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五章 明智光秀のありふれた日常

「猜疑心のカタマリみたいな男を油断させるとは、光秀のやつは何年もかけてよほど大量のゴマをすって信長をすっかり騙しきったのだな。ウソで塗り固めたような忠誠心を幾重にもウソで塗り固めて本物だと信じさせたのだろう。あいつらしいやり口だ」

いきなりケンカ腰ではあるものの細川藤孝のいうことは大きく間違えていない。
むしろ一面の真理をついているというべきだろう。
しかしワタシはあえて別の一面から話を始めてみた。

「天下統一に目前まで迫って信長は増長したのです。皆が自分に忠誠を誓いたがるのが当然だと思いあがったから疑うべきを疑わなかったのでしょう。そうなったのもお気に入りの蘭丸を取次ぎにして、家臣との距離が広がってしまったからです。側近の小姓たちだけに囲まれて、信長はすっかり裸の王様になってしまった。蘭丸のような性悪の美少年に魅入られてしまったのが運の尽きだったのでしょう」

ワタシの言葉に藤孝はフンと鼻で息を吐くだけでこたえない。
織田家に仕えるみんなが嫌いな蘭丸の話をして一緒に蘭丸の悪口をいおうと思ったのだが乗ってこない。

悪口というのは便利なもので、一緒に誰かの悪口をいうと仲間意識や連帯意識が芽生える。
誰からも嫌われる嫌われ者というのは組織内の協調に欠かせない存在なのだが、どうやら藤孝には最初からワタシとうちとけるつもりがないらしい。
仕方がないので切り口を変えてみた。

「信長は乱世を勝ち抜く特異なバイタリティーの持ち主ではありましたが、天下を統べて世を治めるような器は持っていませんでした。茶坊主を追いかけまわして斬り殺すような男が天下の主になってしまってよいのかと、内心では皆が危惧していたはずです」

「だから光秀がみんなのために殺してやったと言いたいのか? 聞いてるこっちが恥ずかしくなるような言い訳だの」

冷ややかな目で藤孝が返した。
これではとりつく島もない。
とりあえずは藤孝に言いたいように言わせて良い気分にさせてやりたいのだが、なかなか自分から話してくれない。

「藤孝どのは、この先どのような秩序を築いていくべきだとお考えですか?」

「さあな」

こちらから質問して藤孝に語らせようとしても乗ってこない。
そもそもこの人にはそういう大きな展望を描くような能力がないのかもしれない。
相手のレベルに合わせた質問をしてやらねばならない。

「光秀様は信長を討たねばならないと考えただけで、天下を我がものにしたいわけではないのです。藤孝どのは誰が天下の主にふさわしいとお考えですか?」

「光秀でないのは間違いないな。もし光秀が本気で言っているなら意見が一致したといえるが、まぁ本音ではないだろう」

まだ何か言い足りなさそうな様子がみてとれた。
どう返してやったら気持ちよく語りだすのか考えているうちに藤孝が勝手にしゃべりだした。

「それなりに出自がまともな者がいうならそういう『義憤』みたいな話も説得力を持つがな、明智の連中のような海の者とも山の者ともつかんやつらが言っても真実味がない。その場しのぎの言い訳だとしか思われんだろうし、実際にそうなのだ。光秀みたいな野心だけで生きてきたような男が野心はないと言って誰が騙されるというのか」

どうやら藤孝にとっては光秀様より自分の方が血筋が良いということが重要なようだ。
たしかに藤孝が光秀様に勝っているポイントはそれくらいしかないだろう。

「だからこそ、光秀様は藤孝どのにお味方いただきたいのでしょう。藤孝どのが『義憤』と言ってくだされば説得力が違うでしょうから」

「おまえバカにしてやがるな」

バカにするつもりで言ったわけではないが、言葉の端に本心がこぼれ出てしまったかもしれない。
この男は役には立たないがバカではないし、根拠の薄いプライドにしがみついて生きるタイプの人ほどこういう感覚に鋭いのだろう。
言い訳すればよけい深みにハマりそうな気配を感じたのでとりあわずに話を進める。

