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三章 明智光秀のありふれた日常

枕元に気配を感じる。
とても近い。
おそらくしばらく前からそこにいたのだろう。
悪い夢をみていたせいでちっとも気づかなかった。
今さら跳ね起きても意味がないから、あえてゆっくりと起き上がる。

落ち着き払った声で背後の何者かに
「何の用だ?」と言おうとするが、
寝起きの最初の発声をコントロールし損ねてやけに低いくぐもった声になってしまった。

「いや、用というほどのことでもないのだがな」
光秀様がこたえた。

なぜワタシの枕元に光秀様がいるのか。
新鮮な驚きを包み隠して
「ずっとそこに居たのですか?」と言いながら後ろに向き直して座った。

空は白み始めているようだが室内はまだ薄暗く、光秀様の表情はよく見えない。

「秀満も、うなされることがあるんだね」

「昔よく見た夢です。ずいぶん久しぶりに……それより何か話があるのですよね」

「ああ、でもその話はもういいんだ」

勝手に人の寝所にあがりこんで枕元に座って目を覚ましたら話はないって、いったいこの人はどうしたんだ。

「まさかここで考えごとしてたんですか?」

「よく分かるね。まったく秀満はなんでもお見通しだな」

光秀様はそういうが、ワタシには光秀様がどういうつもりでこんな時間にやってきたのかもワタシの枕元で何を考えこんでいたのかもさっぱり見当がつかない。

「昨日の話だけどね。やっぱりやめようか」

「ワタシだけならまだしも、五人の重臣全員に話したんですから、今さら後戻りはできませんよ」

光秀様は小さくうふふと笑いながら
「分かってる。言ってみただけだ」とこたえた。

そのまま少し待ってみるが本当に話はないようだった。
明け方に押しかけて来て何も言わずに座っているとは、わが主ながらなんとも不気味なことだ。

しかたがないから寝起きの頭をひねって話題を探す。
「那波直治の件で、信長は利三に切腹を命じたそうですね。稲葉がどう言って訴えたのか知りませんけど、こっちの言い分も聞かずに切腹を申しつけるとは、ずいぶん一方的ですよね」

光秀様はしばらくボンヤリしてから思い出したようにこたえた。

「いや、あれは違うんだ。稲葉が『明智は私のところから斎藤利三を引き抜いた。あの時は我慢したが、今度はその利三が那波直治をそそのかしてまた引き抜いた。こう度々では我慢ならん』と言ってな。そしたら利三が『三好長慶様に仕えていた時は松山新介の寄騎だったが松山新介に仕えてたわけではないし、信長様に仕えるようになってからも稲葉一鉄の寄騎だっただけで稲葉一鉄に仕えていたわけじゃない。勝手に家来と勘違いした一鉄がおかしい』って言ったんだ。そしたら信長様が『うぬはワシにまで三好のルールに従えと言っておるのか』って怒り出して。それでも利三が空気を読まずに『三好家より織田家が、より先進的であるべきだと言っているだけです』なんて言うものだから信長様が激高して切腹しろってなったんだ。それで丹羽長秀が『いやいやただの言葉のアヤですから、生き死にの話ではないでしょうから』って、もっともなこと言うみたいな口調で中身のないこといってうやむやにしてくれたんだけどな。なぜあの場に丹羽長秀がいたのかは知らんが、もしいなかったら利三は本当に命がなかっただろうな」

