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ハードボイルド書店員日記【124】

「レジ袋はご入り用ですか?」「……」

入荷が多くて出勤人数の少ない木曜。パートがふたり有休を取り、社員のひとりも正月休暇。やることは変わらない。レジ時間が多いだけだ。

開店からレジに入る。膨大な荷物がまだブックトラックの上に残っている。大半は大人の事情でしばらく返品できない。本部が一律に注文したのだ。しかも旬を過ぎた定番ばかり。こんなことを続けていたら全国どこも同じ品揃えになり、客層や立地への配慮が意味をなさなくなる。他社との差別化も図れず、お客さんを退屈させてしまう。

交替時間になった。来ない。品出しが終わらないか問い合わせで捕まっているか、あるいは。無人にはできないからカウンターに留まり、カバーを折る。5分、10分。別に構わない。売りたくないうえにさほど売れない本で限られたスペースを埋める仕事など馬鹿げている。返品率を抑えたいらしいが、そもそも無駄な発注をするから返品が増える。本の旬は後方にいてもわからない。各々の現場で感じ取るものだ。

老紳士がゆらりと近づいてきた。いつもの文芸誌を携えている。私以外の全従業員に嫌われている人だ。典型的な瞬間湯沸かし器。「店長を呼べ」「社長に伝えろ」「何年通ってると思ってんだ」が三種の神器である。

「いらっしゃいませ」「……」「ポイントカードはお持ちですか?」返答はない。いつものことだ。袋もカードも要らないのはわかっている。他の人は訊ねることすらしない。私は違う。我が身に置き換えると気が変わる可能性もあるからだ。今日だけは袋が必要かもしれない。

お釣りを渡し、レシートを最後のページの真ん中にセロテープで貼り、栞を最初のページに挟み込む。これらを怠ると「いい加減覚えろ」「マニュアルを用意してないのか」と怒鳴られる。黙っているからいまのところ大丈夫なのだろう。

「あなたさ」来た。全身に力が入る。「はい」「新しい店長?」一瞬言葉に詰まった。「違います」何度も接客しているはずだ。「ちゃんとできてるじゃない」「ありがとうございます」「レジの脇にマニュアル張ってる?」「いえ。覚えました」かすかに表情が動く。希望的観測かもしれない。

商品を渡した。まだ帰らない。「あのさ」「はい」「武藤敬司って知ってる?」また口籠る。知らないからではない。知ってるなんてレベルではないからだ。「1984年10月5日。蝶野正洋」「ん?」「デビューした日と対戦相手です」メガネの奥の落ち窪んだ目が膨らむ。「プロレス詳しい?」「多少は」嘘だ。最大限に謙遜しても、プロレスとビートルズと太宰治に関して私より詳しい者はこのフロアに存在しない。

「昔よく見てたんだ。彼引退するでしょ?」「21日の東京ドームですね」「何冊か本が出ているけど、どれが売れてるとか面白いとかわかる?」「少々お待ち下さいませ」ベルを鳴らす。申し訳なさそうな顔で来るのを横目にカウンターを離れた。怒ってはいない。もし彼が対応していたらお互いのためにならなかった。

「お待たせ致しました。こちらはいかがでしょうか?」KADOKAWAから2016年に出た「生涯現役という生き方」を見せる。「蝶野との共著か」「前半が武藤選手、後半が蝶野選手の独り語りです。ぜひ21ページを」「21ページ?」こんなことが書かれている。

「生涯プロレスラーだから、俺は引退試合をする気もないんだ」
「俺は引退しない。もしも一人で歩けなくなっても、それなりの試合を魅せる方法はいくらでもある」

「そういうことか」大きく頷く。「ここまでプロレスを愛していても辞めざるを得ない。それぐらい身体が限界なんだな」「おそらく」「他にはどんなことが?」記憶を頼りにパラパラ捲る。「ここも印象深いです」37ページ。

「プロレスの仕事ができるから大事にされてるようなもの。だから普段から人には嫌われないようにしてる」
「リングを下りたら俺はただの人。それどころか困った人間。自分のそんな弱点を知っているからこそ『仕事で輝いてやる』という意欲も湧いてくる」

意外な一面だ。若い頃から天才レスラーと褒め称えられ、リング上の佇まいにも自信が漲っているのに。「やっぱりあれだよ」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」明らかに目尻が緩む。「わかってるね」「何となくそうかなと」「うん、これを頂こう」「ありがとうございます」

帰り際、老紳士は足をひきずっていた。膝が悪いのは武藤選手と同じ。性格は真逆かもしれない。だが望んでいることを先回りすれば、ちゃんと認めて喜んでくれる。一方的な本部よりもよほど尽くし甲斐がある。こういう人に嫌われない書店で生涯現役を全うしたい。

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