「光秀様に野心がないと証明するためにはどうすれば良いか、知恵を貸していただけませんか?」

「それは無理というものだ。人の信用というのはその人が生きてきた人生そのものだ。これまでの光秀の生き様を世間が知る以上、誰ひとり信用などせんだろうさ」

自分の主観的な意見を世間の声だと言い張るのは独善的な人にありがちな特徴だ。
光秀様が言った通り、独善的な藤孝が一方的に光秀様に憎しみを抱いているという構図で間違いなさそうだ。
それならば、藤孝が光秀様の何をどう憎んでいるのかをひもとくことができれば融和の糸口をつかめるかもしれない。

「ワタシはずっと、光秀様と藤孝どのは信頼しあった盟友なのだと思っていました。ワタシの知らないお二人の関係について聞かせていただけませんか?」

「ふん。まぁ光秀は自分に都合の悪い話はせんだろうし、おまえがきいたことがないというのも道理か」

やっと藤孝が気持ちよく語りだす展開に持ち込めそうだ。
ワタシは黙って小さくうなずいてみせた。

「還俗した足利義昭公を将軍にするべく当時幕臣だった我々が諸国を巡っていたのは知っているな。近江の六角にも若狭の武田にも義昭公を将軍にするほどの力はなく、我々は越前の朝倉を頼ったのだ。当時の朝倉は勢力があったがな、当主の朝倉義景はいかんせん田舎者だった。片田舎でじわじわ勢力を伸ばすくらいがやつの器の限界で、都に攻めあがって天下のナンバー2に登りつめるなんてことは想像もつかなかったのだろう。『いずれ必ず上洛しましょう』というばかりでいつまでたっても動き出さない。光秀と出会ったのは越前に移って一年も過ぎた頃だったな。なじみになった鍼灸師に紹介されてな、聞けば越前で貧乏人相手に医者のマネごとをしているという。明智と名乗ったのが滑稽でな。明智といえば美濃の土岐源氏の一族だ、とうぜん美濃に住んでいる。本人は遠縁の親戚だと言って譲らなかったが、明智の一族どころか武士であることすら疑わしい。で、何の用かときいたら義昭公に仕えたいときた。いくら幕府が落ち目とはいえ、うす汚れたエセ侍が義昭公に仕えられるわけないだろう。ただその言葉でピンときたんだ。この男は明智家は将軍の奉公衆に取りたてられる家柄だとどこかで聞きかじって、そういえば死んだ婆さんがうちは土岐源氏の明智の血筋だと言っていたなとか、そんな嘘か誠か分からん話を根拠に今の義昭公になら仕えることができるかもしれんと考えたのだろう、と。『いくら明智の血筋でも嫡流に近いものでなければ義昭公の側近にはなれん』と言ったら随分と落胆していてな。光秀は六つ年上だから、あの当時ですでに三十九か四十くらいだ。みすぼらしい格好をしていてな。頭もすっかり禿げ上がって。若い者が仕官を志すならまだ見ていられるが、ずっと仕官を志すだけで何者でもないまま中年になって禿げ上がって」藤孝は小さくウフフと笑ってから続ける。「まったくミジメなものだったよ。世の中にはこんなミジメなやつもいるんだなぁと思っていたら『それではあなたの家来にしてください』というんだ。『ろくも手当もいりません』というから、無給でも堂々と武士と名乗れるだけで嬉しいのだろうなと思って家来にしてやった」

「なるほど、そういういきさつがあったのですね」

要は藤孝の中では光秀様は取るに足らない存在で、かつてそうだったのだから今もそうであるべきだという気持ちなのだろう。
光秀様が戦場で名を挙げても、藤孝は光秀様への評価を更新したくなかったらしい。

藤孝の光秀評に変化を与えるのは難しそうなので、損得の話に切り替えてみた。

「本当に、光秀様には天下を我がものにするつもりがないのです。ここに光秀様からの書状がありますから見てください」

こういうこともあるかと『状況が落ち着いたら光秀は引退して天下は娘婿の忠興に任せる』と一筆書いてもらったのだ。
受け取った書状を一瞥して藤孝がいう。

「もし忠興を征夷大将軍にしたとしてもだ、実際の兵権を光秀が握っていれば傀儡かいらいにすぎない。こんなものは息子を操り人形として差し出せという意味でしかない」

光秀様が自分より劣る存在であるべきだと考えているだけでなく、どうやら根本的に光秀様のことを信用していないらしい。

「出が卑しいからというだけではないようですが……なぜそこまで、光秀様が信頼に値しない男だと思うのです?」

いいかげん藤孝の機嫌を取るのに疲れたワタシは率直な疑問をぶつけた。

「だから光秀のこれまでの人生すべてがそう思わせるというのだ」

ワタシが反応を示さずに待つと藤孝は一方的にしゃべり続ける。

「朝倉義景が煮え切らんものだから、越前に居ても始まらんとなってな。当時、日の出の勢いだった信長に連絡をとったのだ。義昭様が正使に任命したのはこの藤孝だった、それなのに。事前の折衝に光秀をやったのが間違いだった。あの野郎、義妹のツマキ殿を通して信長に取り入りやがって、信長は光秀のやつを正使として扱いやがったんだ。あいつ、義妹が信長のとこで奥を取り仕切ってるって誰にも言わずに黙ってやがったんだぞ」