「そうだったんですか、なんか利三からきいた話とずいぶん違いますね」

「そういうものだろ」
光秀様は楽しそうに微笑みながらいった。
「きっと稲葉は稲葉で、どっかで誰かにぜんぜん違う話をきかせているのさ」

光秀様は少し黙ってから小さくため息をつく。
今度は少しも微笑まずにいった。

「まったく身に覚えのない誹謗中傷ってあるだろ。そういうのも、私の行動を誰かがぜんぜん違う受け止め方をしてどこかで誰かにぜんぜん違う話をきかせてるだけなんだ。もともと嫉妬してたりもともと憎んでたりすると、最初からそういう目で見るからほんとうにぜんぜん違って見えるんだろうな。まぁ能力のないやつに嫉妬されるのは避けようのないことだし、そういうのは気にしてなかったし相手にしないでいいと思ってたんだ。でもそういうしょうもない話を意外とみんな信じるんだよ。讒言で佐久間父子を追放させた人だって前提から私の人物像を組み上げていったりな。何が客観的な事実かなんて考えようともしないんだ。私からすると冗談だろって思うんだけど、実際そういうやつは少なくない。バカバカしいからほったらかしてたら、そうやっていろいろ事実みたいに定着してしまって、私のことをどうしようもない卑怯者だと信じてやがるんだ。世の中には周囲の顔色ばっかり気にして生きてるくだらないやつらがうんざりするほどたくさんいて、そういうやつはみんなから嫌われてる者には何をしてもいいと思いこんでやがるから。そんなやつらとの関係をどうやって改善するかなんてこっちで考えてやるのもバカらしくなってしまってな」

陰口を言われても気にしてなかったと自ら言うのだからきっとずっと気にしていたのだろう。

「肥田忠政なんて相手にしてないって気持ちが態度に出てるから、それが肥田からしたらよけいに腹が立つんじゃないですか」

「そういわれてもな、相手にしてないやつに何をされても気にならんだろう。気にならんものを気になっているふりなんてできるものじゃないぞ。かかわりがあるけど気にならない人など無数にいるのだし」

「たしかにそれはそうかもしれません。反論も訂正もせずにほったらかしたのがよくなかったってことですかねぇ」

ワタシの意見に光秀様は少し考えてからこたえた。

「むこうはこっちの悪口を言ってて、こっちはなんとも思ってなくて悪口すら言ってないなら、すでに勝負はついてるというか言ってる側がミジメなだけだろ。だからあえて相手にする理由が見つからなかったんだ」

「それで、ほったらかしにしてたら実際に光秀様の評判を落とされたわけでしょ」

「私はそんなものを信じる者などいないと思っていたんだ」

結果的に信じる者はいたわけで結局その対応が間違えていたのですよね、と詰めてもしかたないと気づいたワタシは小さくうなずいてからきいてみた。

「いったい肥田にそこまで憎まれた原因は何だったのです?」

「心当たりがないしどうでもいい」

光秀様のこたえに納得できないので思ったままを言ってみる。

「別に肥田をどうこうしたいわけではないとしても、いったい何が理由でそこまで憎んでいるのかだけでもきいてみたい気持ちはあるでしょう。これだけ長くにわたってあちこちで光秀様へのネガティブキャンペーンを繰り広げるモチベーションが果たしてどこから湧いてきたのか。嫌味でも皮肉でもなく単純に疑問になりますけどね」

「きいても無駄なんだよ」
光秀様はゆっくりと説明してくれる。
「妬み嫉みかコンプレックスの裏返しか一方的な逆恨みか。人が人を嫌いになるのはだいたいがそういう醜い感情からなんだがな。でも人間ってのはその時の感情をそのまま保存しようとはしないんだ。相手の側に嫌われる理由を探して、あいつが悪くてこっちは被害者なんだって話をすり替えていく。もともと好きとか嫌いとかって感情にまっとうな理由も理屈もないんだが、自分は善人だって信じていたいやつらはそれを認めない。何かを嫌うって行為に罪悪感を感じるものだから、あいつには嫌われるだけの理由があるんだって根拠を捏造せずにはいられないんだ。そのために後から嫌いな理由を探すのさ。みんなで誰かの悪口を言うってのは、みんなで一緒に後づけの『嫌いな理由』を探してるってことだ。悪口ってのはそのための共同作業でもあるんだよ。明らかに後づけの理由なのに、元からそうだったんだって記憶まで改竄して、とにかく嫌われる側が悪いのであって自分は善良な被害者だから嫌うしかないんだって思いこみやがる。そうやって更新されて建て増しされた理由の方ばっかりを記憶していて、最初に嫌いになったきっかけなんか本人はとっくに忘れちまってるのさ。肥田に私を嫌う理由を尋ねればいろいろとこたえるのだろうが、そんなものは最近あいつが気に入ってる悪口のダイジェストでしかない。いつ何をきっかけに嫌いになったかなんてこと肥田本人も分かってないんだから。私が言っているのはつまりそういうことだ。肥田が私を嫌うのに説明しうるほどの理由などないし、人間の感情にいちいちもっともな理屈なんてあるわけないんだ」

