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おれたちは小説で人生を救われたことがなかった、だけど小説を書き、どうしようもなく書き続けてしまい、小説がなくても生きていけたおれたちが小説を書くことで、いったい小説のなにを知り、触れることができるというのか。

本そのものは不変であって、いっぽう、ひとびとの意見はそれに対する絶望の表現にすぎないって、ねえ、靴子ちゃん、わかるかな、わたしたちが言っていることはどれもこれも絶望の表現でしかないんだよ、わたしたちがなにを言ったとしても、この話のなかでおこったことはなにも変わらないんだよ、この話のなかで彼は死につづけていて、彼女だって死に続けているんだ、そしてこの話をしたわたしはかれと彼女とはべつに生きつづけていて、この話を聞いた靴子ちゃんもまた生きつづけているんだよ
──桜井晴也「愛について僕たちが知らないすべてのこと


 もうじき9ヶ月になるしたの子はじぶんではできないあらゆることをだれかに求めるとき、その感情を世界そのものと同化させるようにして泣き声をあげる。それをきいたうえの子は3歳と4歳のちょうど中間を生きていた。かれは軌道の制御もままならない寝返りとずり這いをする妹のほっぺたをぺちぺち叩いたり、身体をゆすってみたりしてたしなめるのだった。うえの子はもうじぶんがそのように泣いていたことをはっきりとおぼてていないのかもしれないけれど、現在のかれが泣くときもまた、かれの認識しうる空間に亀裂をいれるかのような絶体絶命の声をあげる。1歳を過ぎればじぶんと他人がちがう存在だと感覚的に把握できるようになるのだと神戸市からもらった育児のハンドブックかなにかには書いてあって、そうかんがえればうえの子にとって、すべての世界を射程とした妹の泣き声が、すぐそばにいながらもちがう時空のできごとにおもえているのかもしれない。子どもが泣くとき、統一を問わず、単数複数さまざまな世界が震える。しかし声をあげて泣いたり、涙を流すとしても理性の外へ感情が出ていかないおとなのぼくにとって、泣きかたを忘れてしまったことは世界の失いかたのひとつのあらわれなのかもしれなかった。

