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自己紹介:詳しい病歴②

自宅で療養していてもなかなか良くならず、むしろどんどん悪化していった日々を思い出し、やはり今でも胸が苦しくなります。
私なりに無理せずマイペースを忘れずに、自分のこれまでを振り返るためにも書いてみようと思います。


1回目の病気休職

「産後うつ病」と診断されて休職することになった私ですが、S病院は転居後の自宅から通うには遠くて不便だったので、先生に紹介状を書いてもらって近所のI病院に転院しました。
I病院でも引き続きレクサプロ(抗うつ薬)等が処方され、自宅でひたすら横になっての療養生活が始まりました。

無理して買い物に出かけようとして、道端で倒れて救急車で運ばれた事もあります。
近所の買い物すら行けなくなった自分はこれからどうなるんだろう、仕事に復帰したばかりなのに突然会社を休む事になって周りに迷惑をかけまくってしまっている、育児も家事もできない、横になる事しか出来ない、自分にここにいる価値なんてあるんだろうか…。

先行きが不安過ぎて、全く何もできない自分が信じられず、激しく落ち込んでは布団の中で泣き続けていました。

この頃、子どもは仕事復帰に伴い保育園に預けていましたが、休職後は自分で保育園の送り迎えが出来なくなり、全て夫に任せていました。
転勤先で夫は仕事と育児を1人で抱え込み次第に疲弊していき、あれほど優しかった夫が常にイライラして家族に八つ当たりするようになってしまいました。

心配した実母が実家から関西にきて同居しようと言ってくれたものの、この同居が上手くいかず、イライラする乱暴な夫を見て「こんな男と結婚して良かったのか」と暴言を吐かれ、夫と実母の喧嘩が絶えませんでした。
何もかも上手くいっていた幸せな生活が私のせいで一瞬で崩れてしまった事に絶望し、早く元気にならなきゃと気持ちは焦るものの体は全然動かない。

終わりの見えない療養生活が本当に辛かったです。

躁転し1回目の医療保護入院~双極性障害

服薬治療を始めて3か月、一向に私の症状は改善が見られなかったため、抗うつ薬のレクサプロの量がどんどん増えていきました。

そしてある日、私は急に異常な程元気になり、全く眠れなくなりました。
眠れないので夜暇になり、SNSで友人の近況を見ていたところ、急に思い立ち家族に何も言わずに家を出て、アポも取らずに東京の友人に会いに行こうとして電車で空港を目指しました。
当然心配した家族に捜索され、駅で駅員さんに保護されて自宅に帰り、何故そんな事をしようとしたのか家族に聞かれましたが自分でも何故なのか上手く説明できませんでした。

しかしその後も、服薬を続けながら授乳も続けたいと思い、I病院受診時に薬のデータベースを調べた結果を持参して科学的根拠を示しながら先生に授乳したい思いを熱く語ったり、1人でUSJに遊びに行きたいと自転車に乗って再び家を飛び出したりと、多弁・過活動の傾向が顕著になっていきました。
また私が急に行方不明になったと警察に捜索願を出され、警察に保護される事態も起きました。

もう家族には手に負えない、自宅療養を続けられない状態となり、入院施設のあるH病院に転院となり、そのまま医療保護入院(家族同意の下の強制入院)となりました。

H病院に最初に夫と一緒に来た時は、何故転院するのか私自身には良く分かっておらず、夫に尋ねても「なんでやろな…」とはぐらかされるばかりでした。
私以上に夫も頭がおかしくなった私を見て、辛い思いをしていたのかなと今となっては思いますが、当時は自分の良く分からない症状に戸惑うばかりで夫の辛さに気づけませんでした。

普段通りの精神科通院の初診だと思っていたら、H病院の病室に通されて病院着に着替えさせられ、病室に鍵をかけられての隔離生活が始まりました。
夫と一緒に自宅に帰るものと思っていたので、ものすごくショックでした。
何で自分を病院に1人きりで置き去りにしたのか、何も説明もなくいきなり鍵をかけられ閉じ込められなきゃいけないのかと、夫や病院に対して怒りと不信感でいっぱいでした。

薬の処方はジプレキサ(抗精神病薬)・リスパダール(抗精神病薬)・デパケン(気分安定薬)・サイレース(睡眠薬)と大きく変わり、診断名も「双極性障害」に変更になりました。
薬が変わったためか、その後は外に飛び出したいという衝動に駆られることはなく、落ち着きを取り戻すことが出来ました。

しかし何の説明もなく急に入院になり、いつ退院出来るのか見通しが全く立たなくて不安だったため、弁護士会に電話相談して弁護士さんに来てもらう事になりました。
弁護士さんの勧めで退院請求(自分の意思でなく入院した患者が退院を求める手続き)をして、1か月半で退院する事が出来ました。

入院中はいつの間にか通常よりも食事の量を増やされていて体重が10kg増えてしまい、退院後はまず近所のジムに入会して筋トレをしようと思いました。
しかし元の通院先のI病院に戻った時、この行動が過活動の症状だとして再度の入院が必要かもしれないと診断され、H病院に戻るのは嫌だったので別の入院施設のあるO病院に転院することになりました。

O病院の先生は私と夫と実母を別室に呼んでそれそれの話を親身に聞いてくださり、抑うつの症状が強いものの入院するほどでもないとの診断で入院せず通院で様子を見ることになりました。
薬の処方はエビリファイ(抗精神病)とデパケン(気分安定薬)に変わり、この組み合わせが私には合っていたのか抑うつ症状は次第に和らいでいきました。

1回目の復職に向けたリワーク

O病院での通院がしばらく続いた後、やはり入院は必要ないとのことで元の通院先のI病院に戻る事になりました。
この頃は気分の落ち込みがそれほど大きくなく、毎日TVを見たり自分の好きな事を少しずつできるようになってきました。

と同時に、元気になってきたから早く復職したいと思うようになり、O病院からの私の落ち着いた様子を書いた意見書を渡して読んでもらう事で、I病院の先生も私の思いを理解してくれて、復職に向けたリワークプログラムに取り組むことになりました。

リワークプログラムでは毎日決まった時間にI病院に来て、規則正しい生活を心がける事、服薬をきちんと続ける事、リラックスして気分を落ち着かせる事、自分の気分の落ち込みを自分でコントロールする事の大切さを臨床心理士さんから教わりました。
I病院でのリワークプログラムに参加する以外では、自宅から会社までの通勤経路を往復して通勤の練習をしたり、図書館に通って新聞を読む練習をしたり、休職中でも出来る事は何でもやってみようと自分なりに努力を重ねていました。

そして精神疾患による休職から10か月後、産業医面談を経て私は久しぶりに職場に復帰する事になりました。

当時を思い出すのは辛くなるので、、今日はまたこの辺で終わります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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