ明智家の面々は本当に出自が怪しいものだから、そこをバカにされるのだけは我慢ならない。
人は本当のことを言われると怒るのだ。

藤田行政が美濃の明智家の領地で育ったのは事実だが、美濃にいた時は戦時以外ほぼ農民だったようだ。
斎藤利三は美濃斎藤家の分家の出だというが、本家からどれくらい遠いのかも分からないくらい枝の枝だ。
光秀様も明智家の血を引いているということになっているが誰にもそれを証明することはできそうもないし、前半生には誰にも語られない長い空白の期間がある。
溝尾茂朝に至っては明智家に代々仕えた家臣の姓を名乗っているが、なぜか姓名が三つもあって何者なのか分からない。
そういうワタシも明智秀満と名乗っているが明智家の血など一滴たりとも引いていない。

お互いに分かっているから、明智家では互いの素性を詮索しない。
だからこそ美濃で我々一人ひとりの出の怪しさをつつかれていると思うとひどく不快になる。

それにしても織田家譜代の家臣に悪口を言われるより美濃出身の者に悪口を言われる方が腹が立つのはなぜだろう。
稲葉や肥田の方も織田家譜代の家臣より美濃にゆかりのある明智の悪口を言いたくなるのはなぜだろう。
人間の憎しみというのは必ずしも最も憎むべき相手に向かわないから不思議なものだ。

「肥田と稲葉はあちこちで我々のことを中傷し続けてるんだ。まったくあいつらの尽きないモチベーションはどっから湧いてくるんだろうな。こっちはあいつらのことなんてぜんぜん相手にもしてないってのに」
バカにしたような口調で利三がいうが、相手にしていないにしてはこちらの悪口もずいぶん執拗だ。

「まぁ、肥田の話は今は関係ないだろう」
我々の中でいちばん出自がまともな明智光忠が言った。

光忠は先代の明智家当主の甥だから嫡流を継いでもおかしくない血筋でもある。
ただ先代の当主が斎藤義龍に攻め滅ぼされて美濃にはもう明智家の領地などないのだから、誰が嫡流かなんてことはどうでもいい。
ただ光忠の存在が、今の明智家が明智家である唯一の根拠なのかもしれない。

そんなことを考えていると光忠が続けて言った。
「それよりもどうやって光秀様に謀反を思いとどまっていただくかだ」なんとなく皆が避けていた『謀反』という言葉にピリっとした緊張が走る。「たしかに信長様は理不尽だし、納得できないことも多い。しかし歴史をひもといても主君を殺して成功を収めた者などいないだろう」

光忠の意見を溝尾茂朝が肯定した。
「我々が主君を殺せば、明智家を討つ大義名分を与えてしまうことになるしな。家中には味方より敵の方が多いんだから、どう考えてもこれは自殺行為なんだ」

光忠は歴史をひもとき、茂朝は実務家の視点から現実的な意見をいう。
どちらももっともな意見だしちっとも間違えていない。
ワタシは少し考えてからゆっくりと反論した。
「家中に味方より敵が多いからこそだ。このまま流れにまかせていたらどうなる? 毛利家との戦いに投入されて、その後は九州での戦いに、そこまで終えたら家康との同盟も必要なくなるから今度は家康と戦うことになる。越後の上杉景勝くらいなら柴田勝家と森長可あたりでどうにかなるだろうが、家康とか関東の北条とかは強敵だから結局は我々が使われるだろう。そこまで酷使されたうえにだ、天下を統一してしまえば信長には我々を優遇する理由がなくなる。まともな主君なら功労者をおろそかに扱ったりはしない。でも信長は違う。あいつは平気で理不尽なことをするやつだ。織田家の家中に明智を排除することに反対する者などいないのだし、誰も信長の理不尽を止めようとはしないだろう。我々は使うだけ使われて用無しになったら捨てられる。いや捨てられるだけならまだマシだ。稲葉や肥田と同様に織田家譜代の家臣にもワタシたちを殺したがるやつは少なくないだろうし、信長にはそれを阻む理由もないだろう。つまりだ、三十日後に生きてる可能性が高いのは信長を殺さない未来だが、十年後に生きてる可能性が高いのは信長を殺す方の未来かもしれないってことだ」