義昭公と信長の関係を築くために藤孝が折衝役を仰せつかったのに、折衝の折衝を光秀様にやらせようという発想が間違えている。
信長にはそんなまどろっこしい手続きにつきあう義理などないのだから。

しかしここは話の腰を折らない方がよさそうに思えてワタシは黙って聞き役に徹した。

「松永久秀が三好長慶に仕えながら足利義輝公の御供衆にもなっていた時期があってな。三好と将軍家の間で連絡と調整をして、両者の関係を良好に保つのにそれなりに効果があったんだ。それでそれと同じ役目をこの藤孝が果たすようにと義昭様から仰せつかっていたのに、光秀が勝手に織田家と将軍家の両方に仕えて間に入ることにしてしまって。光秀は将軍家に仕えてなどおらんのに、だ。信長の協力を取りつけたい義昭公の足元を見透かして光秀が描いた絵だったのだろうが、さすがに悪いと思ったのか光秀から信長に話を通して明智光秀と細川藤孝の二人が織田家と将軍家の両方に仕えるってことになったがな。光秀のやつは細川家の家来をやめるなんて話もないまま信長と将軍に仕えて、家臣のはずなのに勝手に同僚になりやがった」

藤孝は苦々しそうにため息をついてから続ける。

「だいぶ後になって、一度だけ直接苦情を言ってやったことがあるがな。光秀のやつ『それは仕方がないでしょう。あの時は信長様が私を気に入って、おまえがやれと言ったのですから私がやるしかなかったのです。実際その通りにしてうまく義昭公を将軍にすることができたのですから』だとさ」

初めて藤孝の言い分に納得してしまう。
そりゃ誰だって自分の人生を最優先にするのは当たり前だが、我田引水しておいて『仕方ない』って言い方はない。

きっと光秀様は心の奥で自分と藤孝とでは数段の能力差があるのだから信長が自分を選ぶのは当然だと思っていて、つい本心が言葉の端にこぼれ出てしまったのだろう。
そういう感覚だけがやたら鋭い藤孝に対してあまりに不用意な物言いというしかない。

「藤孝どののご言い分はもっともですが……光秀様は出世の階段を登りながら常に藤孝どののことを考えていて、一緒に階段を登れるようにと配慮してきたはずです」

ワタシが控え目に反論すると藤孝が早口でまくしたてた。

「だからそうやって上から手を差し伸べられる度にこちらは吐き気がするほど不快だったというのだ。なぜ分からん。こちらを踏み台にしておいて、後から恩着せがましく手を差し伸べられて喜ぶものなどおるわけがなかろう。あいつはそういうことも分かったうえで、常に自分の一段下に置くようにしてこちらをなぶっていたのだ。そういう意識がなかったなどとは言わせんぞ。いまも光秀本人がここに来ないのが何よりの証拠。こちらがこころよく思っていない理由に心当たりがあるから来れないのだろうが」

謀反の首謀者が討ち取られる危険を冒して乗りこんでくるわけがないのだが、反論するよりも具体的な利益を示してみた方がよさそうだ。

「一段下と言われますが、仮に光秀様が天下を獲ったなら、藤孝どのが天下のナンバー2となるのです。忠興どのが傀儡になるとしても操るのが光秀様一人でなく光秀様と藤孝どのの二人であれば忠興どのも嫌な気はしないでしょう」

「なにを抜け抜けと!」
藤孝が怒鳴った。
「光秀が天下を獲ったならおまえがナンバー2になるつもりだろうが。どの口が言うのか! 守る気のない約束を平気で口にしやがって」

明智家を生き延びさせるのに必死で考えもしなかったが、たしかに光秀様が天下を獲ったならナンバー2はこのワタシなのだろう。
我ながら考えなしなことを言ったものだ。
下手に言い訳してもどうにもならないだろうから、ここはあえて押し込んでみた。

