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世界とか世間とか

人間ならば、一人一人それぞれ大なり小なり世界を持っている。それは私、私の周りの家族、友人、恋人であり、会社、学校、地方自治体、国、そして全世界だ。

人はこうした世界に、いわば入れ子のように存在しているといえる。私は家族の一部であり、家族は自治体の一部である、という風に。ここにどこが欠けてもいけないし、またどこが独立してあるということはない。わたしはあなたであり、あなたはわたし。一は即ち多であり、多は即ち一である。部分は一つの全体であり、その全体はまたさらに大きな世界の部分なのだ。それが世界の基本構造だ。

しかし、それは観念の中だけのお遊戯に過ぎないのではないか。理屈の上では、確かに私は世界を構成する一部でありながら、その全てであると言えるかもしれない。だが、我々の実感の上に立ち現われてくる世界はどこまでもいっても私である。私は私であり、以上でも以下でもないという地平である。私が世界や宇宙になど、どうしてなり得ようか。その先を証明しようというのは哲学や宗教の役割であり、まさに世俗的実感の世界を生きている人にとっては、立ち入るべきではないのだ。

だが、この存在の入れ子という構造の中に、世俗的実感からでも認めうる要素を見受けることもできる。それは私からはじまって、家族や隣人、恋人から会社までといったレベルである。大多数の人はこのレベルの存在を認める。それが当人にとってあって当たり前のもの、乃至なくてはならないものだからである。お国のためと誰もが確信し命をささげられるわけではないが、稼ぎがなければ食うに困る。人は孤独では生きていけないから、隣人は必要である。これを損なえば個人の実存が危ぶまれる。だからこの領域は認めるし、認めざる得ないのである。

仮にこれを世間と呼ぶことにしよう。世界という言葉では本当に個人を超越した領域のように思われるが、世間はそうではない。私の身の周り+αが世間である。大多数の人はそれをもっており、それを生の中心に据えて日々を過ごし、死ぬ。世間への参入は誕生時から自動的に行われ、その脱退は死以外にはあり得ない。

時に、その世間にピッタリしすぎるとそれ以外の世間が奇異に見えることがある。それはあたりまえである。誰であれ、他人の家を拝見したら、大なり小なりびっくりする。例えば私は柔軟剤を使っているご家庭にはいつもびっくりする。私の世間では柔軟剤を使うということはまずない。あそこまでケミカルな匂いをよく周囲で許容できるなと思う。これが世間と世間の、日常的なレベルから見た違和である。これが飛躍していけば社会や文化、国レベルの世間の違和ということになり、その先には歴史的に言って悲惨な事態が待っている。

最近その世間の違和というものを、ニュースを見ていてつくづく感じる。例えば日本の官僚は「世間にぴったり」の典型である。まさに彼らは彼らの中だけの世間で動いている。私の世間の目から見れば、冗談じゃない、何を間抜けなことを言っているんだということが往々にしてある。それは官僚たちが共有している世間に、私や私に類する人の世間が存在していないからこそ、起きることなのである。

存在していない世間を、すでに固有の世間が出来上がったところに持ち込むことは困難である。私が官僚の世間を理解しようと思っても、無理な話である。それを間接的に知るだけである。

その「間接的に」という枕詞は、しかし重要である。我々が他の世間を知る時、それは往々にして間接的にしか為されないからである。近所の世間ならば私の柔軟剤に対する違和のように、直接的な経験から世間の違和を感じることもある。しかしそれは違和を感じる基点が直接的な経験なのであって、その世間を知るのが直接的なわけではない。この場合は直接的な経験を元に他の世間を類推し、私の世間とは違うと判断する、間接的な認識である。そして世間を、拡大すれば世界のすべての知るという行為は、ほとんどがこの間接的な認識、類推によってなされる。類推の積み重ねが所謂科学であると私は思う。そしてそれだけが理解に及ぶ最良な方法なのである。

それを放棄すると、人は独我論、断見に陥る。これが個人ならば、まだ救いようがある。しかし、共同体なら、一つの共通の世間がそれに陥っているとしたらどうか。一つの全体がさらに大きな全体の部分としてあろうというのではなく、部分としての在り方を放棄し、一つの全体としての独我を貫こうとしたら、どうなるのか。その果ては、やはり歴史にお伺いを立てるべきであるかもしれない。

そしてそれを揺り戻すことは果たして可能であるのか。巨視的、大局的に物事を扱うにも限りがある。どうにもならない場合、個人の死と同じように、大きな世間もまた死に、新たな世間の構築を期待するしかないのであろうか。

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