ゆっくり座の反応を見てみるが、みな考えこんでいるだけで賛成にまわる様子はない。
試しに少しつけ加えてみた。
「信長を殺さない未来だと、我々はいつか殺される。稲葉や肥田の望む通りにだ。しかし信長を殺した未来には、我々が稲葉や肥田を殺す可能性も少しはある」

「少しってどれくらいだ?」
利三が即座に反応した。

溝尾茂朝には現実を見る客観性があるし、利三たちも戦の勝ち負けを見込む能力は低くない。
ウソが通じる相手でない以上、ワタシは正直にこたえるしかない。

「可能性は低い。なにしろ周囲は敵ばかりだ。家中でいちばん手強いのは北陸の柴田勝家だ。あれは政治的な手腕は子供同然だが戦は強い。寄騎についてる前田利家、佐久間玄蕃、佐々成政といった顔ぶれもなかなか手強い。それに越後の上杉は家督相続で揉めて衰えたからな。柴田は雪の季節さえ避ければ、後方を前田か佐々に任せて軍勢の大半を動かすこともできるだろう。秀吉は毛利に対峙しているからそう簡単に軍勢を動かすことはできんだろうが、信濃の森長可は美濃に移動して稲葉と合流するだろうな。北から柴田、東から美濃勢、二方向から攻められると苦しいのは間違いない。こっちの味方は今われわが率いている丹波と近江の軍勢一万三千、あとは最大限ゆるく見積もっても寄騎の細川忠興と高山右近、中川清秀、筒井順慶、四国の長宗我部、近江の国衆と紀州の雑賀衆くらいだ。なんとか畿内を固めて近江で北からの攻撃に備えるとしても、美濃は苦しい。美濃で味方になってくれる可能性があるのは……妻木と安藤くらいしか浮かばん。岐阜城の留守居を任されている斎藤利堯を味方にできたら少しは見込みが立つのだがな」

「妻木は明智家の親戚だし光秀様の奥方の一族だから、稲葉や森から敵視されるにきまってるからこっちにつくしかなくなるだろうが……いかんせん勢力が小さすぎる。安藤は信長様に領地を没収された身だからな。旧領回復のチャンスなわけだしこっちにつく可能性が高いが、旧領にどれだけの影響力を残しているのか……あまり期待はできんだろうな」

溝尾茂朝が現実的観測を述べると斎藤利三は希望的観測で返した。

「斎藤利堯と利治の兄弟はなんとかなる。オレとは同族だし、かなり親しくしてる。斎藤利治の娘はオレの息子の嫁だしな。利治は織田信忠様の補佐としてつけられていたが今は病気の療養で美濃の加治田城にいる。あの二人は稲葉や肥田の一味ではないからな。あと揖斐城の堀池半之丞もこっちにつく。あいつもオレと同じ、稲葉一鉄の娘婿だから。あの偏屈老人はことごとく娘婿と険悪になるんだ」

斎藤利堯と利治の兄弟は稲葉一鉄の甥でもあるから、こちらにつく可能性は高くない。
稲葉一鉄もバカではないから岐阜城を押さえている斎藤利堯を敵にまわすようなことはしないだろうしどう考えても分が悪いと思うのだけど、自信満々の利三に何と返していいのか分からない。

「なんとか稲葉と森を切り離すことはできんもんかなぁ」
藤田行政がいった。
おそらく斎藤利堯と斎藤利治を味方にするのは難しいと分かったうえで、あえてその話には触れずに別の方法を話し合おうとしているのだろう。

「難しいだろうな」
明智光忠がこたえる
「京で信長様を殺すなら、蘭丸と坊丸と力丸も一緒に殺すことになるわけだから。森長可の弟を三人も殺して森長可と敵対しないってのは」

「じゃあ蘭丸と坊丸と力丸をなんとか殺さずに捕らえて森長可のところに送り届けてやったらいいんじゃないか。こっちにつかんまでも中立を保つくらいはしてくれるかもしれんぞ」