 先日、小説を書く友だちと話をした。小説、あるいは文学と呼ばれるものについて、もしじぶんの人生にあらわれなかったら、なにかに絶望したり、なにかを深く考えたりしなかったのだろうか、あるいは、社会生活に対するなんらかの支障がきたさなかっただろうか、とかそういう話で、すくなくともぼくらにとって、小説や文学と呼ばれるものに救われたことなどない、愛すべき作品や再読をよろこびとできる作品こそあっても、それによって人生が肯定されたり、勇気付けられたり、人生のありかたそのものを良い方向に向かわせてくれたと確信できるできごとはなかった。ぼくは友だちのことはわからないし、プライベートなあれこれにはお互い踏み込まないけれど、ぼくがどういう家族とどのように暮らしているのかや、週にどれくらいのペースで自慰をしたりするのか、好きな食べ物、動物、恋愛のあれこれについて語ることが真にプライベートなことといえるのかもはっきりいってよくわからない。考えかた次第では、過去や現在に読んできた本やその文脈によってなにかを語ることのほうが、実生活をつまびらかに語ること以上にプライベートなことなのかもしれず、そのとき話した「おれたちは文学に救済されなかった」という実感は、ぼくの子どもたちの泣き声と同様に、世界そのものに直接関与してしまうものなのかもしれない。小説や文学と呼ばれるたぐいのものがどれだけ好きで、世界同等のありかたをしていたとしても、小説や文学と呼ばれるたぐいのものたちはそこに存在するすべてのものたちを祝福するとは限らず、また小説や文学と呼ばれるたぐいのものたちのなかに息づいたものたちのすべてが、救済のひかりに照らされるわけでもなく、それを望んでいるわけでもない。世界のすべてが同時に正午を迎えることがないように、陽の光のもとだけが安住の地や時間ではないように、環境という特定の時間や場所への適合によってぼくらは生きているのだろう。真昼に公園を散歩する犬にフクロウの狩りのよろこびは決してわからない。
 問題はといえば、それでもぼくが小説を読み、書いてしまうということだった。機会があって、中村文則の作品を初期から現在まで順番に読んでいて、その過程で中村文則は文学による救済をあとがきで書いていた。中村文則「何もかも憂鬱な夜に」を読んだ。設定の射程がより広大になったと同時に、一人称が「僕」となりより個人的な方向へ思考を向かわせようという気がした。死刑囚と刑務官という関係性は丸山健二「夏の流れ」を思い出した。気になったのは「救済」と「読書」の関係性だった。
 中村文則は「僕は文学に救われた」と別の本のあとがきで述べていたのだが、そうした文学の価値や意義について、この小説ではかなり直接的に関わってきている。それゆえの「明るさ」と「説教臭さ」があるのだが、文学に救われるというのはどういう感覚かを、ぼくはうまく想像できない。ぼくはといえば平凡に生活し、たまたま文学に触れたに過ぎなかった。それゆえに文学の必要性を感じながらも絶対的な意味や価値について語ることばをぼくは実質的になにも持っていない。
 じぶんが「小説を書く」という行為をするにおいて、この問題をこのまま無視し続けるわけにはいかないような気がした。「小説を書く」という行為じたいにその必要性は宿えないだろう。小説はだれかに読まれることによってはじめて完成する、なんていうよくいわれることばがあるけれど、小説そのものはだれに読まれなくても、むしろ書かれることがなくてもどうしようもなく存在してしまっているとぼくはおもう。「小説を書く」とはその絶対的に存在してしまっているものを見つけ出す行為であって、書き手の内的な感情や抑えがたい衝動や人生経験などは、土の中に埋まっている小説をどの場所からどんな道具で掘り起こすかのちがいにすぎない。内的衝動や作家のオリジナリティやら人間性やらが小説を洗練させるのではなく、掘り起こしうる小説が多少変わるだけの問題だろう。20代の作家が30代や50代や70代になったほうが「良い作品を書ける」なんてことはそもそも論点がおかしいわけで、20代のわたしが書くことによって見つけ出せる小説を、30代や50代や70代になったわたしが見つけ出せないという事実について、すくなくとも30代のぼくは真剣に考えたかった。

