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「東山魁夷展」についての考察

会期の最後の週末に滑り込みで行ってきた。東山魁夷展。
非常に良い展覧会だった。いい作品(正確には、自分の心を打つ作品)に出逢うとたいてい背筋が凍り、ぞっとした感覚になる。この展覧会ではそれがとても多かった。

まず展覧会を楽しめた理由の一つは、よい友人と一緒に行ったからというのもある。彼女は思ったことを比較的そのままの言葉で言ってくれる人なので、素直で的確な発見を共有できる。一度心の中で加工された言葉では、当たり障りのない表現になってしまって発見が薄まってしまうものである。

魁夷の絵は唐招提寺でその襖絵(展覧会にもあったもの)を見てから、好きだった。なので好意的な解釈も含んだうえでいくつか気づいたことを備忘録的に記録する。

まず、彼の絵の構図は「盆栽的」だと感じた。世界を造っていくのではなく、捨象していく過程が美しい。そこにある輝く月を敢えて枠の外に配置する。本来は見えるはずの木々を背景色に溶け込ませる。林の存在を水面の影のみで示す。など、我々の無意識の中で雑多なものを無くし、かつ無意識に存在を意識させるのは、俳句的でもある。

構図といえば、彼の絵の一つに山体を堂々と描いた「光昏」があったが、それは山を画面の中央よりも高い位置に配置している。これは一見不安定な構図であるが、一緒にいた友人の「実際に山を見上げるのと同じ角度だ」という気づきを聞いて、これは完璧な構図なのだと気づいた。我々はネット上や本の中では絵を正面から、いわばサイズ感を無視してみることが多いが、ホンモノの強みはそのサイズ感である。この絵が展示されているとき、我々の視線は山の麓にあり、仰ぎ見て初めてその山の存在感に圧倒されるのである。魁夷は自然を、本当に自然な視点で描けているのだ。

自然という観点では彼の用いる色彩にも注目したい。彼は日本画家であるが、絵そのものは写実系油彩画に見紛うリアリティをもつ。北欧連作などは特にそうで、「白夜」「白夜光」などはとりわけ写実性が高い。しかし、よく絵画に張り付いて画面を見ると(これは油彩についても言えることなのだが)、なかなかに案外な色遣いをしているのである。この色遣いは、ある意味近代西洋画的な発想でもあるが、別の意味では魁夷が「人の目というレンズを通したあとの景色を写生している」のだと思った。いわゆる「心象風景」というものである。心に残った色、モノ、形だけを残して、残りを排するというのは、実にアンチリアリズムでもあり、逆に我々が感じるところのリアリティでもある。

しかし排されたものは見ることができない。だがローデンブルク連作のひとつの絵「静かな町」を見て友人が言った「あ、人がいる」という気づきに一つの答えがあっただろう。彼の絵は、ほとんど人や動物が描かれていない「風景」なのである。後期の作品群のなかに、白馬が描かれるが、あれは空想された存在であった。絵画から生命を捨象するというのは、どういう意味があるのか、考えさせられる。

もう一つ捨象されるものは、「個性」である。彼はその土地の風景を描いていながら、絵のタイトルに固有名詞が出てくることが少ない。いくつか反例はあるものの、固有性を排することは、すなわち普遍性につながると感じた。これは名前に限らず、風景そのものが特別な何かではない、その土地のありふれた風景を描いているということもある。この感覚が魁夷の絵画が郷愁を思わせ、多くの人に愛される一つの要因であろう。

最後に、よく見れば見るほど、彼の絵は非常に「日本画的」なのだ。例えば時に空を金色に描いたり、岩々の輪郭を縁取ったり、奥行という概念を排したり、琳派的な表現を借用したり。しかしそこに近代画的な物の見方を加えることで独自の安定感を持たせたのが魁夷という画家だと思う。


ちなみに、最も好きだった絵は「白暮」である。良さは実物でしか伝わらないと思うので、写真は載せない。所蔵は天童市美術館だと思う。実物を見に行ってほしい。

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