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「美学」が心を打つ理由

たとえば野球。ピッチャーがどれだけ凄い球を投げても、それを受け止めるキャッチャーがいなければ意味を成さない。

たとえばかつてのアップル。スティーブ・ジョブズがどれだけ斬新なアイデアを閃いても、それを形にする開発部やできあがった商品を売る営業がいなければ会社は続かない。

しばしばプロレスの魅力として語られる「受けの美学」。その正体は目立たぬところで踏ん張る者たちの「我々がいなきゃ回らないんだよ」という矜持です。そこを掘り下げるのは悪いことではありません。私も好きです。

一方SNS等で時折見受けられる論調に「ん?」となるのも事実。勝ち続けるスターを貶めるために「アイツが輝いているのは対戦相手の受けが巧いから」という理屈が持ち出されるのです(先日私が記事にした北尾 vs ビガロ戦みたいに、ほぼ受け手の手腕だけで盛り上がった試合があるのもたしかですが)。

陽の当たる存在ではなかった「受け」の技術が評価されるようになったのはいいことです。でも人気選手へのルサンチマンを正当化する目的でそこに触れるのはどうでしょうか。そもそも受け身の目的は「怪我をしないこと」。高校で柔道を習ったときもそう教わりました。あくまでも己を守るためにおこなう行為なのです。

たぶんですが、越中さんは前田さんの蹴りを受けるときに「派手に倒れて目立ってやろう」とか「アイツの強さを客に伝えよう」なんてことは考えていなかったと思います。ただただ怪我をしないように、それこそ命懸けで痛みに耐えていたはず。その必死な姿が結果的にファンの心を打ったのです。

献身性と自己顕示欲は紙一重。「ここまで頑張ってる私を褒めて」という念が過剰に伝わったことで褒める気が失せたという経験は誰しもあるはず。「美学」はことさらに評価や賞賛を求めない。だからこそ「美学」なのです。 

越中さん、子どものころテレビの前で毎週応援していました。同級生もみんなあなたが好きでした。決して勝ち続ける華やかなスターではなかったのに(失礼)。また会場であなたのファイトを見て熱くなりたいです。

さあ今日もやってやるって!​

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