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ゲームの存在意義を考える

例えば、「スケボー禁止」と書かれている場所で、相変わらずスケボーをやっている人が居る問題について。

彼らのスケボーをやりたいという欲求が社会的協調性を上回ってしまったということよりも、考えるべきはその欲求を合法的に解消できるように行政側が整備を進める ── ゴルフ場みたいなキレイで安全な有料施設をもっと増やすとか、そっちの方向性で解決策を練って、市民の欲求を満たすための「方法の不足」を減らしていくことが、メタ思考の1つになるのかなぁ、と思っています。


さて、ここで1つの “仮定” を提示するのですが、それは「1人あたりの《欲求の総量》が全員等しい」というもの。


例えば、僕はコーヒーが好きで、家では豆をハンドミルでくところからやっています。
あとは…、あっ、一時期YouTubeで見ていたのは、美容外科医がひたすら患者の顔から角栓かくせんを取り出していくヤツ…。笑(←ニッチすぎる)

そして、この2つは幸いなことに、どれだけやっても「合法」なんです。僕は運良く、総量が決まった自分の欲求を、社会的に許される方向に分配している、という考え方。

人によっては、誰かと交際したい、とか、子どもを育てたい、とか、裕福な暮らしをしたい、とか、
そういう「大多数的に持っている」と思われる欲求がない場合がありますが、それは欲が少ないのではなく、その分だけ別の方向に欲求の分配を多くしているだけ、という要領の思想です。
株における資産の振り分けと少し似ているかもしれません。


そして、ようやくゲームにつながりますが、
僕は中1のとき(2013年)プレステPlayStation3の『塊魂かたまりだましいトリビュート』にめっちゃハマって、全クリ2周しました。

今思えば、あれは人間のサイコパス欲の1つの体現例だったのかな、と。
雪だるまを転がすように街を滅ぼすなんて、普通に考えたら世界の終わりですよね。
その絶望感を感じさせないようにしているのが「異世界の王子」という物語の設定や、呑気のんきすぎるBGMなどといった、
トータルで「マイルドな印象」をプレイヤーに与えるための工夫というか、心理的操作というか、その辺はクリエイターたちが知恵をしぼったんだろうなと思います。


先述のスケボー場を建設するのが「物理的な解決策」だとしたら、このゲームを発売するほうは「情報的な解決策」ってところでしょうか。


加えて、最近ではDiscordディスコードなど、オンラインでやり取りしながらプレイするというスタイルも広がっています。
ゲームがもたらしたのは「合法的に犯罪をする方法」だけでなく、「合法的に知らない人と出会う方法」でもあったのです。

現代では多くの人がスマホを持っていて、交番で道を尋ねる人とか、CDショップの店員に発注をお願いする人とかがほとんどいなくなりました。
つまり、対面での会話が減り、前例のない「孤独感」とたたかう人が増えたのではないでしょうか。実際、若者の間でマッチングアプリが流行っているという現状が、その深刻さを可視化しています。
現実世界とはまた別の種類の「自分の居場所」を、ゲームという仮想的バーチャルな空間が提供しているのです。

それだけではありません。ゲームは手足の不自由な人に、画面の中でスポーツを楽しむ権利を恵んだし、
社会情勢や戦争のせいで仲良くできない異国のプレイヤー同士が、「匿名性とくめいせい」によってオンライン上で仲間になることも可能です。


このように、人間が欲求を満たすための「方法の不足」という根本的な課題に対して、ゲームは「情報的な解決策」の1つとしてていされているのです。

…なんだかまとまりのない文章になってきましたが、これ以上長くなるとヤバいので、一旦終わります。
あぁ、要約できない…、、、。 (完)

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