利三の意見にワタシはあわてて返した。
「そうはいかん。光秀様は信長と蘭丸を殺したがっている」

「なんだそれは。あんな小僧どうでもいいじゃないか。それよりどうやって美濃で優勢に持ちこむかってことの方が重要だろ」

どう説明してよいのかわからないワタシは短く事実だけをいった。
「ことの発端は光秀様が信長と蘭丸を殺したいってことだ。そこは変えられん」

「なぜだ。あんな小童にこだわる意味が分からん」

利三の言葉に溝尾茂朝が反論した。

「私には分からんでもない。私も常々、蘭丸を殺したいと思っていた」

「たしかに、蘭丸が信長様の取次ぎとして力を持ってしまったところから織田家家中の雰囲気がおかしくなった。権力者は側近に取次ぎさせてから謁見するものだって、どこで聞きかじったか知らないけど信長様が急にそういうシステムを取り入れたのがよくなかったんだ」

明智光忠が同意してみせると、溝尾茂朝は愚痴り始めた。

「佐久間信盛が追放されてから畿内の差配は光秀様に任されているがな、実際には光秀様は丹波やら長篠やら越後やらで戦っていたから、行政上の実務を私が代行することも多いんだ。それは信長様も知っていることで何も問題なかったんだが、ツマキ殿が亡くなったくらいから取次ぎの蘭丸が増長しだしてな。私が信長様に面会を求めても『信長様の直臣でない者など取次げぬ』とかいいやがって。些細なことでもいちいち私から光秀様に連絡をして光秀様から信長様に話してもらわねばならなくなった。光秀様は信長様の命令であちこち飛び回ってるのに。蘭丸の嫌がらせでそうなってるってのに、あいつ『明智の部下にはろくなのがいないから仕事が遅い』とか『明智は金を貯めるばかりで使える者を雇い入れないから京の実務が滞っている』とか言いふらしやがって」

「あいつは性悪だからな」
明智光忠が愚痴を重ねる。
「柴田勝家や丹羽長秀の配下とは普通に接するくせに、明智家の者には『陪臣が何の資格で私にものをいうのか』って態度だ。そもそも信長様が悪いんだ。森長可が癇癪を起して信長様の兵を殺した時も『長可らしいな』って笑って済ませてしまって。それで蘭丸のやつ、自分たちは何をしても許されると勘違いしやがった。秀吉は蘭丸の機嫌を取って自分だけ無難に切り抜けようとするが、ああいう態度がよけいに蘭丸をつけあがらせるんだ」

職務上かかわりが多く直接に様々な迷惑をこうむっている溝尾茂朝が蘭丸を憎むのは分かる。
なにしろ彼が一番の被害者だ。
しかし誰かが誰かの悪口を言い始めると必ずそこに乗っかるものがいる。
明智光忠は蘭丸と直に接した機会などそんなにないはずなのに、まるで一番の被害者みたいな調子で愚痴っている。
きっとそこには、美濃ではそれほど有力でなかった森一族が信長の寵愛を受けていることへの嫉妬があるのだろう。
嫉妬を正義と勘違いしてよく知りもしない相手の悪口をいう。
それは美濃で肥田や稲葉や森長可らがやっているのと同じことなのだから、まったくもってお互い様なのだろう。
むこうが悪いんだからこっちが悪く言うのは当然だとか、こっちは陰口を叩かれている側なんだからこっちにも陰口をいう資格があるとか、お互いに自分たちが被害者のつもりでそんなことを思っているから際限なく憎しみあう。

「たかが蘭丸ごときのためにこんな危険を冒すのか」
藤田行政がつぶやいた。

「おまえや利三が抱いてる稲葉や肥田への憎しみも、茂朝や光忠からしたら『たかが肥田ごとき』って話なんだけどな」
ワタシの言葉に誰も反応しない。

目の前にいる相手に直で本当のことをいうのはルールに反するから誰も反応してくれないのだろうか。

「とにかく、信長と蘭丸は殺す。その後は稲葉と肥田を殺せるように手を尽くす。それしかやりようがない」
ワタシの言葉に誰も反応しない。

今度のは誰にも反論の意思がないからだと決めつけて、強引に話を終えた。


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