「このさいワタシの話などはどうでもいいでしょう。それよりも現実を見て下さい。光秀様が敗れれば光秀様を討った誰かが天下を獲ります。その場合、藤孝どののポジションは今までと変わりありません。十万石そこそこの中規模大名です。政権中枢から数えればだいぶ下、その他大勢の中の一人に過ぎません。しかし今、光秀様に恩を売れば上から数えて何番目かに入ることになります。光秀様が引退しないとしても上から何番目かまで登れるのですし、光秀様が引退すれば藤孝どのが実権を握る可能性だってあるのですから、悪い話ではないでしょう」

藤孝は顔を真っ赤にして押し殺すような声でいった。

「この藤孝を、細川和泉上守護家の惣領たる藤孝を、その他大勢の一人に過ぎんだと……どこの馬の骨ともつかんおまえのような下賤の輩が」

どうやらワタシは踏んではならない何かを踏んだらしかった。
全く違う価値観で生きている人の心のどこに踏んではならない柔らかい部分があるかなんて分からないし避けようがない。

ただ出自の話をされるとワタシには反論することができない。
黙っていると藤孝が早口でなじってきた。

「おまえなんかはあれだろう。明智の親戚筋の三宅家の養子になって明智の一門だってことにして、光秀から出戻りの娘をもらって明智秀満などと名乗っているが、明智の血などまるっきり入っておらんだろうが。明智の血筋かどうか怪しい光秀の娘をもらっただけで、どこかの馬の骨が明智と名乗って世間が納得すると思うか。みな心の奥では笑っているのだ。おまえがどこぞの塗師の子だと知れ渡っているというのに、本人だけが世間を騙せていると思いこんでいるのだから片腹痛いわ」

藤孝は最大限ワタシを侮辱したつもりなのだろうが、ワタシの正体は塗師の子ではなくみなしごだ。
物心ついた時には野良犬のように河原に住みついていた。

どうやら世間で言われるワタシへの悪口の中で最も藤孝の気に入った塗師の子説を信じているのだろう。
人は自分の信じたい話だけを信じるのだ。

不思議なものでこんな言われ方をしても腹が立たない。
自分のプライドを守るために他人を貶めたいだけの動機から発せられる言葉は良くも悪くも心に響かないのだろう。
光秀様が藤孝のことをあんまり相手にしていなかった気持ちが分かるような気がした。

「藤孝どのがワタシごときの悪口に加担してくださっているとは、むしろ光栄です」

藤孝は鬼の首でも取ったような嬉しそうな顔で笑ってからいった。

「バカなことを、まともな出自のものが悪口など言うわけがないだろう。おまえたちは普段から人の悪口ばっかり言っているから分からんのだろうが、出自がまともできちんと育てられた人間は悪口など言わんのだ」

「それは藤孝どのが、ご自分が悪口を言っておられるのに気づいてないだけかと」

藤孝は驚いたような表情で小さく笑ってから返した。

「なんだそれは。いったい何を根拠にこの藤孝が悪口を言っているといえるのか?」

「たった今、『おまえたちは人の悪口ばっかり言っているんだろう』と悪口を言われましたから」

「それは悪口ではなく事実だ」

「悪口というのは、言う側は事実のつもりで言うものです」

「ばからしい。出が卑しい者はこじつけが過ぎるからかなわん」

なぜ出が卑しい者はこじつけるといえるのか、その論理的飛躍を詰めたい気もするがそういえばワタシは喧嘩をふっかけに来たのではなく協力を取りつけにきたのだと思い出した。

藤孝を味方にするためには、どうしても藤孝に考えを改めてもらうしかない。
難しいだろうが他に手段もなさそうだし、なんとか光秀様に信頼を置いてもらえるように藤孝の記憶を塗り替えていくしかない。

「たしか義昭公が信長との対決を決意された時、義昭公を見限って信長についた藤孝どのに実兄の三淵藤英どのが激怒されたときいておりますが」

急に話を変えたワタシに怪訝そうにしつつも藤孝が言葉を返した。

「そういうこともあったがな。結局は兄上も戦わずに降伏したのだ。それで兄上が信長に仕えられるように奔走してやった。むしろ感謝されていただろう」

「光秀様は信長に気に入られて出世しましたが、藤孝どのへの恩を忘れずに藤孝どのが信長に取りたてられるように常に手を尽くしていました。藤孝どのが兄上にされたのと光秀様が藤孝どのにしたのは同じことです。『光秀ごときに上から手を差し伸べられるのは我慢ならん』と思われたのかもしれませんが、弟に手を差し伸べられた藤英どのはそういう考え方はしなかったのではないでしょうか」