 桜井晴也「愛について僕たちが知らないすべてのことを読んだ。 ぜんぶで700枚くらいある長編だが、著者のブログに無造作に放置されているみたいに掲載されていた。桜井晴也の小説はこれまでデビュー作である「世界泥棒」しか読んだことがないけれど、過去10年間の新人賞受賞作でずばぬけてよい小説だとおもっていて、この規模の小説をまた読めることをずっと待っていた。しかし、文芸誌や書籍ではなくこういうかたちだったことに、ぼくはあまりいい気持ちになれなかった。「愛について僕たちが知らないすべてのこと」はとてもすばらしかった。
 この小説は文字通り、愛について語られなかった「すべて」を語り尽くそうとした小説で、特異な状況が設定され、登場人物たちは互いに物語を語り合うことでこの世界のこと、みずからの世界のこと、信じたいこと、信じたくないこと、そして愛についてのすべてを戦わせる。少年少女の日常的にやりとりされる恋愛や友情が世界そのものと同化した生活のなかに、兵士たちが乗り込んできて少女の花びらに恋心を告白した隆春を射殺し、戦争を持ち込み、射殺した隆春を食べてしまう。この小説は世界対世界の壮絶な戦いを描くために、物語のなかに幾重にも物語がつらなるきわめて複雑な構造をもっているけれど、しかしこの小説を書くために使われた技術のことを考えるのはこの小説を読んだということにはならない。この小説がほんとうに対立しているものは「真実」と「真実性」という概念であり、小説の技術についての考えることは、「真実性」についての表層的な思考をすることでしかない。この小説が語っていることは「真実」だとおもった。
 ぼくらが虚構と呼ぶもの、つまり、ぼくらが生きる世界を現実とみなす前提でけっして起こりえないことについて、ぼくらは通常それを「真実」とみなさない。ときに小説はそうした世界や状況をあつかうのだけれど、そうした虚構性の高いものをあつかうとき、小説を評価しようとする意識はそれがどの程度の「真実性」を持っているかを検討する。小説を上手くなるというのは、その「真実性」なる尺度の値をひたすらに上昇させることだろう。しかし真実性は真実にどこまでも近づきつつも、真実そのものにはなりえない。真実性という尺度で小説をやる以上、けっして真実になれないことを考え、真実になりえないという軽薄さでしかものをいうことができない。「愛について僕たちが知らないすべてのこと」という大きな小説はそうした「真実性」という尺度を棄却しながらも徹底的にフィクションという世界や状況を追求しているという、見方次第では大きな自己矛盾をはらんでいる。しかし、この自己矛盾にも見えることじたいがこの小説の最大の野心であり、文章を読むという行為が可能なすべての人間にとってゆいいつ持ち得るこの小説を真実だと信じられる視点が、わたしという主体がいま現在「小説を読んでいる」という状況で、この状況を世界そのものとみなせるかどうかが読者にまず問われている。
 ぼくはこの小説をとてもすばらしいとおもい、できるだけ多くのひとに読んでもらいたい、できれば出版されるべきだ、と強くおもう。しかし、この小説を読むために必要だろう前提が、もし前述したようなものが存在していたとしたら、小説が生活において何よりもたいせつなひとでない限り、この小説を受け止めることはできないかもしれないとおもった。小説や文学のたぐいでなければ絶対に考えることはないだろうことへの思考をこの小説は要求していて、おそらくは多くのひとにとって、小説や文学のたぐいでなければ考えなかったことを考えるための方法を知らない。もしかしたら小説を書くぼくでさえもそれは知らないのかもしれないし、永遠を思わせるほど長く物語を語り続ける登場人物や、作者自身でさえもその方法を知らないのかもしれない。この小説が語られたり書かれたりすることでその方法のひとつが仮定的に提示されているのかもしれない。そうした不安を抱えながらここに書かれたすべてを「すべて」として読むことが、きっとこの小説が志した「すべて」なのだろう。しかしそれはあまりにも厳しい。心を癒したり、物語の快楽としてたのしんだりするやりかたで、ぼくや作者ではないひとたちが小説を読む理由をぼくはうまく想像できない。ぼくはどうしようもなく小説を書いてしまうからこそこの小説を読了できたにすぎないかもしれないが、きっと世の中の大多数のひとはもっと現実的な快楽や知恵を求めているのかもしれない。小説を書くことで生きようとするとき、これはもっともおそろしいことにおもえた。同時に、小説や文学のたぐいで救われたという実感の持てないじぶんが、この小説を読み、なにかをおもい、考えることが許されるのかもおそろしくなった。この小説で考えられるだろうすべてのことはあらかじめこの小説のなかに書かれていた。だからきっと、この小説を読み、考え、想起するすべてはこの小説の終わらない続きになるだろう。その続きという夢を信じられるかどうかが、もしかしたら小説や文学のたぐいよる可能なひとつの救済なのかもしれない。想起され、提示された世界という場所において思考されたものや感情として発露されたすべてはかなしいくらいに真実だ。それはふたりのぼくの子どもたちが泣くようなやりかたに似ている。「真実性」を乗り越えるために子どもたちは涙を流す。おとなになってしまったぼくにとって、その泣きかたをおもいだすために必要なのは上手に泣くことではない。子どもたちの泣きかたともきっとちがっているし、だれかの感情に共感することともちがうだろう。ほんとうに必要なのはきっと、たったひとりの他者のいない世界でほんとうの涙を流せることだとぼくはおもった。

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