「好きなものには好きな理由なんて探さなくても平気なのに、嫌いなものには嫌いな理由を探さずにはいられない。そういうところはたしかに誰にでもあるのかもしれませんね」

「何かを憎む時の人の心の動きってのも不可思議なものだしな。一番憎い相手に勝ち目がないって時には、その脇にいる人間をかわりに憎んだりもするだろ。しかも憎む側にはそういう自覚がなくて、自分がなんでそいつを憎んでいるか理解してないんだ。最初から理解してないことを人に説明できるわけないからな」

「信長を恐れていて信長を憎む勇気すらないやつらが信長の元で勢いよく出世していた光秀様を代わりに憎んだと。そう考えると身に覚えのない誹謗中傷にさんざん苦しめられてきたのも合点がいきますね。ただそれだと、我々が蘭丸を憎むのも同じメカニズムなんじゃないかって気がしないでもないですけど」

光秀様はピタリと動きを止めて少し考えてからつぶやいた。

「あいつは実際に憎たらしい」

肥田や稲葉から見れば明智光秀も実際に憎たらしいのだろう。
それに憎たらしい部分くらい、探せば誰にでもある。
ワタシが黙っていると光秀様が話を続ける。

「ポジティブなやつってのは自分自身のズルさとか罪深さとかに気づかずに生きてやがるから、自分の側にも原因があるなとか、それを言ったらお互い様だなとか、そういう考え方ができないんだ。だから無条件に自分と自分の属している側が正しい、一方的にむこうが悪いって無邪気に信じこんでしまう。そういう全面的に被害者のつもりでいるやつとは、お互いに歩み寄るってことができないからどうしようもない。肥田や稲葉と腹を割って話すような場を持ったとしても、あいつらは歩み寄れないんだからどうにもならない」

たしかにそれは光秀様の言う通りかもしれないが、放置したのはやはりよくなかった。
肥田との和解を目指す必要はなかったとしても、肥田の話を真に受けてしまった者たちに訂正してまわるくらいのことはやはりしておくべきだったのだ。

肥田ごときに振り回されるのは不快だし相手にするのもバカバカしいと思って無視してきた光秀様の対応がまずかったのだろう。
まったく身に覚えのない中傷を伝え聞くと、なぜそんな根も葉もないことを言われねばならないのかと腹も立つし相手にしたくなくなる気持ちも分からないではない。
しかし悪口を言う側がこちらにムカついているという事実には根も葉もあるわけだし、なによりその話を聞いて納得した人たちからもそう見えてしまっているのだ。

しかし今さらそんなことを言っても手遅れだろう。
そろそろ話を終えたいワタシは少しでもなぐさめになりそうなことをいってみた。

「利三や茂朝たちとも言ってたのですが、稲葉や肥田からみると明智の者たちは自分の腕と才覚で自由に羽ばたいているように見えて、それが羨ましくて憎たらしいのかもしれませんね」

「こっちは一点に集中すると決めた時点で他を諦めるてるだけなんだがな。ぜんぶ欲しがるような生き方をしていると身動きとれなくなるに決まっているのだから、ぜんぶ欲しがるやつが大して成功しないのなんてあたりまえなんだけどな」

「まったくです」

それだけいってワタシが黙ると静寂が訪れる。
かすかに小鳥のさえずりがきこえるくらいの静寂だ。

薄暗い部屋で向かい合ったまま黙っていると光秀様がいいにくそうにいった。

「秀満のみる悪夢は身に覚えのない夢なのかな。それともやはり昔ほんとうにあった出来事なのか」

「ほんとうにあった出来事の方です」

「そうか」
光秀様は床に視線を落としていった。
「私もそうだ」

ほんとうにあった出来事にうなされるということは、お互いに過酷な人生を生きてきたということだ。
さらにそう短くない沈黙を挟んで光秀様がいった。 

「私の場合はやられたことではなくやってしまったことなんだ」

光秀様の告白に短く返した。

「ワタシもです」

「しかも悪事への後悔ということですらない。悪事を働いた時の追い詰められた心境に苦しめられるんだ。人ってのはどこまでも被害者ぶるものだよな」

ワタシは大きくうなずいた。


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