「弟に手を差し伸べられるのと、越前で拾ったハゲに手を差し伸べられるのとはぜんぜん違うだろうが。それに義昭公と信長の両方に仕えていたのだから、その二人が争うならどちらにつくか決めるしかない。ただ選んだだけで裏切ってはいない。光秀のやつは家臣にしてやったのに出し抜いて裏切りやがったんだ。まるっきり話の質が違うだろう」

どうやらこの人は自分の非を認めることがない。
それどころか心の底から、自分に非などあるわけがないと思っているのだ。

さっきから変なタイミングで笑うのも『この善人の藤孝によこしまな気持ちなどあるわけがないだろう』と、本気でそう信じているからワタシの指摘が的外れにしか思えずに笑っているのだろう。
これではどうにも説得しようがない。

ワタシが黙っていると藤孝が思い出したように話を続けた。

「それなのに翌年、信長が急に兄上の所領を没収して兄上の身柄を光秀に預けやがった。あの変人は何を言いだすか分かったもんじゃないから、何とかうまく収めてくれと光秀に頼んだのだ。それなのにあいつがなにもしないものだから、兄上は本当に切腹させられてしまった。こちらの頼みを聞き流しておいて、よく援軍など頼めたものだ。まったくどこまでも人の神経を逆なでする」

どうやら藤孝は心の奥で、自分がかつての主君と兄を束にして裏切ったという事実を『最終的に兄が切腹させられたのは光秀のせいだ』という話にとっくにすり替えてしまっているらしい。
しかもその強引なすり替えが藤孝の中では矛盾なく納まっているのだ。

誰だって自分を守るために自分に都合の良いように記憶を塗り替えながら生きているものだが、世の中には時々記憶を塗り替える力が異常に強い者がいる。

光秀様への評価を越前で出会った時の評価で固定し、評価を覆すような出来事はすべて記憶の隅に追いやってしまう。
同時に自らの欠陥や欠点を示すような出来事はすべて記憶を塗り替えて、とにかく自分は常に正しいと信じこむ。
独善的な上に記憶を好きなだけ塗り替えてしまう人間に何を言ってもそりゃ無駄だ。

どうやらこれは光秀様の言った通り、どうしようもないのだ。藤孝の心のおりはワタシがどうこう言ったくらいで落とせる性質のものではないらしい。

藤孝を味方に引き入れるのが完全に不可能だと悟ったワタシは、無意味と知りつつ我慢していた本音を吐き出してしまう。

「光秀様があなたを踏み台にしたのは事実でしょうが、そこから先の出世は明智家の皆が実力で勝ち取ったのです。信長からの命令で細川家が単独で丹後に進攻したおり、一色氏に反撃され敗れた藤孝どのを光秀様が助けたではないですか。それでなんとか丹後の南部を切り取ったから今の細川家があるのでしょう。越前で光秀様と出会った頃、あなたは義昭公の直臣ではあったが所領などなかった。それが今では十万石をこえる大名だ。光秀様は十分に恩を返しているでしょう。それなのにあなたは自らの記憶を塗り替えるばかりで。明智家はたしかに出自の怪しい者の集まりですが、あなたの邪魔をしたことなどない。むしろあなたの手助けをしてきたではありませんか」

藤孝は鼻で笑ってから冷ややかにいった。

「堺にいる織田信孝と丹羽長秀の軍勢は、信長が死んでから兵の逃亡が後をたたんというではないか。実力者揃いの明智の敵ではないだろう。ここで静かに見守っていてやるから、存分にその実力とやらを示して死ぬがいい」

これくらいの皮肉でワタシをやりこめたつもりだろうか。
その気になれば瞬殺できると思えばやり返す必要もない。
それにここでやり返しても意味がない。
藤孝はやりこめられたらムキになってワタシを殺すだろう。
こんなアホと刺し違えて人生を終えるなんてバカらしい。
こんな男を相手に勝とうが負けようが本当にどうでもいい。
ワタシは安全に帰るために、藤孝にやりこめられて悔しがっているふりをしてみせた。


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